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17.ブリンゲバール3



 翌朝目を覚ますと、隣の布団にフィアリルの姿はなかった。

 ヴィンテルは未だぐっすりと寝息を立てているが、その隣のフィアリルが使っていた布団は綺麗にたたまれている。


 部屋は香ばしいにおいで満ちていた。その香りに鼻をくすぐられ、ルーベルはのそりと身を起こす。


「なんか、いーにおい……」

「あ、起きた。朝ごはんだよ、ルーベル」


 声の主はフィアリルだ。淡いオレンジ色のワンピースがとてもよく似合っている。今日もルーベルが渡したあの髪飾りをつけてくれているらしく、彼女の後頭部で硝子牡丹が揺れていた。


「わたしが唯一得意なレシピにしたの。ホットケーキだよ」

「ほっとけーき……」

「そ。さっき買い物に出ようとしたら、宿のおかみさんが色々くれたの。小麦粉とたまごと、牛乳。それに、はちみつにバターにバールベリーのジャム。なんでも、今日は星女神さまの生誕祭だから、おめでとうって贈り物をしあうんだって。これだけ揃えばもう、ホットケーキをやるっきゃないでしょ?」


 焼きたてほかほかの柔らかそうなホットケーキがテーブルの上で湯気を立てているのが見え、ルーベルはごくりと唾を飲み込んだ。

 そういえば、昨日は夜遅かったから何も食べていない。思い出すと急に空腹が襲ってきて、ルーベルの腹がぐうと鳴った。


 それを聞いたフィアリルがふふふと笑う。


「実はわたしもおなかぺこぺこ……。ね、早く食べよう?」

「う、うん」


 フィアリルに手を引かれてテーブルにつく。待ちきれないと言わんばかりにホットケーキをみつめている食いしん坊ドラゴンも、すでに座って待っていた。


 いただきますと手を合わせ、ホットケーキがふかふかと重なった皿から自分の皿に一枚移す。

 こんがりと焼き目がついた部分にさくりと歯を立てる。中はふわふわだ。


「う、うま!」

「でしょー? 料理はあんまりできないんだけど、これなら自信もって出せるから」

「本当においしい……」

「へへへ。ありがと」


 ホットケーキにがっつくルーベルを見て満足そうに笑ってから、フィアリルも食べ始めた。もぐもぐと口にめいっぱい詰め込んで、相変わらずおいしそうに食べる。


「ふっふっふ。ジャムとバター同時がけしちゃうぞー」

「わっ、それおいしそう。僕もやろー」


 フィアリルとヴィンテルはきゃっきゃとホットケーキにいろんな味をかけて楽しんでいる。

 その様子を見ていたルーベルはあることに気付いた。


「ねえフィアリル、なんか袖口濡れてない?」


 尋ねると、フィアリルがあからさまにぎくりと固まった。

 冷や汗をかきながら明後日の方向に目を逸らす。嘘がへたすぎる。


「別に、大したことじゃないよ」

「へえ。ヴィー、なにか見た?」

「僕からは何も言えないね。内緒にしろって言われてるもの」


 口を割りそうにないフィアリルは諦めヴィンテルにも尋ねてみるものの、ヴィンテルもそう言ったきり話しそうにない。

 やっぱりバターだな……とか言いながら本日十枚目のホットケーキを平らげそうである。


 体が重たくなっても知らないぞ。


「どうしても教えてくれないの?」

「……」


 フィアリルは黙りこくってしまった。

 無理に聞こうとまでは思わないが、そうまでして隠されると逆に気になる。


 そんなに俺には言いたくないことなのか……。なんだろう、なんだか、もやっとする。

 なんでだ。こんなのいつものことだろう。

 今までずっと、いろんな人にそうされてきたのに。

 なのになんで今回に限って、こんな風に胸がざわつくんだ。


***


 日が昇り、あたたかくなってくると静けさが消え、だんだんと町もにぎわい始めた。

 ギルドももう営業を始めているだろう。


 ルーベルとフィアリルは昨日のお姉さんとの約束通り商業ギルドを訪ねた。ちなみにヴィンテルは留守番だ。見た目は子供だが中身は二千歳なので大丈夫だろう。多分。


 商業ギルドの扉を開けると、中はすでにたくさんの人でいっぱいだった。


「ようこそいらっしゃいませ! 買い取りですか? 売却ですか?」


 声をかけてくれたのは、昨日とは別のお姉さんだった。

 昨日のお姉さんの姿は見えない。


「あ、あの、昨晩取次を頼んだ、アウストラリスですけれども……」

「ああ! アウストラリス様! 尊い成分百パーセントの……いえ、ハリス様にお取次ぎの方でしたよね」


 フィアリルが言うと、そのお姉さんは得心がいったように頷いた。

 こちらへどうぞ、と手で示された先は奥の部屋である。普通、重大な商談や高額な売買が行われる時にしか使われないはずなのだが、どうしてだろう。


 お姉さんが立ち止まったのは、中でもシンプルなつくりをした木の扉の前だった。

 慣れた手つきで扉を三度ノックする。


「ハリス様、スミラっす。昨晩のお二方をお連れしました」

「入れ」


 その声を合図にお姉さんはガチャリとノブを回す。


 中に居たのは……。


