【EP.7】呉越同舟
青天。
前日のうちに船旅の準備を終え、朝早くに泊まっていた宿をあとにした。
船内でも食事は出るだろうが、念のために数日分の食糧や備品を買い込み、《次元袋》に詰め込んだ。
そして――姿を隠すための装束。
「こ、これは……やりすぎじゃないでしょうか?」
「店員の押しが強くてつい……」
昨日のことを振り返る。
酒場を離れたあと、その足で商業区に向かった。貧相過ぎず、かといって華美過ぎない衣服屋を探した。
ちょうどいい店を見つけ、店内で物色していると、そこの店員が語りかけてきたのだ。
「なにかお探しでしょうか?」
「そうね。大きな客船に乗っても悪目立ちしない程度の服装とかあるかしら?」
それだけ告げると、壮年の女性は瞳を輝かせた。
「まあ! お客様もしやあのクインヘンリー号に乗船なさるの?」
「え、ええ」
恰幅の良い笑顔の店員に押され気味のマリナ。
「あらあら、じゃあ思いっきりおめかししないと!」
張り切って準備し始めた彼女を、私たちは止めることができなかった。
「うちみたいな庶民向けのお店に、貴族さんたちの船の招待者がいらっしゃるなんて。精一杯すてきなお召し物用意しますね。サービスしますんで、ぜひ他の貴族さん方にも売り込んでおいてくださいね」
しっかり商売上手な文言も交えつつ、この店のどこにあったんだと疑問を抱かずにはいられない高級生地のドレスが出てきた。
さすがにそれは丁重に断り、マリナはほどほどに仕立てられた細身のドレスと帽子を選んだ。
「アシュレイはどうする?」
「えっと、私は……」
女性店員の矛先がこちらに向いた。
「あらぁ、かわいらしい子ね。あなたにはそうね……こんな服はいかがかしら?」
再び店の奥から衣類箱を引っ張り出してくる。
そこからしばらくは着せ替え人形と化した。途中からマリナも目的を忘れていた気がする。楽しそうに服を選んでいた。
妙齢の女性二人にあれこれとめかしつけられ、宿に帰ってベッドに倒れたときはすでに日が暮れていた。
最終的にそれぞれ一着選んだ。
当日、それらを着込んで船着場に向かい、待っていた男性に声を掛ける。
「あ、お二人とも、お待ちして……えっ?」
「なにも聞かないでください。なにも」
彼はこちらを見て困惑しつつも、私たちを船のタラップへ案内してくれた。
マリナは深い青色をベースとした、長袖ロングドレス。船旅での日差しを遮ってくれるという売り文句の、つばの広い羽根つき帽子。長い黒髪はまとめあげ、帽子で覆い隠している。
対して私は――白いフリルをあしらった膝下ワンピース。スースーする足元が落ち着かない。袖口や襟元にもフリルが盛られ、大きな布鞄は腰に巻きつけていた。
「あの、聖女様。なぜ私だけこんな……」
頭から落ちそうな花飾りの位置を直しつつ、船縁に肘をつくマリナに不満を伝える。
「似合ってるわよ」
「そうじゃなく……いえもういいです」
いろいろと諦めると、汽笛が鳴り響いた。
甲板の方では出港式の式典が開かれている。それとなく様子を伺うと、今は出資者らしき貴族のスピーチが行われていた。一段高くなった台座の上で、一組の男女が寄り添いながら演説していた。
男性の口が開いているが、声は波にかき消された。少しして、周囲の招待客たちの拍手。
「美男美女ねぇ」
帽子のつばを引っ張りながらマリナが目を細める。
ひときわ大きな歓声のあと、足元がぐらりと揺れた。
――港を出たのだ。
振り返ると、桟橋から見送る人々。その中には、取り次いでくれた眼鏡の男性もいた。見えるかわからないけど頭を下げる。
ぼんやりと岸辺を眺めていると、水音に混じって周囲の話し声が耳に入った。
「――いくら高貴なお方とはいえ、このままでよろしいのかしら?」
貴族の夫人が囁く。
「イヴァン様の選んだお方だからな……」
髭を撫でながら男が返す。
