38.見守るだけの3
次の日の朝にはもう、戴冠式の準備は整っていた。
他国からの賓客は気持ちよく出迎えられ、美しく準備された王宮に感嘆のため息を漏らしている。
掲げられた旗と垂れ幕、深紅の絨毯には三足烏の紋章。もちろん、兵の鎧にも。
女王シュテルナの衣装も深紅だ。長い袖と裾がふわりとはためき、金の簪で飾られた白髪は、一層美しかった。
その重たい衣装を身に着けて、今にも死にそうな体で立っているシュテルナの辛苦は想像を絶するものだろう。けれど、王である彼女はそれをおくびにも出さない。
それどころか、フィエーダの方を見てにこりと笑った。
一瞬目を瞬かせて、フィエーダも笑顔を返す。すると、彼女はもっと嬉しそうに笑う。
フィエーダは証人である。シュテルナの持つ冠が、正当な継承者に手渡されることを見守るだけの。
―――そして、見守るだけだったはずの対象に、叶わぬ想いを抱いているだけの。
いつだったか、彼女が精霊界に頻繁に出入りしていたころ、ふと尋ねたことがあった。
『そんなにここが気に入ったのなら、ずっとここに居ればよいのに』と。
彼女の望みを引き合いに出して、ずっと傍に置きたかったのだ。ずっとあの神樹の上で、一緒に他愛もないことで笑う未来を夢想した。
けれど彼女は言った―――自分は『国の王である』と。
国の王たるもの、たとえ自分の幸せのためと言えども、民を置いては去れぬ。
民は国。なれば民を捨ておくことはそのまま、国を捨ておくことであると。
王によるものの恩恵は民へ。民によるものの責任は王へ。
そのためにわたしは、よい服を着、よいものを食べ、担ぎ上げてもらっているのですからと。
ああ、これが王かと、すとんと理解した。
そして同時に、この確実に叶わぬであろう想いも、そのとき諦めた。
つもりだった。
なのにまったく上手くやれてない。ずっと未練を引きずったままの自分。
フィエーダの目の前にシュテルナがいる。
今から彼女は王ではなくなる。
フィエーダは、本当はずっと、それを待ち焦がれていたのかもしれなかった。
王ではない、ただのシュテルナを、その美しき女を、この腕に捕らえる権利を手に入れる瞬間を。
彼女はモーネの頭に冠を載せた。
その最後の瞬間まで、たしかに王としてそこに立っていた。
わっと、割れんばかりに拍手が沸き起こる。祝福の拍手だ。
それはさざ波のように広がり、やがて城を揺らすほどに大きく、大きく響いていく。
モーネ女王即位
名実ともに、王の責務は次代に手渡された。
「おめでとう!」
「おめでとう!」
「モーネ女王陛下、万歳!」
寿ぐ声に応えてモーネが手を振る。
その後ろで、シュテルナは笑んだ。
満足げで、安堵を含んだ、民を愛する王の笑みであった。
そしてそのまま、椿の花がその命を散らすかのごとく、ふっと倒れた。
***
「シュテルナ! ……シュテルナ!!!!」
今耳に入っている声は自分の声か。ひどく焦っていて平常心の欠片もない。これが妖精の王たるものの声であるなど片腹痛い。
「心配召されるな!」
モーネがざわめく賓客たちと民衆を落ち着かせている声が聞こえる。そうだ、王の声とは本来そのように使うべきものであるはずだ。
落ち着けと、己に言い聞かせるように心の中で唱える。
シュテルナへ望んだのはモーネへの王権の継承を済ませることだけ。
やり残したことなどないはずだ。
なのになぜ、なぜこんなに怖いのだろう。何をこんなに焦っているんだろう。
「なあ、目を開けてくれ……。まだ、まだ聞けていない……」
なにを?
「そうだ、娘、リー家の娘よ、千歳草をもう一度……!」
「だめです」
後ろで娘が答えた。その冷静な声音で自分がひどく狼狽していることを知る。
「なぜだ。千歳草の花弁はまだあるはずだろう!」
「千歳草で寿命を延ばせるのは一度だけです。賢者が言ったはずです。決して永遠を乞うてはならぬと。二度目以降は禁忌です」
「なぜだ」
「フィエーダ様」
「なぜ、二度目を使うことは禁忌なのだ?」
「フィエーダ様、落ち着かれませ」
「なぜだと聞いている。知っているのだろう、言え」
取るに足らぬ理由ならば今すぐにでもシュテルナに千歳草の花弁を飲ませる―――そう思った己が今、正気ではないことを頭の奥で薄っすらと理解していた。
けれどその理解すらあっという間に激情に飲まれて見えなくなる。
「言え。リー家の娘」
「今のフィエーダ様には言えません」
「言え!!!」
リー家の娘は迷っているようだった。
迷いに迷ったのち、ようやく口を開く。
「シュテルナ様の体が持たないのでございます。寿命とはそういうものです。魂ではなく、器の方がだめになる。それでも寿命を延ばしたい。どうすればよいか、フィエーダ様ならお分かりになるでしょう」
「新しい器を用意する」
「その通りです。この場合、若くて、シュテルナ様と魔力の親和性が高い、女性の器である必要があります」
リー家の娘が言おうとしなかった理由がわかった。
それはそのまま、リー家の娘の特徴である。
フィエーダの顔を見たリー家の娘の眉が哀しげに下がった。
今フィエーダが何を思っているのか、今からまわりの者に何を命じるのか、おそらくこの娘は正確に理解している。
だからこんなに、心細い顔をしている。
リー家の娘でも傷つくのか―――そんなことに、今更気がつく。
しかし気がついたとて、フィエーダの中の何が変わるわけでもなかった。
「……誰か、その娘を捕らえよ」
フィエーダがそう言った瞬間、リー家の娘は逃げ出した。
最後に、閉じゆく花のように穏やかな、憎しみのない目礼だけを残して。




