【EP.8】青天の霹靂
「あ、あの、聖女様……」
おそるおそる声を掛ける。
呼ばれた食事の席で真正面から敵対意志をぶつけられたのだ。ヘンリエッタ……相手が聖女だとしても大胆に欲をさらけ出した、さまざまな意味で近付き難い女性。
けれど男の人にとっては、彼女のような相手が魅力的に見えるのだろうか。
黙ったまま廊下を進む聖女の背中を追う。表情は見えないが、あれだけ好き勝手言われて心穏やかだとは思えない。
客室に入ると、こちらに向き直り片手を出してきた。
「アシュレイ、あのなんでも入る袋、あったでしょ。ちょっと貸して」
「《次元袋》ですか? ちょっと待ってください」
ベッド上に投げ出した鞄から、特殊な文様を縫い付けられた布袋を手渡す。
マリナはそれを受け取ると、おもむろに頭から被った!
「えぇ!?」
声が出た。
そのままマリナはしばらく肩を怒らせたり、床を踏み鳴らしたりしていた。声はまったく漏れ聞こえないあたり、《次元袋》の性能の高さを感じる。
無言の奇行に呆然としていると、息を切らせながら袋から顔を出した。
「……はー、すっきりした」
「落ち着いたようでなによりです」
手渡された袋を受け取る。
この魔法具を持たせてくれた教会の魔術師も、まさかこんな使われ方をするとは思わなかっただろうな……などと考えていた。
マリナはテーブル横の椅子に腰を掛けると、こちらの顔を見て――ニヤリと笑った。
「それよりも、いいことを聞けたわ」
「いいこと、ですか?」
憑き物が落ちたような、さっぱりした笑顔だ。
「安心した、って言った方がいいわね。あまりにもあのバカの姿が見えないから、この船に本当はいないんじゃないか……って不安だったの。あたしの早とちりだったら、って」
木の窓枠、その向こうの暗い海を見る。闇色の中に、波の音。
「――でも、そうじゃなかった。あいつは確かにこの船にいる。見つけて縛り上げてやるわ」
確かな存在を確信したマリナは、闘志が満ち満ちているようだ。
「わかりました。私も、できる限りご協力いたしますね」
「ありがとう、アシュレイ。それにしても……」
こちらをまじまじと見つめる。
「あの状況でよくもりもり食べてたわね。お腹空いてたの?」
「そ、それはその、それしかできなかったので……」
消去法で選んだ行動だが、改めて言われると恥ずかしい。
「いいのよ。むしろその図太さは頼もしいから」
「図太い……」
褒められたのだろうか。複雑。
「でも少し食べ足りないわね。今からご飯もらえるかしら」
「そういえば、続きは部屋に運ぶと――」
言いかけたタイミングで部屋の扉がノックされた。
私がドアを開けて確認すると、料理皿を乗せたカートを伴った給仕に一礼される。
「聖……マリー様、お夕食ですよ」
「あの女も変なところで律儀ね」
感心と呆れ半々の声色。
「運び込んでもよろしいですかっ?」
「構わな……嬉しそうねあなた」
許可が出るや否や、室内のテーブルに皿を運び込んだ。
のちに聖女曰く、『ご飯前の実家の犬』だそうだ。
◆ ◆ ◆
翌朝の聖女の行動は早かった。
私に、なにも描かれていない巻物はあるかと尋ね、予備のものを渡す。すると、船内に掲示されている地図までつかつかと歩み寄り、その図を描き写した。
朝方だったので、人目につかなかったのが幸いだ。
再び私室に戻ってきたら、朝食を摂りつつ手元の地図をにらみつけ、勇者の位置を推測し始めた。
「昨日、乗客が自由に立ち入れる場所はあらかた調べたのに、アレはいなかった。すれ違った可能性も考えたけど、あの目立つ男の噂一つ立たないのはおかしい」
「念のためお聞きしますが、それは勇者様が大人しく過ごされているということは――」
「絶対、ない」
力強い断言。
「そ、そうですか。だとしたら、勇者様は乗船してはいるけれど、他の客の目に触れない場所にいる……?」
「でしょうね。臭いのは――ここ」
テーブル上の手書きの図、その中の一点を指し示す。
そこは船の下層部。乗客が立ち入る必要がないので、詳細が省かれている範囲だった。