「だからって、もともとの婚約者とあれほど仲睦まじかったのに」
「あれは少々気の毒だったな……まぁ、私たちは領主様に進言できる立場ではないからな」
話している二人の視線は、先ほどまで男女が立っていた甲板へ向けられている。
「なんだか、よくない話があるみたいですね」
「どこにでもいるのね、クズ男って」
マリナが吐き捨てた。
そのまま船内に降り、客室へ向かう。その背を追いながらさっきのことを尋ねた。
「今の話はどういう……?」
「さっき挨拶してた領主様とやらが、婚約者を捨てて別の女に乗り換えたって話でしょ? よくある話よ。ええ、本当によくある……」
声が徐々に低くなる。
そのまま勇者の首を狙いに行きそうな彼女を慌てて引き留めた。
「お、お待ちください聖女様っ。勇者様をお探しになりたい気持ちはたいへん、たいへんわかりますが、真正面から向かってもまた逃走なさるのが目に見えています」
通路を進んでいたマリナの足がぴたりと止まる。
「さすがに湖のど真ん中なら、あのバカも逃げ場はないんじゃないかしら?」
「まさか聖女様、それを狙って船に……!?」
なんという計略。驚きの声を上げるが、マリナは居心地悪そうに目を背けた。
「いや、それはたまたまだけど……あいつが乗船したのも運が良かったのよ」
「そうでしたか。ですが、やはり面と向かって話そうとしたら、なんらかのトラブルが発生するかもしれません。船が対岸に着くのは二日後です。長いとは言えませんが、まずは様子を伺いましょう」
最悪、聖女と勇者の力がぶつかり合って船が沈みかねない。
マリナもその可能性に至ったのか、眉を寄せて思案する。
「……このあとの客人の予定はどうなっていたかしら?」
尋ねられ、乗船の際に伝えられた説明を思い出す。
「たしか、食事は決まった時間に会食がありますが、自室で済ませることもできるそうです。それ以外の時間は、船の動力関係の部屋を除き、自由に観覧して構わないと」
顎に指を添えるマリナ。
「会食時にヤツを見つけて、私室の特定まではしておきたいわね」
「そうですね。居場所があらかじめわかっていれば、対処できることも多いでしょうし」
マリナの意見に同意する。
「決まりね。昼食の時間まで、船の中を見て回りましょう。あまり目立たずにね」
「地理の把握ですね、わかりました」
道案内の標識を頼りに、あてがわれた自室を確かめる。王城の客室を体感した身では、ずいぶんと小さく感じられた。
二人分の寝台に、二人分のローテーブル。
自分に近いベッドに、荷物整理のために布鞄を降ろした。
廊下の案内板を見る。
見取り図を確かめ、船内の地理を把握した。決して複雑な構造ではないが、客人が入れないエリアは詳細が省かれている。
「行くことはないでしょうけどね」
とマリナはこぼしていた。
昼食を取ろうと会食場に向かうと、立食形式のテーブルが均等に並べられていた。
白いテーブルクロス。綺麗な照明。毛足の長い絨毯――落ち着かない場所だったけど、皿に盛られた多種多様な料理にお腹が鳴りそうだ。
「わぁ、美味しそうですね聖――マリー様」
「ええそうね、アシュ……リー」
突貫で決めた呼称はぎこちなかった。若干響きも被ってる。
テーブル周りを眺めた。着飾った老若男女が談笑している様子が目に入るが、勇者の姿は見当たらない。
「あの方はいないみたいですね」
「みたいね。いたらすぐ気付けるでしょうし」
マリナも諦めて、小さく息をつく。
「――とりあえず、なにか食べましょうか」
「はいっ。あ、お皿持ってきますよ。なにになさいますか?」
小さな皿に乗せられた様々な料理。各自で手に取り舌鼓を打っている。
「自分で取るから大丈夫よ」
そう返されたので、二人で料理テーブルに近付いた。
――不意に、進路を人に塞がれる。
「おや、初めてお会いする方ですね」
