7.なにもしてません!!!
次の朝、まだ日が昇らないうちに目が覚める。
というか、昨晩ルーベルはほとんど眠れなかった。
ルーベルの腕の中でフィアリルが寝落ちたからである。
泣きじゃくるフィアリルの顔を、ずっと見ていた。
何度も、フィアリルを抱く妄想をした。
腰に抱きついて、服をめくって、彼女の柔らかい肌に口づけたかった。
フィアリルがルーベルに一瞬でも慰めを求めたのなら、間違いなくそうしていた。
今、ルーベルの腕の中ではフィアリルが穏やかな寝息を立てている。
フィアリルが裾を握ったまま離さないので、それは脱いでフィアリルの傍に置いておいた。
ずいぶん幸せそうな顔で眠ってくれる。
(俺の気も知らないで)
ふいに、口づけてしまおうか、という気持ちが頭の中を掠める。
薄紅色に潤んだ、柔らかそうなくちびるをじっと見つめる。
そうだ。俺たちは夫婦で、昨日は抱きしめ合って眠った。何も気兼ねすることなんてないんじゃないのか。
鼻先がくっつきそうなほど顔が近づく。柔らかく潤む彼女のくちびるまで、あと、ほんの少し。
「んぅ……」
「なにもしてません!!!!」
ぺしょんと寝返りを打ったフィアリルから慌てて離れる。
無罪を証明するかのように両手まで上げて。
(あぶなかった、俺)
何をやってるんだまったく。
寝込みを襲うなんて最低な人間のすることである。ましてや、彼女が自分を好いてくれているかもわからないのに。
昨日、抱きしめたのは、フィアリルが求めていたからだ。
きっと、あの場にいたのが誰であっても、彼女は抱擁を受け入れただろう。
ルーベルを巻き込まないように、ルーベルが気にせずこの先を選択できるように―――全身で拒絶するふりをして、その実誰かのぬくもりを求めていた。
(誰でもいいなら、俺でもいいだろ)
―――そう割り切って、抱き締めたのに。
これじゃあ王太子と変わらない。
(フィアリルが嫌がることはしない、フィアリルが嫌がることはしない……!)
彼女のくちびるからなんとか己の目線を引き剥がし、顔を洗って着替えを済ませ、身支度も一通り終わらせる。
気を紛らわせようと、昨日作りかけだった硝子牡丹の髪留めを手に取った。
先ほどの衝動を忘れようと必死で思考を目の前の髪留めに向けた。
作り終わる頃には山の向こうから日が顔を出し始めていた。
「おはよ……」
寝ぼけまなこをこすりながらフィアリルが起き上がる。
長いふわふわの髪がさらにふわふわに広がって、金茶の瞳がとろんとふやけている。
寝起きの奥さんがかわいい。
へにょりと弧を描いたくちびる。
(―――キス、したい)
さっきの今で、ルーベルの脳みそは、もうそんなことを考えている。
ルーベルは、自分で自分に呆れた。
フィアリルはぺたぺたと歩きながら洗面所に向かった。
かと思えば、ほんの数分で戻ってくる。
装飾のない、レイヴンのシンプルなワンピースを身に纏っていた。
ふわふわの髪はゆるく編まれている。
「おまたせ。行こうか、ルーベル」
「支度、早いんだね」
「まあね」
ふっふーんと得意げにフィアリルが笑う。
早くも部屋を出ようとする彼女を呼び止めた。
「ねえフィアリル、これ、よかったらもらってよ」
ここ最近作っていた硝子牡丹の髪留めを差し出す。
フィアリルは驚いたように目を見開いた。
「綺麗……どうしたの? これ……」
「つくってみました」
「ルーベルが?」
「うん」
手汗がひどい。声が震える。
突然物を贈るなんて、おかしなやつだと思われたりしていないだろうか。
そもそもフィアリルが硝子牡丹の意匠を気に入ってくれるかもわからない。
でも、変に意識してしまったら、もう渡せなくなってしまいそうで。
今のルーベルは、ほとんど勢いでフィアリルに髪飾りを渡しているのだった。
フィアリルが髪留めを手に取って、いろんな角度から透かすように眺める。
なんだか気恥ずかしくて、彼女を直視できない。
知らなかった。自分の作ったものを直接人に渡すのって、こんなに緊張するのか。
ルーベルの緊張を知ってか知らずか、少しの間をおいてフィアリルが口を開いた。
「すごい……ほんとにいいの? わたしがもらっても」
「うん。もちろん。そのために作ったんだし……」
そう言うと、フィアリルはぱっと笑顔になった。
まるで彼女自身が硝子牡丹の花みたいだ。
(なんて、直接言えよ、俺)
「ちょっと待ってね」
フィアリルが鏡を覗き込んで、三つ編みの根元に髪留めをつけた。
ふるふるとたしかめるように首を振る彼女の髪が、ルーベルの視界でふわふわ揺れる。
「どうかな? 似合う?」
硝子牡丹のモチーフの連なりが、フィアリルの髪の上できらきらと輝いている。
その髪留めの、あるべき居場所を見つけたような、そんな、しっくりくる感じがした。
「うん。すごく、似合う」
その言葉の一文字一文字に全部の感情を乗せるように、答える。
「そっかぁ……! ありがと」
にこにこと、嬉しそうに笑って何度もたしかめるようにフィアリルの手が髪留めに触れる。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
***
見惚れている場合ではない。いや見惚れるに決まってるんだけど。
部屋を片付け、俺たちは一階まで降りた。
正面玄関の前ではメアリさんとリチャードさん、それにノーマンが待っていた。
「おーし来たな。急げ急げ。次に向かうならブリンゲバールがいい。バールベリーっていう木の実が有名なところだ。この道をまっすぐ行くと乗合馬車の駅があるから、ブリンゲバール行きに乗れ。治安が良くて、セレリス・フォレストまであまり回り道でもない」
「わかった。ありがとう」
礼を述べると、屈託のない無邪気な笑顔が返される。
「いーんだよ。……嬢ちゃん、いいかい。ブリンゲバールに居る俺の知り合いに話を通しておく。着いたら商業ギルドを訪ねて、ラルフ・ハリスってやつの名前を出せ。きっと助けてくれるはずだ」
「は、はい。ありがとうございます」
「んで、はいこれ」
「へ、へ? なんですか、これ」
「メアリさんのサンドイッチですよ。ぜひ道中でお食べください。ルーベル君がいるから毎日の食べ物には困らないでしょうけど、移動中でも食べやすいですから」
リチャードさんが人差し指を立てながら笑顔で説明してくれた。
茹でたジャガイモをつぶして塩で味つけたもの、燻製肉を薄くスライスしたもの、ゆで卵をつぶしてマヨネーズと和えたもの。
それらが柔らかいパンに挟まって、バスケットにキュッとつまっていた。
「お、おいしそう……」
「あらぁ、おばちゃん、嬉しくなっちゃう。この宿の名物なの。まあ、レシピの発案はあなたのお隣にいるルーベルちゃんだけどね」
きらきらした目でルーベルを見てくるフィアリル。
はいかわいい。
全俺かわいい選手権優勝。
「ほら、そろそろ行こう。馬車の時間もある」
照れくさくてついつい先を促す。
乗合馬車の出発時間が近いのも本当だからな! うん! しょうがない!