「例の領主様が言ってたじゃない。この船には特殊な機構があって、その製作にあの女も関わってたって」
「確かに、ヘンリエッタ……嬢の手の届く範囲、というより庭のようなものですね」
目星はつけた。あとは、どうやって潜入するか――
「案外堂々としていれば行けたりしないかしら?」
「さすがに止められる気が……でしたら、これはどうでしょう」
シンプルながら有効そうな策を提案する。マリナも、それでいきましょうと同意してくれた。
必要なものを用意して、私たちはすぐに行動に移した。
足音を殺して階段を降りる。
薄暗い空間に、小窓から光の筋が差し込む。詰まれた木箱が所せましと並べられ、通路以外は黒い影で埋め尽くされていた。
そのさらに奥――もう一つ下の階へ続く階段の前に、荷物確認兼見張りを任せられている船員が目に入った。
「姿勢を低くしていればそっと近づけますね」
「ヒールのない靴に変えて正解だったわ」
積み荷の陰に隠れながら、奥へ進んでいく。
近くで見ると、船員は資料を片手に荷物を検品して回っていた。作業中ではあるが、さすがに階段に向かったら気付かれる位置だ。
「じゃあ、やりますね」
頷くマリナを見て、手元の巻物を広げる。
――ニャア。
不意に聞こえた鳴き声に、船員の男は顔を上げる。
「なんだ?」
小さく呟き、辺りを見回す。
――ニャア。
声の出処を探すため、荷物の隙間を次々と覗き込んだ。
「ネコでも紛れ込んだか?」
ぶつぶつと呟きながら各所に目を配る。
男が目を向けた先の暗がり――二つの目が影に溶け込んでいるのを見つけた。
「なんだ、やっぱりネコか。ほら、こっちこい」
手を差し出し、しゃがみこんで話しかける。
――ニャア。
じっと潜む生き物と目を合わせ…………そのままごろんと横に倒れた。
近付いて様子を伺うと、船員は規則正しい寝息を立てて通路に転がっている。
「よくやったね。おいで」
私が影に呼びかけると、二つ――ではなく三つの目を持つイビルキャットが足元にすり寄ってきた。
「寝ているだけなのよね?」
「ええ、この子は催眠系の魔術が得意なので」
脚をよじ登ろうとする黒の毛玉を抱え上げる。大きさは普通のネコよりも小柄だ。
「今のうちに行きましょう、アシュレイ」
「はい、聖女様」
マリナが下りの階段に向かっていく。
彼女のあとを追って階下に降りた。足元が照らされる通路と、頑丈な鉄扉がいくつか。
「……なに、お香?」
よどんだ空気の中に、甘ったるい香りが漂っている。
「これは、おそらく魔力循環促進用の薬香。魔術儀式の際によく用いられるものです」
腕の中の三つ目ネコがゴロゴロと喉を鳴らした。魔力を持つ生物にとっては過ごしやすい環境のようだ。
「船の動力源の魔術設備とかいうのと関係ある?」
「薬香まで使うのはだいぶ大がかりな魔術のはずですが、船の動力にそこまでのことをするのは……少々疑問ですね」
意見を述べながら、匂いの出どころを探る。
廊下を進んでいると、イビルキャットが不意に飛び降りた。一つの部屋の扉をカリカリと引っ掻いている。
「ここ?」
「おそらく間違いないかと」
キャットをドアから離すと、マリナと私は扉を見据えた。
金属製の縁に、錠が打ち付けられた武骨な造り。他の扉と変わらない見た目だが、香りは一層強まっている。
「開けるわね」
マリナがこちらに目配せする。私もつばを飲み込みつつ頷いた。
彼女の手には銀色の錫杖が握られている。空いた片手で扉を――開いた。
「――うっ」
むせ返るほどの甘い香り。
広くもない部屋は燭台のロウソクに照らされ、床の木目を際立たせていた。
そんなことよりも――
「これは……魔術陣?」
床一面に赤黒いもので描かれた、円。幾何学の模様がそれに沿って並べられている。
中央に踏み入らないようにそっと近づく。
「アシュレイ、なにかわかる?」
「うーん、召喚術じゃないのはわかるんですが、それ以外は……」
マリナと並んでまじまじと見つめ――
「もうすぐわかるわよぉ」
背後から声がした。
「えっ」
振り返る寸前、背中を軽く押された。
