39.隠れたるより現るるはなし1
なんだか王宮の方が騒がしい。そして元々多くはなかった牢屋近くの人の気配が、今は微塵も感じられない。
どこかで騒ぎでも起きているのだろうか。
なんであれ、それはルーベルにとって都合のいいことだった。この混乱に乗じて、牢からはさっさとおさらばしてしまうのが得策だろう。
早々とここを去れそうなのはありがたかった。
いくらルーベルでも、町で流行りの怪盗物のオペラも顔負けしそうな逃走劇を演じたくはない。できればこっそりひっそり抜け出したい。
拘束具を力づくで壊して抜け出しヴィンテルについているものも壊す。
ヴィンテルにしてみれば病み上がりでこんなことに巻き込まれて災難続きで申し訳ないばかりだ。せっかくぐっすり眠っていることだし、おぶって連れて行こう。
鍵のかけられた重厚そうな扉を蹴破る。
見張りらしき兵もいない。廊下を走っても人の姿がほとんど見えない。
おかしい。どんな催し事があるときでも、見張りやそれぞれの部屋付きの兵や門番は持ち場を離れない。セントランドではそうだった。
それが、今はどの部屋にもたった一人の番もいない。
それどころか、こんなに広い城で、使用人の姿も見えない。
(なんか、気味が悪いくらいだな……。ラッキーではあるけど)
この城の窓はすべて崖側が見えるようになっている。構造的に出入り口は二つだけ。正面玄関と使用人の出入り口だ。どちらに行くにも、あの庭みたいなところを通り抜けなければならない。
牢がある棟を出たあたりで、背中から声がかかった。同時にふっと背が軽くなる。
「ねえルーベル、今、どういう状況? 説明求む。二十文字以内で」
「おわっ! ヴィー! 起きてたの?」
「たった今だよ。あと九文字」
「言ってる場合か!」
ヴィンテルが、ルーベルの隣を何食わぬ顔でスタスタと走っている。
「出された茶に眠り薬が仕込まれてた。で、牢にぶち込まれた。たぶん俺たちが怪しさ満点だったからだろうけど。千歳草は持ってかれた。今は牢から逃走中」
「フィアリルさんは?」
「へ?」
なんでここでフィアリルの話が出てくるのだ。少なくともルーベルは、この国に来てからフィアリルのフの字も耳にしていない。
「なんで、フィアリル?」
「え、近くにいるじゃない。気配があるよ。知ってたからここに来たんじゃないの?」
「むしろこっちが聞きたい」と言わんばかりの顔でそう言われたルーベルの頭の中はハテナマークでいっぱいだったが、ひとつ思い出した。
賢者のおじいさんの家を出る前の夜、おじいさんはたしか、クルトゥーラの王宮に別嬪な娘がいると言ってはなかったか。
(もしかしてだけど、それが、フィアリルだってこと……? でもだとしたら、なんで……?)
考えてみれば、なぜフィアリルがクルトゥーラの者に攫われるのかもルーベルはよくわかっていない。
ブリンゲバールでラルフの話を聞いていた時は、東諸国と聞いて、チャー自治区やクラムのような場所を想像していた。
あのあたりは敬虔な女神信徒の多い地域だ。女神信仰の篤さから、フィアリルのような、竜と親交を測れる娘を聖女のごとく奉る国があるとは聞いたことがあったのだ。
けれどクルトゥーラはそれに当てはまらない。
(今回の件に、竜は関係していないのか……?)
疲れなど知らぬと言わんばかりの顔でペースを落とすこともなく隣を走るヴィンテルを見やる。
(……てか、なんで男児の体格で俺のリーチについてこれるんだろう……。うわぁ、ピッチえぐ……)
もはや「スタスタ」ではなく「スタタタタタタ」と言った方が正しいような足さばきである。
「あ、あとこれ」
走りながら、ヴィンテルがルーベルに向かって何かを投げた。見ると、没収されたはずのルーベルの武器である。
「うえぁ!? なんでヴィーが持ってんの!?」
「牢の入り口の棚にほっぽられてたんだよ。荷物もある。鎧は重くて諦めたけど」
ぽいっと、特に多くもないルーベルの荷物がショルダーバックごと投げられる。
裁縫に使う針やら糸やら。ビーズに毛糸、大事な裁縫箱に、こまごまとした道具箱。
荷物は持って行かれ、鎧まで脱がされたのに魔法宝飾具付きのマントは残されていたのが不思議だったが、このラインナップを見ると没収されたものも筋が通っている。
見事にどれも武器になりそうなものばかり。
「え!? え!? どこから出した!?」
「まあ、それはなんかいい感じの竜の力で」
「なんて!?」
ルーベルの問いには答えず、ヴィンテルはただスタタタ走る。
これ以上の追及をあきらめ、逃走経路を頭で辿りながら、角を右に曲がったときだった。
「おっ―――と……」
誰かとぶつかる。その人物は声も発さずに反動で跳ね返った。
ルーベルも転びそうになり、咄嗟にヴィンテルを庇って足を捻りそうになる。危ない。
「誰だよ、危ないだろ。突然飛び出してくるなんて……」
完璧な「お前もな」発言をかましながら目の前で尻もちをついている相手を見た。
見て、ぽかんと口を開けてしまう。
だってそこに居たのは―――ずっと、ずっとずっとずっと追いかけ続けた愛しい人。
「フィア、リル……?」
まずは幻覚を疑った。
コンマ数秒の後、思い切り自分の頬をつねる―――痛い。
次に夢を疑う。
さっきもそうだったし。こういう時はためらわずに己の顔をグーで殴るのがおすすめ―――だが痛い。
と言うことは、どういうことなんだろう。
金茶の瞳を見開いて、こちらをじっと見つめているこのかわいい人は、夢でも幻覚でもなくここに存在しているということ?