「…………いぬ?」


 怪訝な顔で思わずそう言ってしまったルーベルの後ろで、案内してくれたお姉さんが噴き出した。

 ツボに入ってしまったらしく、笑いそうになるのを必死に堪えているようだ。


「犬ではない。私がラルフ・ハリスだ」


 声の主をもう一度よく見る。

 ぴんと立った三角の耳、つぶらな黒い目、ぶんぶんと左右に振られるもふもふのしっぽ。

 これが犬でなければ一体何なのかと問わずにはいられないほどに、目の前に居るのは正真正銘まごうことなき……


「犬じゃん」

「ちがう」

「犬だろ」

「ちがう」

「犬でしょ?」

「違うと言っておろうが!!」


 くわっと目を見開いて犬がわんっと一つ吠えた。


「犬ではない。これは一時的なものだ。……くそ、ノーマンのやつ……飲むと体が犬になる茶なんぞ寄こしおって……!」

「やっぱ犬なんじゃん」

「ちがう!」


 犬、もといラルフさんは、わんっとまた吠えた。

 受付のお姉さんがフィアリルに何かを手渡す。それを受け取ったフィアリルが、一瞬の思考ののち、それをほいっと放り投げる。


「とってこーい!」

「わんわん!」


 見事にキャッチし、華麗なる着地を決めるラルフさん、もとい、犬。


「へっへっへっへっ」

「やっぱ犬じゃねえか」

「断じて違う!」


 わ、びっくりした。急に人語を話されるとぎょっとしてしまうからやめてほしい。


「とにかく、私は犬ではないし、今日はもっと別の用があって私のもとに来たのだろう。油を売っている暇などないのではないのか?」


 犬、もといラルフさんは存外もっともなことを言った。

 さっきまでボール追いかけてたけど。


「あ、そうだった」

「名乗るのが遅くなりました。俺は、ルーベルと言います」

「妻のフィアリルでございます。旧姓は、リーです」


 ぺこりと頭を下げると、ラルフさんはなるほどなと呟いてふぅと息をついた。


「君たちのことはノーマンたちから聞いている。セントランドを追い出されたんだそうだな」

「……はい」

「ああ、そう委縮することはない。君たちに非がないことは調べがついている。追い出した張本人がわざわざ君たちを追いかけまわしているのだからな。……まあ座りなさい」


 ラルフさんは、へっへっへっへと息をはきながらルーベルたちに椅子をすすめた。


「ラルフさんは座らなくていいんですか?」


 へっへっへっへと椅子の上で立っている彼にフィアリルが問う。


「気にせずともいい。こちらのほうが楽でな。……ところで、例の元王太子についてだが、慣れない雪道でずいぶん苦労しているようだ。ブリンゲバールまでの村々が、君たちが通った後に、ちょうど本格的に冬に突入したみたいでな。こちらに元王太子一行がたどり着くまでに、早くても一ヵ月はかかるだろうと聞いている」

「え? 俺たち、一日で来ちゃいましたけど……」

「それは大分運がいいな。あそこらへんの山村は、雪のない季節ならうまく越えられるんだが、積もるとどうにもだめでな。昨日のグレーデールからの乗合馬車が実質、冬ごもり前の最終便だったわけだ。セントランドの馬は厳しい冬に慣れていない。君たちと同じようにとは行かんだろう。下手にあちこち動くとドラゴンの縄張りに足を踏み込みかねないしな」


 まさかそんなラッキー便に乗り合わせていたなんて知らなかった。教えてくれたノーマンには感謝である。

 ノーマンにかけていた将来ハゲる呪いは撤回しておこう。


「まあ、しばらくはゆっくりできるだろう。なにかあったら早めに逃がすがな。そのうち雪まつりをやる。見て行くといい」


 ラルフさんは再びわんっと吠え、ぴょいと椅子から飛び降りた。

 話は終わりだ、と言ってしっぽを振りながら出口を開ける。


「そうだ、そういえば、ルーベル君に礼を言うのを忘れていた」


 かと思えばそんなことを言い出すので、ルーベルは首を傾げた。全く心当たりはない。


「俺、なにかしましたっけ」

「ノーマンと友達になってくれたろう」

「あれは……腐れ縁みたいなもんっていうか……大事な友人ではありますけど……というより、それに関しては俺の方こそお礼を言わなくちゃいけません。こんな見た目の俺に物おじせずに話しかけてきたやつは初めてでしたよ」

「そう言ってくれてありがたいよ。ノーマンはな、悪いやつじゃないんだが……ほら、な。いろんなところに首を突っ込むから」

「あー」


 わからなくもない。

 けれどそれはきっと、ノーマンにとって大事な人や物を守るために必要なことなのだろう。うっとおしいと思ったことがないとは言わないが、そのきっぱりした姿勢は素直に尊敬する。


「あいつもあれで、昔は苦労したんだよ。だからな、君に会ったら言おうと決めてたんだ。ありがとうな」

「とんでもないです」


 ラルフさんはしばらくの間ルーベルをじっと見ていたが、しばらくして、わふっと吠えた。


 へっへっへっへ

 へっへっへっへ


「ラルフさん、やっぱ犬じゃ……」

「ちがう」



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