30.元王太子のないものねだり
マティアスがそれに触れようとしたのは、最初は単なる興味からであった。
それまでマティアスがどんなに煌びやかな贈り物をしても、宝石の一つ、装飾品の一つも身に着けたことの無かった女が、珍しく美しい髪飾りをつけていたから。
「おい、その髪飾り、どこで手に入れたんだ? 硝子牡丹の意匠だろう」
フィアリルはそれまでマティアスを完全に無視し、居ないものとして扱っていたのに、その言葉だけは聞き取ったのか、自分の髪を括っている髪飾りに触れた。
すると、先ほどまでピクリとも動かなかった表情が、ほっと安心したように緩んだ。
「ほう。おまえはそんな顔で笑うんだな。どこで買った? 同じような意匠のものを用意しよう」
どれほど浅ましく卑しかろうと容姿だけはいい女だ。マティアスが選んだ飾りをつけてこの女が笑うのであれば、それはとても気分の良いことだろう。なにより、この女の仏頂面以外の表情を引き出したのは自分だという自信がマティアスの気分を高揚させた。
だというのに
「いいえ、他には要りません」
そう言って首を振り、また無表情で窓の外を眺めはじめる。
「なぜだ。ぼくならもっと豪華で宝石をふんだんに使った贅沢な飾りを用意してやれるぞ」
「これはルーベルからもらった大事な品です。ほかの何物にも代えがたい、宝物ですから」
それを聞いた瞬間、マティアスは己の血液が沸騰するほどの強い怒りに襲われた。
またか。またなのか。
どうしてあの戦士の男はいつもこの女の心の中に住んでいるのだ。先ほどの笑顔は己の成果ではなく、あの戦士のことを思い出したからだとでも?
頭にカッと血が上る。フィアリルの髪を掴んで立ち上がらせた。
「やっ……!」
力任せに飾りをひっぱると、その繊細な硝子牡丹の意匠はあっけなく散り、フィアリルの柔らかい金茶の髪がぱさりと下りた。
もはやほとんど残骸となりはてたその髪飾りをマティアスが無造作に床に投げ捨てると、フィアリルはそれを縋りつくように拾い上げる。
「かみかざり、が……」
それをとても大事そうに胸に押し当てるようにして泣き出したフィアリルを見て、優越感と、苛立ちの入り混じった言いようのない感情がマティアスを襲う。
マティアスに追放を命じられた時も、連れ去られようとしている時も、涙の一粒も流さなかったくせに。
その男のこととなれば、髪飾りの一つ壊されたくらいでぼろぼろと涙を流すのか。
今度こそ、思い知らせてやらねばならない。フィアリルの居場所はもうあの戦士の隣ではなく、マティアスの傍であると。
マティアスはフィアリルの手から髪飾りの残骸を取り上げようとした。
そのときだった。
ふいに馬車が止まり、御者のクルトゥーラの兵が扉を開け、マティアスは無造作に馬車の外に出された。
「セントランドの王太子殿、あなたの護衛はここまでとさせていただきます」
そう言って慇懃に頭を下げられる。
「おい、なぜ僕がここで馬車を下ろされねばならない」
「用済みだからです」
「は?」
マティアス・セントランドは困惑していた。先刻、ようやくフィアリルが己の手元に戻って来て、これからが楽しいところなのに、クルトゥーラの兵に馬車から追い出されようとしていたからだった。
クルーントガだかグリーンスだか知らないが、セントランド王族への扱いがなっていない。
フィアリルを取り返した今、マティアスは国に戻れば王太子へと返り咲く存在だ。つまり未来のセントランド王に対しての侮辱になるのだということを理解していないというのか。
しかもここは冬の雪山。
もしもこれでマティアスが命を落とせばどれほどの罪になるか、わかっていないのかもしれない。
「何を言っている。俺はセントランドの未来の王だぞ。そのような態度を取っていいと思っているのか」
「そちら様こそ何を言っているのやら。聞けばあんた、セントランドの廃された王太子だそうじゃないか。妖精姫を犯そうとしたとか。そんなやつがセントランドの未来の王なわけがない。俺だって、もっと賢くて周りの見えたやつを選ぶね」
「なにを……!」
マティアスはこぶしを握った。
それはこの女が断ったからだ。断られなければもっと穏便にことに及んだまで。王太子の僕に抵抗した、この女が悪い。
それに結局、フィアリルはマティアスを思い切り突き飛ばして逃げたのだから、未遂のようなもの。
それを他の国の連中からあれこれ口出しされるいわれなどない。
マティアスはおおよそこれと同じような意見をクルトゥーラの兵に述べた。
それを聞いて、クルトゥーラの兵の顔がだんだん青くなっていく。
「おまえ、それは噂ではなく本当に、妖精姫を寝室に連れ込もうとしたという意味か!?」
「僕より身分の低いものを手籠めにすることの何が悪い。フィアリルも、周りの目がある手前、僕の誘いを受け入れられなかっただけだ」
王はそうしてもいい。そうする権利があるのだ。そんなことも知らない無知な兵にそう説明してやると、残念なことにこれでもまだわからなかったらしいクルトゥーラの兵は、一刻も早くと言うかのように、俊敏な動作でマティアスをより外へと放り出した。
これだから東諸国の輩は困る、とマティアスは呆然とした頭で考えた。
「お、おまえみたいなやつを馬車に乗せて、フリでも丁重に扱っていたかと思うと、一瞬前の自分に吐き気がする!」
ならば自分が馬車から降りればよいではないか、とマティアスは思った。
そんなこともわからないのか、と憐憫の念さえ湧いてくる。
しかしマティアスのそんな胸中も知らず、クルトゥーラの兵は自分の腰に下げていた財布をそれごとマティアスに手渡して言った。
「降りてくれ。そして金輪際俺たちと関わらない、と約束してくれ」
その中に入っていたのは、ここからセントランドへ帰ってもおつりが出るほどの金額だ。ちょうど、自由に使える金が欲しいと思っていたところだった。
それでも、マティアスが王太子だった頃に扱っていたお小遣いの量には足りないが。
これでフィアリルに高い宝飾品の一つでも贈ってやれば、機嫌も直るだろう。そしてあの戦士のこともすぐに忘れる。女などそんなものだ。
「いいだろう。だがフィアリルは……」
置いて行けよ、とマティアスが言う前に、馬車はすでに走り出していた。もちろんその中にフィアリルも乗っているというのに。
クルトゥーラの兵たちも、そして馬車の中のフィアリルも、マティアスを見てすらいなかった。
クルトゥーラの兵が、なぜかあの女に深く頭を下げ不覚を詫びていたのだけは辛うじて目にした。
「……どうしてだ。どうしてこうなる……?」
マティアスは誰に問うでもなく呟いた。
自分は何もしていない。何もしていないはずなのに、なぜこうも疎まれ蔑まされねばならない。
王も、元婚約者も、クルトゥーラの兵も、そしてあの女も。
みな、どうして自分を追い詰め、ため息をつくのだろう。
フィアリルを殴ったときの、彼女の肌の柔らかさが妙に頭から離れなかった。
何をしてもこちらを見ない、彼女の無感情な瞳を思い出す。
戦士の男を思い出していたであろう、髪飾りに触れた瞬間の、やさしく細められた瞳も。
「……気に食わないな。本当に気に食わない」
その瞳は本当は、自分に向けられるものであるはずなのに。