バランスを崩して倒れ込む。
「アシュレイ!」
手を差し伸べようとしたマリナともども、陣の中に踏み込んでしまった。
視界のすぐ横の模様が光る。見上げると、楽しそうに微笑むヘンリエッタ。
「う……」
とても眠い。瞼が閉じることに抗えない。
「なに、を……っ」
マリナが言葉を絞り出す。
辛うじて甘い声音だけが耳に入った。
「素敵な素敵な夢が見られるからねぇ……うふふ」
私のすぐそばにマリナの倒れる気配がして――
意識は闇に沈んだ。
◆ ◆ ◆
花びらが舞う。
色とりどりの欠片が、白い装いの男女へ降り注いでいた。
「あれは……」
呟いたけど、それが空気を震わせることはなかった。当然、誰の耳にも届かないようで、大勢の中でこちらを気に掛ける者は誰一人いない。
知らない建物。知らない装い。知らない風景――
だけど不思議と理解できた。これは婚姻の儀だ。
異国の……文献でも見たことのない習慣に則って行われている。
妙に明るいと思ったら、天井付近から二人の場所にだけ光が降り注いでいた。祝福をしている人々の中心にいる、幸せそうな……
「――あれ?」
女性の方、そこには見覚えのある顔があった。よく見れば男性の顔も記憶に引っかかる。
「聖女様と……勇者様?」
腕を組み、手を取り合う二人が中央の道を進む。華やかな衣装をまとった友人、知人が口を揃えて祝辞を述べる。
白いドレスの女性が言った。
『今、とても幸せよ……一緒にいることを選んでくれてありがとう』
白い礼装の男性が答えた。
『ああ、オレも――』
そのとき、室内にもかかわらずつむじ風が舞った。吹き付ける花びらに思わず腕をかざす。
風が収まり顔を上げると――景色が一変していた。
どこかの一室。先ほどと比較すると狭く感じてしまうけど、人が生活するには十分のスペースがあった。
知らない物品の数々が並んでいたけれど、テーブルや戸棚の形は変わらないようだ。
――ピピピピ、ピピピピ。
「……!?」
不意に聞こえてきた奇怪な音に肩が跳ねる。
音の源は低いテーブルに置かれた、平たく四角い物体。表面にはなんらかの文字が浮き上がっている。
『――スマホどこだったかしら』
部屋の奥からパタパタと歩いてくる女性。手には乾いていない衣類を入れたかごを持っていた。
一度それを置いて、音の鳴る板を手に取る。
怪訝そうな顔をして、それを耳に当てた。
『はい、もしもし?』
『そちら、アキグチマリナ様の携帯電話でよろしいでしょうか?』
彼女が手に持つそれは、別の人間と連絡を取るための道具らしい。相手の声も不思議と聞こえる。
『ええ、そうですが……』
『こちら■■警察署の者ですが、お宅の御主人が■■県で単独事故を起こしまして』
『えっ』
マリナが目を見開いて、通話道具を取り落としそうになる。
慌ててそれを握り直し、会話を続ける。
『そ、それで、夫は? 無事なんですか?』
『命に別状はなく、現在■■病院へ搬送されましたが、その……』
通話の相手が言いよどむ。
眉をひそめるマリナ。一息置いて、言葉が続く。
『同乗していた女性も、同じ病院へ搬送されまして……』
『……女性』
『旦那様のお知り合いかと思いますが、一応ご連絡をさせていただきました』
一拍考え込み、マリナが落ち着き払った声を発する。
『わかりました。ご連絡くださりありがとうございます』
それだけ告げると、通話を打ち切ったようだ。
しばし呆然と宙を見ていた彼女が、硬い意志を瞳に宿す。
『……ここが潮時ね』
呟きつつも、荷物をまとめて外に出る準備を始めた。
霧に覆われたように視界が白色に包まれ、再び場面は転換する。
白色を基調とした屋内に、いくつもの寝台が並べられている。
ここは病を治すための施設なのだろう、と推測できた。
しかし、一つのベッドを除いて他には誰もおらず、間仕切りのカーテンも開け放たれている。
そのベッドを取り囲むのは数人の老若男女。
彼らの背中越しに背伸びをすると、中央には片足を分厚い布で固定されている男性が目に入った。その顔は、どこか自信に満ちている。
