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32.千歳草1


「『千歳草ヴァッテンリリャ』……? なんです? それ」


 ブリンゲバールを出て早二週間が経とうとしている。

 ヴィンテルと俺は東諸国シェールレクスグードへと向かう街道沿いにある町、シェウに到着していた。目的地まではあと少しというところ。

 東諸国へ行くのにこちらの街道を通る旅人は珍しいようで、気前のいいことに、まんじゅうをおまけでつけてくれた。


「なんだあんたぁ、知らないのかい?」

「ええ。……どんなものなんですか?」

「おいらもばあちゃんから聞いただけだがぁね。百年に一回、数刻だけ花を咲かせる珍しい植物があるってぇ。その草の根は竜の熱を冷まし、葉は人間の分かれた腕すら元通りに、花弁を煎じて飲めば、定められた寿命すら伸ばしっちまうってねぇ」

「寿命すら……」

「そうだぁ。おいらのばあちゃんさ言うには、あの山さ登るとぉ、きれーなうみがあったってよぉ。そのほとりに咲くんだと」


 ルーベルの水筒に水を注ぎながら茶屋の主人はそう話した。ヴィンテルには果実を搾った飲み物を出してくれた。


「だのに、不思議なこともあるもんでなぁ。あの山にうみなんてないがよ。あとで町の人らぁが、ばあちゃんの案内で見に行った時も、なかったってよぉ。んだが、おいらのじいさんの腕はぁ、その千歳草のおかげでくっついたがよ。この目で見たぁ。間違いなかったさ」


 町の誰も信じなかったがね、と店主は言って視線をあげた。

 そちらの方向にあるのは、その山である。


「ま、一介の茶屋ぁには関係ない話だがぁな!」


 茶屋の主人はそう言ってガハハと笑い、ごゆっくり、と付け加えて店の奥に戻って行ってしまった。茶屋の主人が指さした山は、ルーベルたちの通り道だ。

 不思議な話である。その湖にしか咲かない花の存在は証明されているのに、しかしその湖の存在は証明されていない。


 そういうたぐいの話はわくわくして好きなのだが、如何せん今はあまりのんびりしている暇がない。

 頭を使うことがそれほど得意ではないルーベルなので、謎も解明できそうにない。


 フィアリルだったら、もしかしたらその不思議な話の真相を見抜いてしまうのかもしれなかったが。

 そんなことを考えながらルーベルは立ち上がって、ヴィンテルに声をかけた。


「そろそろ出よう、ヴィー」

「……う、ん」

「ヴィー?」

「る……べる……、ごめん、なんか、ちょっと前から……体、が……」


 苦しそうに身をかがめ、ヴィンテルはその場に崩れ落ちた。慌てて背をさすってやる。その背には竜の鱗が表れ始めていて、よほど辛いのだろう、息が浅い。

 額に手を当てると、そこはひどく熱を持っていた。背を撫でていた手にざらりとした嫌な感触が伝わる。


「発疹……? しかも、鱗の部分のみに……?」

「どうしたんだい兄ちゃん」


 店の奥から心配そうな顔をした店主が顔を出し、ヴィンテルの様子を見てその顔をさらに青くした。


「そ、その子ぁ……、熱があるのかい? だけんどぉ、その鱗……まさか……」


 ひぃ、と顔を引きつらせて、店主は一歩二歩と後ずさった。見ると、ヴィンテルの体はすでにほとんどが鱗でおおわれ、そこに赤い発疹がぶわっと浮き出ていた。

 ルーベルはあわててヴィンテルを担ぎ、支払いの分を無造作に店主に掴ませると、逃げるように店を出る。


 竜が出たぞ、と店主が叫ぶ声を背中に聞きながら、一心不乱に山の奥の方へと向かう。


 とはいえ山の麓だ。身を休ませられそうな宿も施設もない。しかしヴィンテルの容体を見る限り、事態は一刻を争う。

 ああこんなとき、フィアリルだったら、なんて言ってやるんだろう。それとも、彼女の魔法ですぐに治して、楽にしてやれるのだろうか。

 俺はそのどちらも、できない。


「ごめんな、ヴィー。もう少し辛抱してくれ」

「だい……じょ、ぶ……」


 少しも大丈夫ではなさそうである。ルーベルにぐったりともたれかかるヴィンテルの体はまるで火のように熱い。

 時折、腰に下げていた水筒の水をヴィンテルの口に含ませてやるのだが、その水もすでに残り少ない。


「魔物には会わないだろうけど……」


 マントに光るトパーゼルのブローチを見、辺りを見やる。だんだん日も暮れてきて、視界も悪い。いくら結界魔法が守ってくれていると言っても、日が暮れてから出歩くのはあまり良くないだろう。

 その結界魔法も術者原動型なので、結界へのダメージは奥さんフィアリルに向かうのだ。それはできる限り避けたかった。


 どうしたものかと頭を悩ませながら山道を進んでいたルーベルの視線の先に、橙色の灯りが見えた。

 よく見るとそれは家の灯りのようだった。近づくほどに、質素なつくりの家の輪郭が鮮明になっていく。


 できれば一晩泊めてくれと言いたいところだが、ヴィンテルは今竜の鱗が顔の部分にも浮き出て来てしまっている。それに、こんな山の中にあるぽつんと一軒家だ。あやしいが過ぎる。絶対に何かある。

 セントランドの昔話でも、母が寝る前に聞かせてくれていたお伽話でも、こういうところで救世主みたいに出てくる快適そうな家には何かのいわくがあると相場が決まっているのである。


 やはりやめよう。ここはおとなしく通り過ぎ、どこか安全で開けた場所で野宿をする方がよほど安全だ。少なくとも明日までに鍋で煮込まれるかもしれないという心配だけはせずに済む。

 茶屋の店主が言っていた湖をダメ元で探そうか。水も手に入るし、火を焚けば獣もよりづらい。

 うん、そうだそうしよう。そうと決まればこの場所からとっとと離れ……


「こんな場所で何をしとる」


 後ろからしわがれた老人の声がしたのは、そのときだった。


「真っ白い鱗に、薄青の目……? おまえさん、冬竜ヴィンテルかね?」


 振り向いたルーベルの目に映ったのは、山姥でも、人食い鬼でもなく、青いローブに身を包んだ、ちんまりとした白いひげのおじいさんであった。

 手に持っているのは包丁ナイフではなく、木の実と薬草がいっぱいに入った籠である。


「じいさん……」


 おじいさんの質問に、息を切れ切れにさせながらヴィンテルが応じた。


「ヴィー、知り合いか?」


 尋ねると、こくりとヴィンテルは頷く。


「……賢者だよ」



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