「フィアリル」
もう一度、呼ぶ。一音一音、その存在を確かめるみたいに。
その手に、触れる。熱を持ったフィアリルの手にルーベルは慄く。
彼女の髪に、触れる。ぴくんと体を震わせる彼女のその手首をそっと掴む。
次に会ったら、と決めていた。
もうためらわない。もう尻込みしない。
(たとえ―――たとえ、この前の告白が俺と離れるための方便でも)
ぐっと、掴んだ手首をそのまま引き寄せた。
フィアリルはなんの抵抗もしない。
あっけなく、ぽすんとルーベルの腕の中に収まる。
ルーベルの胸に、言いようのない喜びが溢れる。
(―――俺を好きだと言ったからには、もう絶対……―――)
ぎゅっと、その細い肩を抱きしめた。
きつく、きつくかき抱いた。優しく触れる余裕なんてどこにもない。
きっと最初に会ったときから。
(―――ああ。やっと―――)
蜂蜜色の、甘いにおいのするその髪に顔をうずめた。
そのまま顔を首筋に沿わせる。彼女のうなじから、甘く柔らかい石鹸が香る。
触れあった箇所全部からフィアリルの体温が移ってくる。
それをもっと、もっと近くに、もっと確かに感じ取りたくて。
この実感を手放したくなくて。
ただただ、フィアリルを抱きしめた。
「ルーベル……? ほん、もの……?」
フィアリルが、ルーベルの耳に後ろでそう呟いた。囁くような息が耳にかかって、不快さのない震えが背を走る。
「―――うん。ほんもの」
くらくらする。心臓がうるさい。
だけど何も嫌じゃない。
フィアリルが、ルーベルの服をぎゅっと握りしめる。そのことが、たまらなくルーベルの胸を締め付ける。
「ほんとうに、ほんもの……?」
「ああ」
彼女の香りが甘くて、可愛くて、今すぐキスしたくて―――たまらない気持ちになる。
その、むしゃぶりつきたくなるほどに赤く、うまそうな唇に、ルーベルは吸い寄せられるように近づく。
彼女の後頭部を手で押さえて引き寄せる。
ルーベルを見下ろすフィアリルの前髪が睫に触れた。鼻先がこすれた。
あまりにも、フィアリルがされるがままだから。
(―――もしかしたら君も、なんて)
浮かんだ期待に苦笑する。
あと少し。
あと少し、ルーベルが動けば―――
ぽたり
その滴は、その一粒を皮切りに、二つ三つとルーベルの頬に落ちた。それから先は、とどまることなく降ってくる。
ぼろぼろぼろぼろ―――
「ごめ……、ごめん―――ごめん、なさい……」
「―――え?」
いつもは笑顔か、すまし顔のフィアリルの表情が、くしゃりと崩れた。
(なにが―――「ごめん」なんだよ……)
それは、ルーベルがキスしようとしたことに対する拒絶か。
それとも、あの告白はやっぱりその場しのぎのための嘘で、それを詫びるためのものか。
だって、それ以外にフィアリルの謝る理由がわからない。
ほんものか、と問われてそうだと頷いた―――それでなぜ、フィアリルが謝るだなんていうことになる。
そんなルーベルの胸の内も知らず、フィアリルは同じ言葉を繰り返す。はじめて隣で寝た日の夜みたいに、何度も何度も『ごめんなさい』と。
「ごめん……わたしが―――わたしに、ルーベルとキスする資格……ない―――」
「―――は?」
思わず口から出た声は低く響いた。
けれど同時に、やはりか、という諦念が胸の奥から湧き起こる。
「やっぱり、俺を好きだなんて言ったのは、嘘だったんだな。ああでも言わないと、俺が手を放さないと思ったんだろ? 俺の気持ちを知ってて、だからそれを利用したんだろ?」
「ちが、違う―――……!」
フィアリルは首を振る。いや、振ってくれる。
「違わない。そうじゃなきゃ、なんで謝る? 思ってもいないのに『好きだ』と言って「ごめん」って? 好きじゃないから、キスできなくて、「ごめん」って?」
ふるふると、まんまるの瞳いっぱいに涙をためて、彼女はただ首を横に振り続ける。
きつくなる口調に自己嫌悪する。
でも、どうしても、とめられなかった。
わかっている。
フィアリルは頭の良い娘だ。ルーベルの気持ちを知らないわけがなかった。
(こんなことなら、キス、してしまえばよかった。最初の夜に、自分のものにしてしまえばよかった……)
そうすれば、そうしていれば……
―――きっと、もっと苦しい。
フィアリルの、結わえられていない髪を見る。
「……そうだよな。俺が贈った髪飾りも、してないもんな」
「え……?」
彼女の髪にいつもついていた硝子牡丹の花は、今はない。
代わりに、細かな意匠をほどこした、赤い宝石で象られた山茶花の簪が差さっていた。




