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6.王太子の婚約破棄



 セントランドの王太子、正確には、()王太子であるが……兎にも角にも、マティアス・セントランドは焦っていた。

 目の前のソファに座る女、公爵令嬢ルルフィーナに婚約破棄を切り出されたからである。


「おまえ、僕との婚約を白紙に戻したいだなんて、それは正気か?」

「ええ。わたくしはつとめて冷静でございます。それに、もう国王両陛下の承諾もいただいております。あとはあなたがこの書類にサインすれば、この件は終わりですわ。マティアス元王太子殿下」


 出された紅茶を優雅に口に運びながら、ルルフィーナはそう言った。

 「おまえ」だなどとあなたに呼ばれる筋合いはございませんわ、と付け加えるのも忘れない。


「なんでだ。僕を誑かそうとしていたあの悪女はもうここにはいないんだぞ? 君と僕が婚約を破棄することに一体何の意味が……」


 せっかくフィアリルを追放したのに台無しだ。

 なにより、今ルルフィーナとの婚約を破棄してしまえばマティアスには後ろ盾がなくなってしまう。なぜか王太子の座を保留にされいている今、なんとしてでも国王によいところを見せねばならないのだ。

 そのためにも、ルルフィーナの生家であるミットフォード公爵家の助力が不可欠だというのに。


「あら、まだそんなことをおっしゃいますの? 殿下。…………本当に、何も見えてらっしゃらないのですね」


 ルルフィーナは冷たい一瞥をマティアスに向け、呆れたように息をはいた。

 まるでわかっていない、と言わんばかりに嘆かわしげに首を横に振られる。

 自分だけが蚊帳の外なのだと突きつけんばかりのその仕草にマティアスは苛立ちを隠せない。


「なんだと? ルルフィーナ、誰に向かって物を言っている。俺は……―――」

「もちろん、あなた様に向かってでございますわ。マティアス()王太子殿下」


 マティアスはぎりっと歯を噛んだ。なんとかして目の前のすました顔の女を黙らせる術はないだろうかと必死で考えを巡らせるが、残念なことになにも思いつかない。


「勘違いしていらっしゃるようですから、はっきり申し上げますわ。フィアリルは悪女ではありません。わたくしの友達です。彼女は『追い出された』のではなく『逃がされた』のでございます。あなた様の元から」


 どういうことだ。

 フィアリルはずっと僕の傍で次期王妃の座を狙っていたじゃないか。毎晩の誘いにも、乗りさえしなかったが満更でもなさそうだったじゃないか。

 そうだ。あの女が一番悪いのだ。せっかく政務を手伝わせてやっていたのに、その礼すらしないような女なのだ。だというのに、いつもいつもあの女ばかりが評価される。うんざりだ。


 フィアリルが毎晩愛想で切り抜けていただけとも知らず、そんなことを思うマティアス。

 それをひしひしと感じたのか、ルルフィーナの目がすっと据わった。


「わたくしたちのような為政者は、リー子爵家のご令嬢をなによりも大切に扱わねばならないと、小さなころから口を酸っぱくして言われてきたではありませんか。あなたはそれを破った。身分上断れないのをわかって、フィアリルをベッドに連れ込もうとしていたと、何人もの使用人たちから証言が取れております」


 マティアスはぎりぎりと歯を食いしばった。

 なにか、なにか言い返さなければ、マティアスが非を認めなくてはならない。

 それはいやだ。


「ふん、あんな下級貴族の分際で僕の誘いを断ろうと考えるのがおかしいんだ。僕の閨の相手だぞ? 普通、何をおいても承諾するだろう」


 言いながら、自分の正しさが輪郭を持つような心地をマティアスは感じた。

 そうだ。子爵なんていう下から数えた方が早いような階級の貴族の娘を自分が慮る必要性などない。


 しかしその考えも、ルルフィーナの次の一言で打ち砕かれた。


「リー家が子爵という爵位に置かれたままなのは、ほかならぬリー家初代当主がそう望んだからです。ほかの国でも貴族としての爵位を許された身として、それぞれの国で子爵以上の地位を望むのは、外交上よくないというお考えがあってのことだわ。リー家は代々それを守り抜いているだけのことです」

「なっ…………」

「まさか……ご存じなかったのですか? この国の王太子ともあろう方が!」


 リー子爵家が他の国でも爵位を持っているだと? そんなことが可能なのか?

