双方向の視線
カタカタカタカタカタ……
カタカタカタカタカタカタカタ……
カン・カン……
カタカタカタカタ……
妻の執筆活動を、覗いてしまってからやってきた、次の週の日曜日である。
妻は今朝も、相変わらず一心不乱にキーボードに『何か』……おそらく、『The Watchers』
と名付けられた作品なのか……どういう目論みなのか……
それの執筆活動を熱心におこなっている。
共働きである我が家の掃除は、夫婦内の暗黙のルールで分担されており、
私はベランダの窓拭きをおこなっていた。
……?
窓に手の跡がついている。跡のあたりを擦ってみるが部屋側を擦ってもなかなか落ちない。
疑問に感じながらも、外側からガラスを擦ったら、手の跡は綺麗に落ちた。
普段の私なら、こんなことを気にすることは別にない。
我が家に空き巣なんて考えづらいし、私か妻の手形だろう。
……なんとなしに、手形が拭き落ちた跡に、自分の手を重ねてみるが、
私の手よりも大きい手跡のような気がする。
……考えすぎだ。きっと、仕事で疲れているのだ。
ところで『The Watchers』。
確か、タカオとかいう男が、向かいの部屋の男を覗き見るという物語……だったと思う。
私は、その物語が気になって仕方がなかった。
別に物語の本筋が気になっているわけではない、具体的には、どうして妻がこれの執筆に熱心に取り組むようになったのかが
気になっていた。
何度も言うようだが、妻が今から文豪の仲間入りをし、印税で食べていく野心があるなんて、
10年そばにいた身からしてみれば信じられないのだ。
そうでなくなって、私以上に書も嗜まない。漫画も読まない。ドラマ、映画は愚か、YouTubeで動画を見ているところすら見かけたことがない。
創作活動とは無縁と言わざるを得ない生活をしている彼女だ。突然火がついた……というのはどうしても考えづらいのだ。
だとしたら、妻があれを書く理由はなんなのだろう?
……自分に対する、何かしらのメッセージか何かだろうか?
……ここのところ、妻とは会話が減った。もともと多い方ではなかったが、具体的に、
会話がなくなった。
妻は妻で執筆に熱中しているし、私は困惑の空を漂っているのみだった。
……いや、私も熱中していた。
そんな妻の執筆を、『覗く』と言う行為に……
私たちは、会話もない夫婦だ。それでも、10年付き合ってきて、これから40年は一緒に暮らそうという運命共同連体だ。
妻が教えてくれなくても、私はそれが何を意味するのか知っておく必要があるのではないか……?
私はそのような疑念でがんじがらめになっていた。
妻が、また洗濯を終えた衣類を、干すためにカゴに移しにせきを立ったのを確認して、私は、音もなく立ち上がり、
そっと、妻のモニターを眺めた。
そこには、また『The Watchers』 から始まる、物語の続きが書かれていた……。
『The Watchers』双方向の視線
タカオは、この趣味をやめようかと思い始めていた。
夜ごと向かいの部屋を覗き見る行為は、最初は些細な好奇心から始まった。 だが今では、何か別の感情が混ざっている。単なる興味ではない。 「覗く」ことが「覗かれる」ことに繋がるのではないか――? そんな不吉な予感が、彼の中で膨らんでいた。
それは、あの夜の出来事からだ。
向かいの部屋の男が、カーテンを完全に開け、真っ暗な室内で椅子に座っていた。 何もせず、動かず、ただじっとこちらを見つめていたのだ。
――気のせいだ。 ――偶然、目が合っただけだ。 何度もそう言い聞かせた。だが、それ以来、タカオは夜になると、向かいの窓を見ずにはいられなくなってしまった。
見ていなければならない、という感覚。
その日も、彼は息をひそめ、カーテンの隙間からそっと向かいの部屋を見た。 男は、相変わらずパソコンに向かっていた。キーボードを打つ音は聞こえない。 ただ、画面に映る文字が、こちらにも読めるほど大きくなっていることに気がついた。
「見ているのは、お前だけか?」
タカオの喉がひゅっと鳴った。まるで問いかけられているような錯覚。 彼は思わず後ずさり、カーテンを閉めた。
おかしい。何かがおかしい。
ここ数日、ずっと感じていた違和感が形になり始めていた。 部屋にいるとき、誰もいないはずの場所から視線を感じる。 ふと振り返っても、もちろん何もない。
そして、もう一つ気になることがあった。 カーテンを閉めても、男の画面に映る「お前だけか?」の文字が、脳裏から離れなかった。
翌朝、タカオは試しに部屋のカーテンを完全に閉めた状態で、一日を過ごしてみた。 外の様子は見えず、安心感があるはずだった。 だが、夕方になると、不思議なことが起こった。
窓ガラスに、うっすらと「手の跡」が浮かんでいた。
まるで誰かが、外から窓を触ったかのように。 タカオはぞっとして、すぐに雑巾を持ってきて拭き取った。
――気のせいだ。湿気のせいだ。 そう思い込もうとした。
しかし、その夜、彼は気づいてしまった。
拭いたはずの窓に、再び「手の跡」が浮かび上がっていることに。 しかも、それは「部屋の内側」についていた。
……
……
え?
読み終わった私は、嫌な予感がし、さっき拭いた手跡のついたガラス戸を見た。
そこには、新しい手跡がついていた……。