「本当に、なにからなにまでありがとうございます……!」
フィアリルが礼を言って頭を下げ、先を歩きだした。
リチャードさんとメアリさんにも礼を言って、ルーベルも歩き出そうとする。
すると、不意に肩を掴まれた。
振り向くとノーマンが耳打ちしてくる。
「キス、しちゃえばよかったのに」
ばっと手を振り払って振り返ると、さっきの人の好さはどこえやら。にやにやと楽しそうにノーマンが底意地の悪い笑みを浮かべている。
「のぞき見とはいい趣味してるじゃないかノーマン。今おまえに将来ハゲる呪いかけたから」
「起こしてやろうかと思って行ったらおまえが変なことしようとしてるのが悪い。ちなみに寝込み襲うのはおすすめしねえぞ」
「誰がするかよ。おまえじゃないんだから」
「どの口が言うんだよ。てか俺もしねえし。同意があるならいいんだよ同意があるなら。ないならさっさともらっとけ同意を」
「それができたら苦労しません」
そんなおまえにいいことを教えよう、とノーマンがひそひそ声で俺に言う。
「女の人はな、包容力のある男が好きなんだそうだぞ。昨日女性客が話してるのを聞いた」
ルーベルはげんなりした顔をノーマンに向けた。
普通にドン引きした。
「ノーマンおまえ、そんなことばっか言ってるとマジで将来ハゲんぞ」
「ハゲねぇし!」
憤慨する未来のハゲは無視して、俺も頭を下げる。
「ほんと、いろいろとありがとう。また来ます」
「へいへい、次のおかえりを一同お待ちしておりまーす。とっとと行きやがれ」
宿のみんなと別れて、前を歩く背中を追いかけた。
振り向いたフィアリルに追いついて、並んで歩く。
「なにを話してたの? ルーベル」
「なんでもない。ノーマンが将来ハゲないといいな、って話」
「??」
まさか朝のキス未遂を見られてましたなんて言えるわけがない。
フィアリルは少し訝しげな顔をしたが、特に気にした風もなく、話題を移した。
「ブリンゲバール行きの馬車は鐘六つが鳴るのと一緒に出るみたい。少し急ごう」
「うん」
乗合馬車の駅がある広場に着くと、ブリンゲバール行きの馬車はすぐに見つかった。
既に何人かが乗りこんでいて、御者が「そろそろ出発だよー」と声を出しているのが聞こえる。
ルーベルたちも慌てて乗り込む。
あとからもう数人乗りこんだところで、御者が声掛けをやめた。
「それじゃ、出しますよー」
御者の男の人がそう言ったとき、少年が一人走ってくるのが見えた。どうやらこの馬車に乗るらしい。とても急いでいるように見える。
なんとか間に合って馬車に乗ろうとするが、台が外されてしまっているせいで小柄な少年は中々乗り込めないようだった。
「あの、まだあと一人……!」
御者に待ってもらうよう声をかけようとしたが、馬を見ていて気がついていない。
「「つかまって」」
咄嗟に手を出したら、フィアリルと被った。
少年は差し出された二つの手のひらを驚いたように見て、どちらもを同時に掴んだ。
馬車が動き始める。
「「せーの!」」
なんとか少年を乗り込ませることに成功し、ほっと胸をなでおろす。
「あぶねー。君、怪我はない? 大丈夫? ごめん、早く気づけなくて」
「大丈夫だよ! おにーさんも、おねーさんも、ありがとう!」
お礼を言った少年に、フィアリルがにこにこと笑って頭を撫でる。
いいなぁ。俺にもやってほしい。
ルーベルたちが席に戻ったところで馬車は出発した。
ごとごと、と音を立てて町を進んでいく。
「ノーマン坊っちゃん、いつまでも薄着で外にいると風邪を引きますよ」
「おう、わかったよリチャード。戻る戻る。…………あ、」
「なんです」
「ブリンゲバールにはドラゴンが出るよってルーベルに言うの忘れてた」
重要な情報を言われそこなったルーベルたちを乗せて。