 あまりの衝撃の事実に、マティアスは愕然と目を見開いた。


「聞いたことくらいは、ある……」

「お話になりませんわね」


 ルルフィーナは残った紅茶に口をつけた。

 それを飲んだら帰るつもりなのだろう。


「あの女は僕がやっていた政務に口出しだってしやがったんだぞ!」

「『していただいた』の間違いではありませんこと? 遠く離れた賢者と対話出来て、妖精界との連絡すら付けられる彼女の政務は常に完璧でした。いつも民のことを考えた良い政治をしていた。あなたの代わりに!」


 ルルフィーナの額に青筋が浮かんだ。ティーカップを持つ手が怒りに震えている。


「わたくしが、毎晩遅くまで残って仕事をしている彼女をどんな思いで手伝っていたかお分かりになりますか、殿下。大事な友人があなたに迫られているのに、わたくしがあなたの婚約者なせいでそれを相談できないと知ったときの、わたくしの気持ちを。あなたを欺きながら彼女を国外に逃がすために、あんな、彼女を悪女と罵るような、くだらないシナリオの茶番をしなければならなかったわたくしの気持ちを!」


 ガチャンと大きな音を立ててティーカップが置かれた。

 普段から冷静沈着で声を荒げるところなど一度だって見たことがなかったルルフィーナのこの剣幕には、マティアスもさすがに怯まざるを得なかった。


「なにより、こんな不名誉を着せられて祖国を追われたフィアリルの気持ちを……」


 ついにルルフィーナはマティアスの首根っこを掴み、キッとまなじりをつり上げて睨みつけた。

 その冷たいアイスブルーの瞳が、あたたかい涙であふれてにじむ。


「考えたことがあんのかって聞いてんだよボケが!」


 しゃくりあげながらそう叫んで、ルルフィーナはマティアスの襟をぞんざいに離した。

 投げ捨てられた形でマティアスはソファに倒れこむ。


「あれしか、してあげられなかった……。一人で行ってしまいそうなあの子に、無理やりでも供をつけることくらいしか……。フィアリルが、あなたの夜の誘いに乗るわけがないでしょう……! 一番傍であの子を見ていたのは、誰だと思ってらっしゃいますの……」


 大粒の涙を零しながらもマティアスを睨むのをルルフィーナはやめなかった。

 それが、王太子を止められなかったことがどれだけ悔しいかを如実に表しているようだった。


「さっさとサインしてください。そして金輪際、わたくしに関わらないでくださいませ」


 突きつけられた書類に、マティアスは息も絶え絶えにペンを走らせる。

 書き終えるやいなやルルフィーナが書類を掻っ攫い、記録官の方に目くばせをする。

 そしてマティアスの方には一瞥もくれずに背を向けた。


「それではごきげんよう。もう二度と会わないことを願いますわ」


 そう言ってルルフィーナが部屋を出て行く。

 マティアスが立ち上がるのを待たず、記録官たちも次々に席を立っていく。


 フィアリルがこの国を追放されてから、今まで自分の傍に居た人間が揃いも揃って手の平を返していく。

 周りの人間はマティアスを慕っていたのではなく、その近くに人事配置されたフィアリルを慕っていただけの話なのだが、それがわからないマティアスは裏切られたような気持ちでいっぱいだった。


 そうだ、フィアリルだ。あの女さえ、この手に取り戻せれば…………。


 部屋に一人残されたマティアスは、ずっと、閉められた扉を憎悪の目で睨みつけていた。



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