41.隠れたるより現るるはなし3
黙り込んだその男に、ルーベルは畳みかけた。
こわくて、フィアリルの方を向くことができない。
目を合わせてしまえば―――真剣に願われてしまえば、きっと、ルーベルは彼女を手放すしかなくなるのだ。
「フィアリルは俺と来るんだ。あんたがどれほど乞おうと、器のためだとしても、ここに返却してやるほど俺は人が好くない」
「何の話だ」
フィアリルに逃げられないよう、彼女の手を取る。
振り払われると思ったのに、フィアリルはなされるままだ。
「俺の妻は、他の誰にも―――あんたにも、髪の毛一本くれてやらんと言っている」
ルーベルはそう言ったのち、ピューイと指笛を吹いた。
賢者のおじいさんがやっていたみたいに。
「ちっ!」
聞き慣れた舌打ちはすぐに聞こえた。
なんだかんだ言いながら、迎えには来てくれる、優しいベンヌの舌打ちだ。
フィアリルの気が変わらないうちに、と彼女をふたたび抱き上げた。
「愛しい人にはさっさと伝えなよ。まだ間に合うじゃんか。そこに居て、その人もあんたを思ってるんだから」
若干の皮肉を込めて、ルーベルは言う。
あわよくば、フィアリルがこの男を諦めてくれやしないかというずるい期待も込めて。
「貴様は、そうではないというのか」
(ああそうだよ)
ぎゅうっと力を込めれば、腕の中で、フィアリルがびくりと体を震わせた。
フィアリルを抱きかかえたままのルーベルの肩をベンヌの爪が掴んだ。
ヴィンテルはちゃっかりその背に乗っている。
「俺の妻があんたを好きだったってことくらいは、わかってるつもりだよ。あんたの目と同じ色の簪をつけられちゃね」
だんだんと男性の姿は小さくなっていく。ルーベルが浮上しているからだ。
しかし遠目にも、その男性が腹を抱えて笑っているのは、よくよくはっきりと見えた。
「貴様! ……いや、おぬし! それ、ぜーんぜん、わかっとらーん!」
男は口に手を当てて、わざわざ大音声で言ってくれた。
「いーいことを教えてやる! 今日は戴冠式でなぁ! リー家の娘がつけてる簪は! 参加した女人は全員着けとるわ!」
わ、わ、わ、と反響したのち、「ありがとうなぁ」と叫ぶ男の声を遥か上空、山よりも高い場所でルーベルは聞いていた。
「へ?」
そして、困惑の声音と共にフィアリルの方を見た。
それを聞いたフィアリルは、絶望に満ちた表情をして、ぽつりと零した。
「こわされちゃったの……」
「え?」
「……ルーベルからもらった髪飾り。こっちに来るとき、ま、マティアス殿下に引っ張られて、こわされちゃったの……―――」
フィアリルの涙は、さっきからずっと止まらない。
普段泣かないかわりに、泣き出すとやまない。
けれど努めてそれを悟らせまいと、必死で涙を拭っている。
「大事に、思ってた。な、失くしたく、なかった。触れるだけで安心するほど、大切だった。だって、ルーベルからもらったものだもの。う、嘘じゃ……ない―――」
着ていた服のポケットから、彼女が何やら取り出した。
この布とビーズは、たしかに、ルーベルがフィアリルに贈った髪飾りのもの。
「ルーベルにしてみたら、単なる護衛対象に過ぎないわたしと結婚までさせられて―――ふ、不本意だったってことくらい……わかってる。贈り物すら守れない女に呆れてるのも……知ってる」
ルーベルは何も言えずにフィアリルを見つめていた。
「でも、ごめん。謝るから、もう二度とルーベルにひどいことしないから……だから―――」
手で顔を覆い、最後はほとんど声にならない、吐息交じりの声でフィアリルは囁いた。
「―――だから、居なくならないで」
息が、とまる。
フィアリルの顔から、そっと手をどけて、ぽろぽろと溢れる涙を拭う。
「わかってない」
「へ?」
「君は、君は何にも! わかってない……」
悔しかった。
ルーベルは命令でフィアリルの傍にいると思われている―――それ以上に、自分が何にも気づかずにずっとふてくされて居たことが、たまらなく。
信じないわけがない。
なんで、一言も尋ねようとしなかった。
決定的な言葉を聞くのが、怖かったからだ。
信じる、信じないの関係など、とうに過ぎていた。
そう思っているのはルーベルだけだと。思い知らされるのが、怖かったから。
「ちっ」と少し上の方から舌打ちが聞こえた気がした。
ついでに大きなため息もだ。
「喧嘩なら下でやれ」
そう言って、急激に下降したベンヌが少し開けた草原にルーベルたちをぽいっと落とす。
ベンヌは、頃合いを見計らって一言言ってやろうかと思ったが、心底バカバカしかったのと、頃合いなどなさそうだと悟ったのとで、それをあきらめた。
上に乗った冬の竜の、やれやれという声が聞こえてくる。
ベンヌはまったく同感だった。
とりあえず、二人の夫婦喧嘩の収束が先だ。
あとでまた来ることにして、その背にヴィンテルを乗せたまま、ベンヌはその場を離れた。
「何にもわかってなくなんかない! わかってるって言ってる!」
腕の中で、奥さんの金茶の瞳が怒ったようにこちらを見ている。
「わかってるもんか」
完全にふてくされていたルーベルは、その瞳を直視できずに顔を逸らした。
しかしその直後のフィアリルの言葉に目を見開く。
「だって! だって、ルーベルはわたしのこと、何とも思ってないじゃん!」
「え?」
(―――俺が、君のことを、なんだって?)
「『奥さん』だなんて言って大切にしてくれるのは、ルルフィーナ様が命じたからだって、ちゃんとわかってるもん!」
「は……はぁ?」
何だ? フィアリルは一体、どこから何を勘違いしている?
だって、なんでここで、公爵令嬢様の名前が出てくる。
「ルルフィーナ様がお願いしたからここに居てくれてるってことも、わたしがあなたにとって恋愛対象じゃないことだって、ぜんぶぜんぶ、わかってるもん!」
それはつまり何にもわかっていないということではないのか。
そう言いたくなる口をぎゅっとつぐむ。
「それでもルルフィーナ様のためにあなたは受け入れてくれるでしょう? ルルフィーナ様の命令だから、律儀に守ってくれるでしょう? それをわかってて―――ルルフィーナ様を好きなあなたが、断れないって知ってて―――その上で、わたしはあなたに「好き」って言ったから! だから!」
彼女の瞳にいっぱいになった涙は、また、こらえきれないというようにぽつりぽつりと落ちていく。
「―――……だから、ごめんなさい……」
―――あなたにはほかに好きな人が居るのに、『好き』だなんて言ってごめん。
「卑怯な真似してごめん。好きって言ってごめんね。困らせてごめん期待してごめん」
「フィアリル」
「今、来てくれてうれしいって、思ってごめん……」
その謝罪を聞き終える前に、ルーベルは口づけていた。