『お前だけじゃなく、父さんと母さんも来てたのか。それに姉ちゃんも。みんな心配性だなぁ、はは』
見舞いに訪れてくれたと考えたのか、困りつつも嬉しさを隠せない表情。
ただし――
『ねえトシヤ。訊きたいことがあるの』
傍らに座っていたマリナの声は、平静さの中にわずかながら震えをはらんでいた。
『ん? なんだ?』
『あなた、なんて■■県にいたの? 出張は別の県じゃなかったかしら?』
そう問われ、なんだそのことか、と言わんばかりにトシヤは眉尻を下げた。
『いやぁ、実は急に会社から変更があったって言われて、お前に連絡するのを忘れてたんだ』
『……そう』
マリナは、周りの男女と顔を合わせる。彼らも、沈痛な面持ちで溜息をつく。
年配の女性が口を開いた。
『さっきね、アンタの会社に連絡したら、アンタじゃなくて別の人が出張に行ってるって聞いたよ』
固まるトシヤの笑顔。
となりの男性がさらに追及する。
『おまけにお前は数日の有給申請をしていたそうじゃないか。どういうことだ?』
圧のある尋問。
『いや、オレにもやっぱり息抜きは必要っていうか、有給も消化しなきゃいけなかったから――』
『あたしになにも言わないで?』
トシヤの言い分をマリナが遮った。腕を組んだまま、冷ややかにベッドに横たわるトシヤを見下ろす。
『半分はオレの息抜きだけど、もう半分はいつかお前と行く場所の下見みたいなもんだったんだよ』
『へぇ、下見。そう、ふぅん』
マリナの目は笑っていなかった。
痺れを切らしたのか、マリナより少し年上と思われる茶髪の女性が声を荒げた。
『いい加減にしな! 全部マリちゃんから聞いてるんだよ! アンタが有りもしない出張に女と出かけたってこともね!』
相手が怪我人じゃなかったら今にも殴りかからんとする勢いだった。
『いや、それは誤解だって。一緒にいた人も会社の後輩で――』
『嘘言うんじゃない! だいたい、アンタ昔から嘘言うときは出だしに「いや」ってつけるんだよ!』
『いや……あっ』
口を突いて出た言葉に、ようやくトシヤが沈黙した。
深い深い息を吐いて、マリナが語り出す。
『ドライブレコーダー、あなたの携帯、同乗していた女性の素性……あたしが検めた情報すべてよ』
彼女の声が、静かな病室に淡々と響く。
『なんでかわかる? もうずっと前から知ってたの。あなたが私を裏切っていたこと』
『な、なんで……?』
『見ちゃったのよ。あなたが知らない女と恋人みたいに振る舞っているところを』
すべてを諦めたような、乾いた言葉が続く。
『ああ、それと。共同預金の通帳も確かめたわ。あたしの知らないところで、ずいぶん引きだされているみたいだけど……どういうことかしら?』
その言葉に、老夫婦と姉の顔色がサッと変わる。
『お前、またそんなことを……』
失望したように男が呟く。と同時に老年の女性がマリナに深々と頭を下げた。
『ごめんなさい、マリナさん。うちのバカ息子がとんだご迷惑を……!』
『母さんっ、そんな頭を下げなくても――』
『誰のせいだと思ってんだ、愚弟が!』
立場を理解していないトシヤの脚を引っぱたく姉。悶絶するトシヤ。
そこに、新たな人物が現れた。
『やめて! トシヤ先輩は悪くないの!』
その場の全員――私を含め、一斉に振り返った。
緩く巻いた髪に腫れぼったい唇。病人用の装束でもわかる重量のある胸を揺らしながら、取り囲む人に割って入ると、寝たままのトシヤに抱きついた。
『いだだだ……』
漏れた声など誰もが無視して、突如現れた女の振る舞いに注目する。
『トシヤ先輩はかわいそうなんですぅ! いっつもいっつも家で鬼みたいな嫁にこき使われて、手作りのご飯なんて食べたのは結婚して最初の三日だけ。共働きなのに家の家事は全部トシヤ先輩の役割で逆らったら罵倒されて、おまけにデブでブスで化粧もしない女捨ててる女のくせに夜は出歩いてほとんどいないって、かわいそうな結婚生活を送ってたんですよ!』
目に涙を浮かべながら、怒涛の言葉を並べ立てる。
困惑してお互い顔を見合わせる老夫婦たちに、巻き毛女はさらに言い募る。