整った容姿の、柔和な笑顔。大男というわけではないが、長身に質のいい身なり。どこかで見たような――
「あなた、確か……」
私が考え込んでいる間に、マリナは思い当たったようだ。ただ、どこか複雑な顔をしている。
「私はイヴァン・ウォーラム。このクインヘンリー号の造船の責任を担った者です。イヴァン、とお呼びください」
にこやかに告げると、恭しく頭を下げた。
少し前、甲板上で式典のあいさつをしていた男女の片方だとようやく気付いた。
――風の噂とはいえ、婚約者を捨て、新しい女性を迎えたというヨーロッド領領主。
「それで、お二人はどのような御縁で、この船に乗り合わせた方々で?」
質問を投げかけるイヴァン。心配とは裏腹に、穏やかに微笑むマリナが答える。
「わたくしはマリー。こちらは姪のアシュリー。知人のご紹介にあずかりまして。ただ、その知人は本日体調不良で、泣く泣く初乗船の機会を逃してしまいました。とても残念がっていましたよ」
事前に考えていたのか、すらすらと嘘八百が並べ立てられた。
「おや、そうだったのですか。私としても、大変心苦しいです」
二人それぞれ沈痛な面持ちを浮かべる。
「イヴァン様、でよろしいかしら。先ほどの素晴らしい演説、遠巻きながら拝聴しておりました」
「あなたのような貴婦人にお褒めいただき、光栄です」
「ところで、あのときにご一緒していた淑女は……?」
マリナの言葉に、イヴァンは周囲を見回す。
「彼女は……先ほどまで近くにいたのですが、今度改めてご紹介いたしますね。きっと仲良くなれますので」
困ったような笑みを見せる。
そこからしばらくは、イヴァンから船の説明を受けた。情報収集のため話を引きだしたのはこちらだが、どうにもよくしゃべるしゃべる。
船の機関部には最新の魔術設備が備えつけられ、今までの船とはまったく別の動力で動いていること。その技術に協力したのが、あのときとなりにいた女性だということ。彼女のことを褒め称える幾重もの言葉――
マリナの手にするワイングラスが空になるころ、イヴァンは船の係員らしき人物に声を掛けられた。小声で言葉を交わしたあと、私たちに向き直る。
「――すみません。呼ばれてしまったので、一度失礼いたします。また改めて」
一礼すると、彼は別のテーブルで歓談している一団の元へ歩を向けた。
その背を見送り、マリナが肉料理の皿を手に取る。
「マリー様、この船相当特殊な魔術機関があるみたいですね。教会でも聞いたことがない機構でした」
「あらそうなの。あたしがわかったことはね――」
手元の肉にフォークを突き立てるマリナ。
「あの男はどうにもいけ好かない、ってことよ」
その声は、勇者を目の当たりにしたときの三割ほどの迫力だった。
会食後、さらに船の中を見て回ったものの、勇者の姿は見つけられなかった。
代わりに、噂好きの富者たちから領主イヴァンの話を山のように聞けた。
イヴァンには婚姻を約束した相手がいた。誰の目から見ても順調に愛を育んでいるように思えたが、先日突然の婚約解消。そして新たな女性と親しくするようになったという。
「最初は普通の男かも、って思ったけど、彼女の話を始めたときに目の色が変わったのよ」
「そ、そうだったんですか。気付きませんでした」
マリナ曰く、どこか熱に浮かされたような、話している相手を見ずに語っていると感じたそうだ。すっかり心酔しているようだ。
「このパターン、男もアレだけど、女の方もだいぶ事故物件な気がするわ」
「言葉に重みがありますね」
遠くを憎々しげに見つめながらマリナは話していた。
そうして間がいいのか悪いのか――
「――もし、そこのあなた」
呼び止める声に、通路を進むマリナと私が同時に振り返る。
ちょうど曲がり角の死角に立っていたのか、妙齢の細身な女性が立っていた。レースの施された白色を基調としたドレスは、彼女のスタイルを引き立たせている。
