清鑑院大学(せいかんいんだいがく)
清鑑院大学は、江戸時代後期に公家の立場を超えた自由な学問の場を志した高橋在長が創設した清鑑院塾を前身とする歴史ある私立大学である。建学の理念は「自由・叡智・実学」であり、身分や性別を問わず高等教育を提供し、和漢洋の知を架橋する実学の探究を基本精神としている。
明治期に清鑑院塾は実質的な大学組織へと発展。時には政府と協力しつつも独立性を維持し、近代日本の学問の発展に寄与した。特に法学・自然科学・工学・医学の分野で優れた人材を輩出し、日本の近代化に貢献した。
1.発展の歴史と理念の継承(幕末期:多様な思想の融合と試練)
幕末期、清鑑院塾はかつて尚歯会で培われた自由な討論の伝統を継承し、佐幕派・尊皇派・攘夷派といった多様な思想を包摂しながら、公家・武士・庶民が参加する合議制の政策決定の先駆けとなることを目指した。
しかし、時代の激動の中で塾生たちは政治的立場の違いから分裂し、士族層は流動する情勢に翻弄される。一方で、教育の場を求める平民層が中心となり塾は存続し、その精神は後代に受け継がれた。これが、のちの学問の自由や自由民権運動の知的基盤となっていく。
2.明治以降の大学への発展と独立性
明治維新後、清鑑院塾は政府と協力する場面もあったが、中央集権的な教育行政に組み込まれることを拒否し、私立大学へ改編。独立性を守りながら発展を遂げた。
この時期、多くの卒業生が政財界、法曹界、学術界に進出し、建学の理念「自由・叡智・実学」が次第に大学の校訓として確立されていった。
3.明治後期の内部迷走と改革の試み(実学偏重の問題と高橋伯爵家の介入)
実学系の学部を中心に急速に発展し、日本有数の学府となった。しかし、実学の徹底により実用面が過度に強調され、本来の在長が思い描いた自由な思想の論談が軽視され、学生の倫理観や人文的教養が軽視される傾向が生じた。
授業や研究の場で倫理的議論が欠落し、軍事研究や軍部との協力が進む。日清戦争・日露戦争後にその傾向が強くなり、これを憂慮した創設家高橋伯爵家は内部改革を試みたが、在長亡き後の合議制運営では反対意見が相次ぎ、逆に高橋伯爵家の権威が低下してしまう。
結果として、高橋伯爵家は大学運営から徐々に排除され、関連団体の運営に専念することを余儀なくされた。一方、創立家という権威を排除した大学首脳陣は代わる新たな権威として、軍部との協力を積極的に推進し、私立の体裁を保ちながら、実務面で軍の統制色が濃い研究拠点へと変貌していく。
やがて、軍部の統制色を強めたい大学関係者は、高橋家が反戦を公言していた事情も踏まえ、軍部の協力を得て高橋家の一部関連団体を実質的に掌握し、中野に特殊教育機関とその関連施設を設立するに至った。
4.戦後の再編と高橋家の権威の復活(GHQの教育改革と大学存続の危機)
戦後、多くの大学が変革を迫られる中、軍部との関係が深かった清鑑院大学はその変革の象徴として設置認可見直し・接収・研究停止の噂が立つ。それに危機感を覚えた高橋伯爵家は、爵位や資産の返上を通じ、また創設者・高橋在長の理念がGHQの方針と一致しており、その理念に立ち返る事を説き、大学救済に乗り出した。高橋家が戦前からどんな非難に晒されようと反戦を貫いていた事も評価され、清鑑院大学は処分を免れ、高橋家も特例として運営に参画することが認められた。
一方で運営復帰が決まった高橋家は仁孝天皇による『清鑑』の御宸翰の存在を公表し、拓本・影印の形で史料公開を行った。戦前から伝わる歴史的正統性を盾に、高橋家が首脳運営で主導的な立場を再確立した。民主化政策とは裏腹に、高橋家はその伝統的権威を前面に出すことで、運営の中核に立つこととなった。
高橋家は権威を元に強権的な再編を進める。中野にあった諜報施設を表沙汰にしたくない政府と、それを整理したい高橋家の思惑が一致し、後始末を引き受ける形で、中野にあった関連施設を接収解除・用途転換の指定を受け、新たな拠点として再構築しつつ、本部機能を新宿キャンパスへ集約するなど、大胆な再編を主導した。
それが一段落すると高橋家は主導的な立場を辞し、学長や教授陣の人事は学内自治の原則に基づいて決定される本来の意思決定に戻り、学校法人としての独立性は堅持された。
5.人文学部の導入と学問のバランスの回復
戦前は実学偏重の結果、倫理や文化的教養が軽視され、軍部協力への傾倒という悪癖が露呈していた。戦後、これを反省した高橋家の主導のもと、学内に専門委員会が設置され、哲学、歴史、文学などを中心とする人文学部の強化拡張が決定された。
これにより、理論と実践、倫理と実学が融合する総合教育体制が確立され、大学全体の学問のバランスが回復された。
6.大学の特色
・討論文化と実学の融合