『なにより、こんな大怪我してるのにあの鬼嫁は見舞いにも来ないじゃない! 三ケタ体重のデブなんて一目見ればすぐわかるでしょ、ねぇ!』
『それよりアンタ誰?』
いち早く我に返った姉が問いかけた。
女の代わりに、マリナが口を開く。
『オソザキヒメコさん、でよろしいかしら?』
マリナが椅子から立ち上がり、静かに一礼する。
礼儀正しい振る舞いだが、彼女の周りだけ重力が強まったような、局所的に重苦しい空気がまとわりついている。きっとそれは怒りから生じているものだろう、とその場の誰もが理解したようだ――女以外は。
『……なに? トシヤ先輩のお姉さんかなにか?』
わざとらしく鼻をスンスンとすすりながら、涙目でにらみつける。
負けじとマリナも冷酷に言い放つ。
『初めまして。夫がお世話になっております』
彼女の名乗りに、女が一度まばたきする。
『はぁ? あなたが? え?』
『悪いわね、三ケタ体重じゃなくて』
面食らった女だが、すぐに勢いを取り戻す。
『まぁ性悪女なのは変わりないようですね。こんなのに縛り付けられてるなんて……かわいそうなトシヤさん……ッ』
わざとらしく口元を手で覆う。が、マリナはただ氷の眼差しで場を見ていた。
『――さて』
マリナの視線が、トシヤを捉える。
『マ、マリナ……? オレそんなこと言ってな――』
『振込詐欺に引っかかったときも、ご両親に無断で二世帯住宅を建てようとしたときも、付き合いで行ったキャバクラ遊びが高じて十数万の浪費をしたときも、飼えもしないネコを五匹拾ってきたときも……あたしは全部許したわ。いえ、諦めと言った方がいいかしらね』
一度息を整える。
『なんでかわかる? 良くも悪くもあなたの優しさが招いたことだったから。あなたは底なしのバカだけど、明るくて前向きで優しかった。でもね――今回ばかりは許容できない』
声が一段低くなる。
『最後の情けとして、怪我が治るまでは待つわ。そのあとは弁護士を通して話しましょう』
そう宣言し、女と目を合わせ――
『――あなたも』
視線に殺傷力があったら、すでに十数人が射抜かれているほどの迫力だった。
しかしそれに気付かないのか、若さゆえの猪突猛進さなのか、女は唇を尖らせる。
『はぁ~? ババアがイキがっちゃって痛々しいですよ。わたしはトシヤさんの乾いた心を潤してあげただけ。あなたたちの愛情はとっくに干上がってたんですよ』
『既婚者に手を出すような躾のなってない小娘がでかい口を叩くものね』
『おばさんこそ、見た目はともかく中身はすっかりババア根性が染みついているみたいですね。見苦しいですよ?』
『倫理観は親の腹に起きてきたのかしら?』
口を挟めず、強張った表情でやりとりを眺める老夫婦と茶髪の女性。二人の応酬を止めたのは――
『もうやめてくれ! マリナもひーたんも。オレを愛する二人が争うところなんて、オレは見たくないっ』
横になったままのトシヤだった。
『――はぁ?』
『トシヤさん……!』
渾身の苛立ちと、感極まった声音が交錯する。
『二人の愛は十分わかった。どちらかを選ぶなんてこと、オレはしない。なぜなら……オレは二人を、いやそれよりも多くたって、愛し続けることができるからな!』
「うわ……」
思わず声が漏れた。
なんとなくダメな人なんだろうな、とは思っていたが、まさかここまでとは……
無表情になった姉が、近くのベッドから人数分の枕を持ち寄り、両親とマリナに手渡す。受け取った彼らは無言のまま、ベッド上の患者を枕でバシバシと叩きはじめた。
怪我人相手へのギリギリの気遣いと暴力の狭間。
『キャー、トシヤさんッ!』
なかったことにされる女の声。いったい私はなにを見せられているんだろう……
そんなことを思った矢先――
宙に亀裂が走った。
「あれは」
見覚えのある次元の割れ方。直後、目に映る景色が陶器を砕くように崩れ去った。
足元すらおぼつかない空間に、彼女は凛として立っていた。
「ここにいたのね、アシュレイ」
「聖女様!」
彼女は――マリナは、安心したように笑みを見せた。