ただ……
「なにかしら?」
マリナの声は一段低くなった。
それは、彼女がイヴァン領主のとなりに立っていた例の女性だと気付いたからなのか、それとも……どこかおぞましい、不穏な魔力を身にまとっていたことを察したからなのか。
「そんなに怖がらなくてもいいのよぉ。わたくし、あなたのことは知ってるからぁ。親愛なる――聖女様?」
間延びした口調。笑みを浮かべる口元とは真逆に、その蜂蜜色の眼は獲物を見つけた蛇系魔獣のようだった。
捕食者。そう感じた。
「あら、それで?」
警戒一色の声色でマリナが再度尋ねる。
「別にいいのよぉ。この船はあの人のものだから、わたくしは誰が乗客でも構わないの。でもねぇ」
コツコツとハイヒールを鳴らしながら女性が近付く。マリナは腕を組んで堂々と立っていた。
人一人分の距離に立つと、両者の視線がぶつかり合う。
「わたくし個人は、あなたとお話してみたいと思ってたのよぉ。今夜ディナーをご用意させていただくから、ご一緒いたしません?」
桃色の唇が笑みを浮かべる。
マリナはわずかに顔を伏せ、帽子のつばで視線を遮った。
「悪いけど、ご遠慮させ――」
「勇者様のお話、したいなぁ」
蠱惑的に呟く。
再び顔を上げたマリナが、取り繕う必要はないと判断したのか、鋭い視線を相手に突き刺した。
「ね? よろしいでしょ?」
「…………わかったわ。この子も一緒でいい?」
私を示すマリナ。
「ええ。かわいいお人形さんはいくつあっても素敵だものねぇ」
金色の髪を背に払いながら許諾する。
「じゃ、日暮れに迎えを送るから、客室で待っててねぇ」
言いたいことを言いきったのか、ヴェールの手袋に包まれた手をひらひらと振り、客室通路の奥へと消えて行った。
「聖女様、今のは……」
「あれは地雷じゃなくて魚雷ね」
疲れた表情を浮かべ、そう言い捨てた。
◆ ◆ ◆
結局のところ、勇者の姿はどこにも見当たらなかった。
ゆったりと進む船とは裏腹に、私たち――主に聖女は焦りを感じているようだった。
船窓から見える水面。その波に夕日の色が溶け出す。
「間違いなくあいつはこの船にいるのよね?」
「ええ、それは確かなはず……ですが」
途方に暮れて私室で向かい合わせに座っていると、ノックの音に二人そろって扉を見る。
「お食事のご用意ができました。今からご案内できますが、いかがいたしますか?」
落ち着いた男性の声だ。
無言で立ち上がるマリナ。すぐにでも動くつもりだったのだろう。
「――大丈夫よ。案内、お願いできるかしら」
扉越しに言葉を返した。
両開きの扉が目の前で開く。
広い部屋の中央にはテーブルクロスに覆われた長机。天井に固定された魔力灯が煌々と室内を照らす。壁際には絵画が飾られ、数人の使用人が控えていた。
「お待ちしておりましたぁ」
食前酒を片手に、テーブルの片端に座る女性が声を掛けた。
彼女を一瞥すると、マリナは反対側の椅子に腰かけ、首元の紐を解くと帽子を外す。すぐに使用人が近付き、帽子を預かっていった。
となりにもう一人分の、真正面から外れた席が用意されていたので、私は静かにそちらに座る。
「お酒はいかが?」
「結構」
短い言葉を交わす間にも、テーブル上にナイフやフォークが並べられた。
少しして、別室から前菜の皿が運ばれ、目の前に置かれる。
美味しそうな料理だが、手を付けていいのか逡巡していると――
「どうぞ召し上がって。大丈夫よぉ、そんなつまらないことはしないから」
控えめに笑うと、銀食器を手に取り食事を始めた。
……毒は入ってないと示したようだ。
マリナは落ち着いた動作で料理に手を付ける。それに倣って私もぎこちなく手を動かした。
食器が皿に触れる音が響く。
重苦しい空気。口を開くこともできず、黙々と料理を口に運んでいた。美味しい。
「――ああ、そういえば」
