35.厄介事
「ただいま帰りました」
「ほう。思っていたより早かったのう」
山の麓の家に無事戻ると、おじいさんは笑顔で出迎えてくれた。俺は千歳草の植わった鉢をおじいさんに預ける。
不思議なことに、こちらの世界では時間の経過がほとんどなく、おじいさんが言うには、ルーベルがここを出てからまだ二刻ほどしか経っていないらしい。
ベンヌが教えてくれたことによると、斎湖のある場所とこちらの世界は『位相がズレている』らしい。時間の流れ方が不規則なので、向こうの一日がこちらのほんの一瞬であったり、逆に何百年だったりするらしいのだ。
経っていたのが百年じゃなくてよかったな、とベンヌに言われて、ほんとにな、という気持ちである。
「ちっ、バカクマと一緒で時間のズレが二時間ぽっちだなんて、なんだか癪だぜ」
そうは言いつつも満更でもなさそうな顔なので、多分いいことなんだろうと思う。
どういうことなんだろうと思っていると、おじいさんがこっそり教えてくれた。
「一般的には知られてないがのぅ、斎湖とこっちの時間経過の差はな、共に行く神獣と人との関係が良好なほど小さい傾向があるんじゃよ」
「へえ」
「向こうにいたのは一日半ほどじゃろう? 初対面でこれだけとは大したものよ」
「な、なんか照れますね……。ベンヌが歩み寄ってくれたからですよきっと」
ずいぶん仲良くなったんじゃな、とおじいさんが嬉しそうに笑うので、ルーベルも笑顔を返す。
ベンヌを見ると、舌打ちされた。
なんでだ。
「さて」
どうやら調薬が始まるらしい。
おじいさんは、ルーベルが採取してきた千歳草の鉢の土を掘り分け、周りの土をよけるようにして根を一本ナイフで落とした。それから土を水で良く洗い落とし、魔法でよく乾燥させてから刻んですりつぶして粉末状にした。
ルーベルが興味津々でその様子を見ていると、おじいさんはすりつぶすところだけルーベルに少しやらせてくれた。
「おお。なんかこの粉、きらきらしてる……」
「じゃろう? 千歳草にはな、あの斎湖にすんでいる精霊の霊力が込められておるのじゃ。花も茎も葉も根も、薬にしたときにこうやってきらめいていれば成功じゃ」
「霊力……」
「うむ。そのトパーゼルのブローチと一緒じゃの」
言われて、マントを留めているブローチをじっと見る。
「見るに、その霊力はブリンゲバールの傍の斎湖のものじゃの。ヴィーが一緒に行ったようじゃの」
「ヴィーが……?」
フィアリルがこれをルーベルにくれた日、彼女がヴィンテルとどこかに出かけていたことを思い出す。
「そのブローチを強化しておるんじゃ。その魔法のみでは非常に壊れやすくなってしまうからのう」
「フィアリルが、ヴィーと、斎湖に……」
ヴィンテルを見る。千歳草の根の薬を飲んで、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
「じきに発疹もひくじゃろう。それに伴って熱も落ち着こう」
「そうですか。よかった……」
俺は安堵の息をついた。
おじいさんが蜂蜜を入れたお茶を出してくれたのでありがたく受け取る。
一息つき、暖炉の火に当たっているとだんだん眠たくなってきた。
向こうではずっと起きていたし、こちらの世界もまだ夜だ。ヴィンテルが心配ですっと気を張っていたせいか、ほっとした今、どっと疲れが襲ってきていた。
「さてどうしたもんかの……」
「何がですか?」
聞き返したルーベルをチラッと見、ずずず、とほのかに渋みのあるお茶を啜りながら、もう一度、どうしたもんか、とおじいさんは言った。
「ぬしらが不在の間に、ちっとばかし厄介事が持ち込まれてしまっての」
「はあ」
「ところでルーベル殿、おぬしら東諸国の方へ行くと言っておったの」
「はい。その……妻が多分、そのどこかに……」
『妻』という呼称が照れくさくて、真っ赤になりながらルーベルが歯切れ悪く答えると、おじいさんはこの上なく機嫌のよさそうな顔になった。
何ならちょっとニヤニヤしている。
「ほっほぉ」
ほっほぉってなんだ、ほっほぉって。
ルーベルのジト目に我に返ったような顔をしたおじいさんは、コホンと一つ咳払いしてなんでもなかったかのように言った。
「いやなに、ひとつ頼みたいことがあってな。東諸国に入ってすぐ、クルトゥーラという国があっての。千歳草の花弁をその国の王宮に運んでほしいんじゃ」
「お、王宮!?」
おおよそルーベルの人生には縁のなさそうな単語が飛び出て、目を丸くする。
たしかにセントランドでは王宮勤めであったが、立ち入ったことがあるのは王宮の端っこの部屋か、騎士団の訓練場が関の山だ。あとはフィアリルと会った日に会場警備をしていたくらいで。
「安心せい。きちんと向こうには伝えておくから、滅多なことはされんじゃろ」
「で、でも俺、作法とか何も知らないし……」
「大丈夫だーいじょうぶ。おぬしならやれる!」
根拠なく太鼓判を押された。不安だ。
「本気で言ってます?」
「ああ、本気だとも」
頑固に、けれど、どこか面白そうに、おじいさんの瞳がキラリと輝いた。
これ以上食い下がっても、このおじいさんが譲ってくれることはなさそうだ。
ここまでお世話になった人の頼みを無下にすることなど、元々できないわけなのだが。
「わ、わかりました。やれるだけやりましょう。……どーなっても知りませんからね」
「よい、よい。どうとでもなるわ。あーよかった。王宮に顔を出さずに済むわい!」
おじいさんは、ルーベルが花弁を届けると言ったのがそんなに嬉しかったのか、ずいぶんご機嫌で、鼻歌なんて歌っている。
本当は自分が王宮に行くのが面倒なだけなのではないかという気もするが、黙っておこう。
「そうそう、その王宮には今、別嬪な娘さんが居ってな。ルーベル殿もころっと恋に落ちてしまうかもしれんの」
「あっはは、まさか」
ルーベルが、それはない、と言おうとする前におじいさんは重ねて笑った。
「ふぉっふぉっふぉ、言い方を間違えたのぅ。すまぬすまぬ。もう恋には落ちていたのだったな」
「え?」
ルーベルは聞き返したが、おじいさんはもう一度言うつもりはないようだ。
ただこちらを見て笑っているのみである。
羽を休めていたベンヌがやれやれという風に肩をすくめている。けれどルーベルにはどういうことかはさっぱり分からなかった。
何か大切な情報だったような気はするのだけれど。
なにより、思い出そうとしても、ルーベルはもう眠たくて眠たくて、まぶたが半分程落ちかけていた。
「ひとまず、今晩はもう寝なさい。明日以降、ヴィーが回復次第ここを出ればよい」
「ありがと……う、ございます……」
おじいさんはそう言って、ルーベルにブランケットをかけてくれた。
あたたかいそれはふかふかで、礼を言うのと同時にルーベルのまぶたは完全に落ちた。
そのまぶたの裏に、ふわふわ笑うフィアリルの顔を思い出していた。




