43.妻には秘密が多すぎる
フィアリル・リーは子爵令嬢である。
具体的に言えば、フロストランド、東諸国のいくつかの国、ヴィスドム、それと、セントランドに子爵籍を置くリー家の一人娘である。
幼い頃から、高度な結界魔法、賢者との連絡魔法などを含む魔法一通りと、勉学、音楽、政務エトセトラ―――リー家の娘として果たすべき役割のための努力を決して怠ることなく育った。
おかげで学院ではそこそこのカーストの中で目立たずに生き残ることができたし、王宮勤めの職もすぐに見つかって。
おおよそ色恋とは無縁な世界に入り込みつつも、それを気にしなくていいほどには自立した生活を送ってきたと思っていた。
―――あの日、王太子である男にキスを迫られるまでは
最初は小さな違和感から始まった。
フィアリルだけにと手渡されるやけに高価な謎の贈り物。
ある日突然配属された王太子執務室。
そこで向けられる、あからさまな視線。
すぐに、上司に相談した。
もみ消された。
父親に上申させるわけにはいかない。
フィアリルと違って、本当に貴族としての責務を背負った人なのだ。一令嬢の不快感ごときで台無しにしていい努力ではない。
王に直談判すればあるいは。けれど、そんなことを、今、フィアリルが言えばどうなるか。
想像のつかないフィアリルではなかった。
自分だけの被害ならまだしも。
そうでなくとも、貴族なんて、どんなに小さなほころびからでも失脚しかねないというのに。
もしもそんな賭けに出てフィアリルが負ければ、取り返しのつかないことになる。
あの頃、ただ過ぎていく日々が苦痛だった。
どうやって逃げるかということだけを考えて、絶対に叶わないであろうことを再確認して、絶望することの繰り返し。
ただ一人の、親友ともいえるほどの人物は、形ばかりといえども、フィアリルに迫る男の婚約者で。
相談できるわけがなかった。耐える方がましだった。
だってルルフィーナだったら―――本物の、ヒロインであったら。
きっと、フィアリルを助け出そうとしてしまうから。
あの日は、救いの日だった。
そして同時に、失恋の日だった。
あの国外追放の命令が、フィアリルのためのものだとは想像がついていた。
―――追放は絶対です。
そう言ったルルフィーナの顔は、フィアリルといるときとは違う、表に居るときのための顔。
だって、万が一ルルフィーナが悪意を持ってフィアリルを貶めようとするなら、しがない子爵令嬢の首はとっくに斬られている。
―――フィアリル・リー。あなたの婚約者を決めました。
そう言って凛と優しい声でルルフィーナが指さしたのは、フィアリルを拘束していた一人の戦士。
ネコっ毛が印象的な、見上げるほどの上背の、たくましい男の人。
いい人だということは、わかっていた。
フィアリルを拘束するときに、決して跡がつかないような強さで握っていてくれた人。
好きになるのに時間はかからなかった。
そして好きになった途端に、自分は失恋するのだということも、知っていた。
だってルーベルの想い人は、ルルフィーナなんだから。
小物で偽物の、ヒロインと呼ぶのすらおこがましいような女ではなく、物語から抜け出してきたような、完璧でかわいいお姫様―――正真正銘のヒロインである、彼女なのだから。
そうでなければ、フィアリルのような女との結婚を受け入れるはずがない。
そうでなければ、フィアリルのような女を大切にするわけがない。
そうでなければ―――。
「るぅ……べ、る―――」
「ん?」
セントランドの奥地、アイスフィールド。
鬱蒼とした森の中の、美しき水を湛えた湖のそばにある、慎ましくも快適な、小さな家の中。
一年の大半が雪に覆われるこの土地に、ほんの一瞬だけ訪れる春の、その陽気に誘われてフィアリルは目を覚まし、ゆっくりと寝床から身を起こした。
今日こそ、夫に言わねばならぬことがある。
「おあよ……」
「おはよう、フィアリル」
「なんか、いー、かおり……」
「洗濯物干してたからかな?」
「ありがと」
「いーえ」
普通にしていると、ちょっと怖がられがちな夫の目元が、フィアリルを見てふにゃっと細められる。
その表情が、たまらなく好きだ。
「あのね、ルーベル」
「んー?」
寝室のカーテンを開けながら返事をする夫の袖を、くいっとひっぱる。
今日の話は、ちゃんと目を見て言いたかった。
振り返った夫は、フィアリルを心底愛しげに見て、それからそっと口づけた。
唇を触れ合わせるだけのキスから、だんだんと深さを増してくる。
「その……ん、ふ」
「なに?」
「―――ん」
「どうしたの」
真っ赤な顔で、フィアリルが、どん! と夫の胸を押しのけると、少々―――いや、だいぶ名残惜しげな顔をした夫が、渋々とフィアリルから身を離した。
ふ、ふ、と浅い息をはき、呼吸を必死に整えながらフィアリルは目で抗議する。
「や、だって、ふれないと可愛い奥さんがすぐ変な勘違いするからぁ」
「それにしたって限度って、もの、が……」
「えー」
「えーじゃない!」
そう言っている今でさえ、膝の上に乗っているフィアリルの髪に、夫が頭をぐりぐりしてくる。
何気ない動作の一つ一つが、フィアリルを好きだと雄弁に主張してくる。
「話があるって言ってるのに!」
「ごめん。可愛くて」
「許そう」
至極真面目な顔でそう言い放った夫は、フィアリルが腕を組んでうむと頷くと褒められた大型犬みたいな顔で笑う。
その笑顔に、何年経ってもフィアリルの胸はきゅんと高鳴る。
「それで、俺の大事な奥さんの、今日の秘密は一体何なの?」
夫もまた、何年経っても変わらない。
あの日、花冠を載せてくれた手で、ふわりふわりとフィアリルの髪を撫でる。
優しくて、大きくて、器用で。フィアリルの大好きな、ルーベルの手で。
「―――聞いてくれる?」
その手に頬を撫でられながら、そっと目を閉じてフィアリルは言う。
「―――あのね、わたしのお腹の中にね―――」
―――直後。
泣き出した夫の腕の中で、愛しい人の香りの中で、フィアリルは世界一、幸福だった。
【妻には秘密が多すぎる】
完
「妻には秘密が多すぎる」
無事完結いたしました。
最後まで読んでくださった皆様方には感謝してもしきれません。
書いている間は、書いている人物の気持ちに一緒になって乗ってしまい、あとからちょこちょこ足りない言葉を継ぎ足し継ぎ足しとやってきました。
自分にとっては、連載中に、学校のひとクラス分くらいの方にブックマークをいただけるなんて、夢のようでした。
いつもとても、励みになっていました。
ここから先は、番外編を都度あげていきます。
読んでくださった皆様、本当に、本当にありがとうございました。
櫻羽ひろ