不意に、女性が思い出したように声を上げた。マリナは視線だけを向ける。
「妹がお世話になったみたいねぇ」
「妹……?」
疑問が口を突いた。
彼女の妹とは……と考えて、そもそも彼女の名前すら知らないことに思い至った。相手もそれに気付いたのか――
「あら、わたくしったら自己紹介がまだだったのねぇ。改めて、わたくしはヘンリエッタ――ヘンリエッタ・グノー、と言えば思い当たってくれるかしら?」
「えっ」
「ああ……」
驚きの声が漏れる私。納得したマリナ。
記憶の糸を手繰る。グノー家の姉妹はさまざまな魔術に長けていたが、妹であるグロリアはそれを利己的に利用し、先日騒動を起こしたばかりだ。
思えばグロリアも目の前の女性も、美しい金色の髪をしている。
「妹の仕返しってことかしら? あなた、そういうタイプには見えないけど」
「ふふっ、よくおわかりでぇ。そうね、あの子のことは……心底どうでもいいわ」
口元をナプキンで拭きながら、ヘンリエッタは興味なさそうに呟いた。
「そんなのよりも、わたくしは聖女様……そして勇者様の方が気がかりだわぁ」
蜂蜜色の瞳が細められる。
「はぁ……いったいなにがあなたの興味を引くのか知らないけれど、厄介事は勘弁してほしいわね」
マリナは面倒くさそうに牽制する。それでもヘンリエッタはしゃべり続けた。
「つれないこと言わないでぇ。あなたと勇者様って、ご夫婦だったと聞いてるけど、それって本当?」
ピクッ、とマリナの手が止まる。一瞬だけ怒りのオーラがにじみ出たが、すぐに収まった。
「……ええ、残念ながらね」
「あらワケアリ? 仲睦まじい方が、わたくしとしてはありがたかったけれど」
ころころと喉の奥で笑う。
「――世界を救うために遣わされた愛し合う男女……素敵ねぇ」
「回りくどい。なにが言いたいの?」
苛立たしげに食器を置く。給仕が即座に皿を下げた。私の目の前の空いた皿も、静かに持ち運ばれる。
ヘンリエッタは頬に手を添え、恍惚とした表情で語り出した。
「わたくしね、人のものにしか興味なくってぇ。背徳感、っていうの? 幸せそうな男の人を見るとね、どうしてもどうしても欲しくなっちゃうのよ」
「……へぇ」
隠すこともなく嫌悪をあらわにするマリナ。怒気に押され固まる自分。
マリナの怒りに気付いているのかいないのか、ヘンリエッタの言葉は続く。
「自分で育てた花よりも、人の屋敷の花壇の花がより綺麗に見えるでしょ? 比較して選択したの。それだけ」
「ただの窃盗を、綺麗ごとみたいに……」
「ええそうね。花は他人の敷地に根差しているから、そう思われても仕方ないわぁ。けど――自分の足で動く人間なら問題ないでしょ? だってあっちから来るんだもの」
グラスの酒を飲み干す淑女が、得体も知れぬ獣に思えた。
スープの皿が運ばれてくる。
わずかでもバランスが崩れれば瓦解しそうな空気。一言も挟める雰囲気ではない。私はスープに添えられたパンをひたすら食べていた。美味しい。
「その心理はまったく理解できないし、したくもないけど、あなたいつか刺されるわよ」
「まぁっ、聖女様の預言? こわ~い」
身を縮ませる仕草をするが、すぐに戻る。
「大丈夫よぉ。身分というのは最高級の鎧なんだから」
余裕あふれる笑顔でさらりと言ってのけた。
「あの領主様も、誰かから奪ったらしいわね」
「みんな噂好きなのね。間違いじゃないけどぉ」
怒りを通り越して無感情なマリナの言葉に、ヘンリエッタはスープに食器をひたす。
「彼ね、初めて見たときからとっても笑顔がかわいいの。だからもらっちゃった。そしたらねぇ、素敵なプレゼントをくれたのよ。なんだと思う?」
「……知らないわよ」
「当ててみてぇ。あなたもすでに知ってるものよ」
楽しげなヘンリエッタとは対照的に、マリナの眼光は徐々に鋭くなる。
私たちがすでに知っている、彼女にまつわるもの……?
