26.ずるくても、ひどくても
ラルフが向かったのは爆発音がした方向だった。
和睦交渉に行ったのだ。
「フィアリル、ヴィー、逃げるぞ」
「うん」
ルーベルたちもラルフに指示された方向へと向かう。フロストランドの名峰の一つ、ヴィルドマルクを越えて、セレリス・フォレストへと続く道のりだ。
細い崖路は一歩踏み外せば命が危うくなるような悪路。誰かとすれ違うなどと想像するのもいやだ。
だがそんな道でも、今は他のどの道よりも安全にセレリス・フォレストに辿りつける。
「俺が先に行く。フィアリルをはさんで、次がヴィーの順で行こう。ヴィーは楽なほうの姿で来てくれ」
「わかった」
フィアリルとヴィンテルが頷き、ルーベルが崖路に足を踏み出したときだった。
「居たぞ!」
鋭い声が響いて、一同は振り返った。
次に、カシャカシャと鎧の立てる音が複数聞こえてくる。
「こっちだ! 大柄な男と金髪の少女、加えて一匹の白竜! 情報と一緒だ!」
追手だ。
和睦交渉はうまくいかなかったのか。
人数的にも、地の利的にも圧倒的にこちらに分がない。
今逃げたら足を踏み外すだろう。そしてこの道すら抑えられているということは、到着した先にももう兵が敷かれているだろう。
どうする。
どうやってこの場を切り抜ける。
じりじりと間が詰められていく。フィアリルを背に庇いながら、ルーベルは背負っていた武器に手をかける。それを見ていた追手の内の一人が言った。
「おっと、動くなよ。こちらには町民っていう人質が大勢いるんだ。おまえか白竜のどちらかがその場から一歩でも動こうもんなら、町一帯に火が点く手はずになっている」
まるで見せしめのように、一人の少女が目の前に突き出された。
この少女が、町を示しているのだとでも言いたげに、追手の男は持っていたナイフをその子の首筋に沿わせる。男の鎧には三足烏の紋章。
「安心しろ。我々も戦争をしたいわけではない。そこにいる金髪の娘を差し出せば、大人しく引き上げよう。娘だけだ。ほかのやつらの同行は認めない」
「そんなの信用できるわけが……」
「約束する」
ふいに男の目が据わった。ナイフが少女の柔らかい肌に突き立てられる。少女の顔が引きつった。声も出せないのか、大粒の涙だけがぽろぽろと零れている。
「約束、するから……」
その涙は少女のふっくらとした頬を伝い、ナイフを滑って男の腕をなぞる。
その滴が男の腕に触れた一瞬、たった一瞬だけ、追手の男の顔が苦しそうにゆがめられた。まるで謝っているような表情だった。
しかし次の瞬間には、先ほどの無感情な瞳に戻っている。
ルーベルの後ろでフィアリルが動いた気配がした。彼女が着ているスカートが翻ったのを目の端に捉える。彼女がルーベルのそばを横切ったのだ。
その華奢な手首を咄嗟に掴む。
「フィアリル……?」
「ルーベル、ごめん、行かなきゃ」
いつもと変わらぬ表情で、フィアリルはルーベルの手を振り払おうとする。
その目にルーベルは映らない。
「ま、待って。待ってよフィアリル」
「放して」
突き放すようなフィアリルの声が耳を刺した。俯いた彼女の表情は見えない。
「いやだ。放したら、フィアリルが居なくなるんだろ」
「放して」
「フィアリル」
「放して!」
「いやだ!」
半ば叫ぶように、懇願するように発されたその声には涙が混じっている。
それでもルーベルは手を掴んだままだった。放した瞬間に、フィアリルが居なくなる。そのことだけは確かだったから。
なんで、とフィアリルが呟いた。
フィアリルの手を握っているのとは逆の手で、彼女の頬を撫でる。
それにつられるように上を向いたフィアリルの両目は、やっとその中にルーベルを映すと、ほんの一瞬泣き出しそうに揺らいだ。
けれど、すぐに、なんでもないようにフィアリルは笑う。
「放してルーベル」
「いやだと言ってる」
「わたしのせいで人が死んで町が焼けるの。そんなのはいや」
「いやだ」
フィアリルが行くのが、一番被害が少ない。
頭ではわかっている。けれどルーベルにとって、他のどんな理由もフィアリルを失うことよりはマシなように思えた。
フィアリルの目から涙が溢れた。笑んでいた唇がぎゅっと、こらえるように引き結ばれた。
「今から、すごくずるくて、ひどいことをするね」
「いやだ」
もはや子供がこねる駄々のように、ルーベルは首を横に振る。
さっきから俺は、それしか言っていない。
それを見て、フィアリルはもう一度笑んだ。
「あなたが好きよ、ルーベル」
泣き笑いのままフィアリルが口にしたのは、ずっと、ずっとずっとずっと、ルーベルが一番欲しかった言葉。
「だから、行かなきゃいけないの。あなたの隣にいるわたしは、あなたに胸を張っていられるわたしでなければいけないの」
こんな風にして聞きたかったんじゃない。そんなことのために、君の心を求めたんじゃない。
ルーベルは掴んでいた手に力を込めた。次にフィアリルが何を言うのかも、わかってしまって。
「あなたも同じ気持ちなら、ルーベル、どうかこの手を放して」
「…………いやだ……」
やっと口にした言葉は、ほとんど掠れていた。
「君を守るのは……俺の役目だ。ずっと傍に居ると俺は君に言ったよ。約束は守るものだろ? それで俺は……今ここで好きな子の手を放せるような、正義の味方じゃ、ない……」
ルーベルが掴んでいる方の腕を、フィアリルは持ち上げた。
同じ方の手でルーベルの左手首を握り、自分の手首を掴んでいるルーベルの手にそっと口づけた。
一瞬唇が離れる。
時間が止まる。
ほうけたように、ルーベルはピクリとも動けない。
「いっ……!」
ルーベルの左手にフィアリルが歯を立てた。反射でフィアリルの手首を握っていた手が外れる。一瞬で、意識が現実へと引き戻される。
「なくさないでね」
フィアリルはルーベルの手に何かを握らせると、踵を返して追手の男の方へと向かう。
その背中は、最初に出会ったころのようにずっと遠くにあるようで、どんな言葉をかけても、もう一度振り返ることはないのだと、ルーベルは理解した。
フィアリルの通った後をぼたぼたと滴が落ちていく。
「フィアリル、待っ……!」
必死で伸ばした二度目の手は届かず、ただ空を掴む。
やがてフィアリルと追手の集団は姿を消し、その場には、人質に取られていた女の子と、ルーベルとヴィンテルの三人だけが残された。
誰も、何もしゃべらなかった。
幼い、まだ五つばかりの少女がただ静かに涙を零し、フィアリルたちが行った方を、じっと見つめているのみだった。
ルーベルはずっと握りしめていた手を開く。そこにあるのは、トパーゼルのブローチ。
好きという言葉も、彼女の色のブローチも、ずっと欲しくてたまらなかったはずだった。
けれど、ずっと傍にあったはずの、本当に欲しかったものは、ここにない。
唐突に、ルーベルの前から居なくなってしまった。
今になって思えば、自分から手放すことさえも、俺にできたようには思えなかった。
そのことに気付くのが今だったなんて、あまりにも愚かだ。
「好きだよ……。俺も君が好きだ、フィアリル」
それを聞いて笑ってくれる人は、ここにない。