清鑑院大学は、建学の理念「自由・叡智・実学」に基づき、議論を重視する学風が根付いている。特に弁論系サークルが非常に多く、学内では活発な討論文化が形成されている。また、法学部・国際経済学部・総合政策学部の学生は国際模擬国連(MUN)や政策フォーラムへの派遣機会が多く、国内外でのネットワークを築いている。
・学部ごとの特徴
実学系学部(法学・理数・工学・医学・情報科学)は課題・レポートが厳しく、出席管理も徹底、特に理工・医学系は実験・実習が多く、夜遅くまで研究に励む学生が多い。
文系学部(人文学・総合政策)は自由な雰囲気があり、学生同士の議論が活発、一方で、学問を突き詰める者と、自由すぎて堕落する者の二極化が進みやすい。
・国内外での評価
清鑑院大学は、国外の世界規模の大学ランキングでも上位と評価とされている。特に法学・政治学・医学・自然科学分野では世界的な評価が高く、海外の有力大学との提携も多い。
また、毎年多くの学生がアメリカ・ヨーロッパ・アジアのトップ大学へ交換留学や共同研究のために派遣されている。英語での授業枠が非常に多く、結果として国内評価より海外評価のほうが高い傾向にある。
・設置学部
理系:理学部/工学部/農学部/獣医学部/医学部/薬学部/看護学部/医療衛生学部/情報科学部
文系:人文学部/法学部/商学部/教育学部/国際経済学部/総合政策学部
芸術系:音楽学部(外部組織だが、松森音楽学院が音楽学部の扱い)
清鑑院大学の主な同窓会組織として、戦前から理系学部は「品川会」、人文系学部は「源頭会」の二つがあった。
しかし、戦前の両会は非常に仲が悪く、長年いがみ合っており、戦後の改革の際にも、この対立を大学運営に持ち込もうとする動きが見られたため、高橋家が主導して「清鑑院同窓連絡会」という身も蓋もないほど単純な名前の統括組織を設立。
両会を強制的にその傘下に収め、現在では公認同窓会組織はすべて加盟している。
ただし、公式行事では卒業生の強い希望もあり、「品川会」「源頭会」の名称が優先的に使用されるため、世間一般には「清鑑院大学の同窓組織=理系の品川会、文系の源頭会」というイメージが根強く残っている。
清鑑院同窓連絡会の会長には必ず高橋家の当主がつき、嫡子がいる場合は会長代理や副会長が用意される。
・品川キャンパス(東京都品川区北品川)
発祥の地、大学としては記念碑だけがある。跡地は系列の小中高一貫校が使用している。
・新宿キャンパス(東京都新宿区西新宿)
本部機能あり、文系学部が中心。法学部、商学部、教育学部、国際経済学部、総合政策学部、人文学部、その大学院がある。2000年以降に北棟、南棟、東棟と順番に近代化、建替えを行っており高層化している。
大学創設時に政府から払い下げられた旧武家屋敷跡に建設された。昔は浄水場と専売局工場に挟まれており、ガラが悪い地域で、当時軽んじられていた文系学部が押し込められた。ただ当時の学生たちはその雑多感ある雰囲気を楽しんでいたようである。浄水場、専売局工場の閉鎖とともに一部敷地を買収して拡張していき、副都心としての再開発とともに現在に至る。
・青山キャンパス(東京都港区南青山)
医学部、看護学部、医療衛生学部、大学病院がある。また医学系の大規模な研究施設も付属している。
土地は明治期に青山家の下屋敷の一部を担保として融資した資金が、返済の見込みがなくなり高橋家が所有する事になった。
高橋宗家が本邸を構えた場所であり、戦後に大学へ寄贈された。江戸時代から続く日本庭園が敷地内に現存しており、一般にも開放されている。
・中野キャンパス(東京都中野区中野)
理系学部が中心。理学部、工学部、農学部、情報科学部、薬学部、獣医学部と、また理系学部附属の中高一貫がある。建替えにより施設のほとんどが最新化されているが、一部戦前の施設が残っている。
陸軍の特殊教育機関があった土地で、この教育機関は人的・物的の両面で清鑑院大学との関係が強かったため、戦後、政府はこの施設群の扱いに苦慮し、接収解除・用途転換の指定を受けたあと大学に帰属した。
・武蔵境キャンパス(東京都三鷹市井口)
清鑑院大学の学生寮がある。清鑑院大学の音楽学部としても扱われる松森音楽学院と共用しており、松森音楽学院の前期課程のキャンパスや、付属の音楽高校も併設している。
軍部と関係が深かった時、主に軍事関係の実験場として軍部・政府を通じて買収した広大な土地。一帯をほぼ占有する規模だった。
戦後は新宿と中野に施設を集約した上、軍事関係を放棄した事もあり、広大な土地は必要なくなり、需要に応じて切り売りしていったが、今でもかなりの広さを持つ。
ほとんどの施設が古く、新しいものでも昭和・平成期に建てられたもの(音楽高校の校舎)、古いものだと戦前から改修や補修を繰り返して使用している建物もある(半地下の音楽ホール)。
その他、日本全国に研究施設や系列の幼稚園・小学校・中学校・高校を多数持っている。
・関連項目
高橋在長
高橋家(伯爵)
清鑑院塾