首をひねる私に目を向け、子供を諭すように語りかけてきた。
「それとも、今いる場所の名前も忘れちゃったのかしらぁ?」
私は短く息を吸った。
「――クインヘンリー号」
「あったり~! お人形ちゃんも案外賢いのねぇ」
パチパチと控えめに拍手をする。
「『私にとっての女王はきみだけだ』って名付けてくれたの。ロマンチックでしょ?」
「大層な贈り物だこと」
「彼の想いが伝わってくるでしょう? そのときの彼の婚約者……いえ、元・婚約者の顔も最高だったわ。今思い出してもドキドキしちゃう。でもね……」
ずっと浮かれた調子で語っていたヘンリエッタの顔が曇る。
「彼、もう誰かのものじゃないからぁ。冷めちゃった」
スープの最後の一口を飲み、空き皿に銀食器を置いた。使用人が素早く皿を下げる。
マリナは冷ややかだ。
「ほんっと、いい性格してるわ」
「褒め言葉と受け取らせていただくわね」
微笑むヘンリエッタの前に新たな皿が置かれる。
「そんなときにね、今代の勇者様と聖女様が夫婦だって知ったの。すごいことだと思わない? 百年に一度の召喚で、それが世界を救う愛し合う男女だなんて。ああ、なんて甘美なご馳走かしらぁ」
皿上の魚の切り身にナイフを突き立て、切り分ける。
「……つまり、あなたはあの『勇者様』がお気に召したの?」
「勇者様も……聖女様、もちろんあなたも」
目を細めるヘンリエッタ。マリナの眉間のしわが深まる。
「悪いけど、あたしじゃご期待には沿えないわよ。正直あの男のことはどうでもいいし」
「あら、でもそんな男を追ってこの船にいらっしゃったのでは?」
「野放しにできないからよ」
マリナの言葉は本心だった。しかしヘンリエッタは強がりと受け取ったようで――
「ふふっ、じゃあそういうことにしておきましょうか。あなたのその強情な仮面が剥がれるのが楽しみで楽しみで……うふふ、笑みがこぼれてしまうわ」
口元に手を当てながら肩を震わせる。
悠長な会話に付き合うのに飽きたマリナが核心に迫る。
「じゃあ、あの男はこの船にいるのね?」
「ええ。わたくしがご招待したようなものですもの」
「今日一日姿が見えなかったけど、どこにいるの?」
「それを言ったら楽しくないじゃない、ねぇ」
女は遊戯を楽しむ子供のようにコロコロと笑う。
「――探せってこと?」
「余興よ。楽しんでくださいまし」
深く息を吐くと、マリナは食器を置いた。
「悪いけど、もう失礼するわ」
「あら、まだ途中なのに。続きのお食事は客室に運ばせても?」
「……好きにして。ほら、行くわよアシュリー」
添えてあるニンジンソテーにフォークを突き立てたところでマリナに止められた。
「あっ、わ、わかりました」
立ち上ったマリナに追従するようにその場を離れる。マリナは出口横にいる使用人から帽子を受け取り、その場をあとにした。
船内廊下を進む彼女の背中に、私はなんと声を掛ければいいのかわからなかった。