【EP.11】渡る世間に鬼はなし
正午過ぎ。
重量感のある、規則正しい足音が響いている。
二頭のチバシリリュウは街道を北上していく。私は慣れているけれど、少し前を進む勇者・トシヤは引けた腰のまま二足歩行のリュウの首にしがみついていた。
「勇者様、大丈夫ですか?」
「ちょ、ちょ、ちょっと、休んでも、いいかなっ」
震える声で言うものだから、開けた木陰で身を落ち着けた。
トシヤ一人なら歴代の勇者たちの権能を用いれば、長距離の移動も容易いだろう。が、自身で世界を救うと宣言した手前、私と離れない選択をしてくれた。
単独では地理が曖昧なのもあったのだろう。
木の根元に座り込む彼に、荷物から水筒を差し出した。
「っかー、生き返るー!」
お酒でも煽ったように息をつく。
「なぁ、アシュレイ。目的地ってあとどれくらい?」
「まだまだ先ですね」
「そっか……」
遠くを見ながら肩を落とす。拓かれた街道は遥か彼方まで続き、終わりが見えない。
ウェイドン港にて、診療所を去ったあと――
エッセルは事後処理のため街に留まることとなり、近隣の関係者へ事の顛末を伝達していた。ヘンリエッタのこともあるが、ヨーロッド領の領主が心神喪失のため、その穴埋めも兼ねているのだとか。
私と勇者は、目的通り北を目指すことになった。
トシヤは複雑な顔をしていたが、今はこちらの意志を酌んでくれているようだ。
どうかこのまま使命を果たしてくれるとありがたいのだが……
「それに、目的地への到着が終着点ではないですからね」
「うーん、そうだよなぁ。でも、ひーたんと戦わなきゃいけなのはなぁ……」
トシヤの表情は暗い。
例の使徒……八百年前の残留魔力によって呼びだされた、ヒメコという人物の姿をした存在。私の中に、とある考察が浮かんでいる。
「そのことなのですが――」
口を開いたときだった。
葉擦れの音。それも一方向ではなく多方面から同時に。
「……勇者様」
「うーん?」
トシヤはのんきに空の水筒を覗きこんでいる。
「囲まれています」
「――えっ」
そこまで言われて、やっと引きつった顔を上げた。
明るい陽光が影を引き立たせる森の中、暗がりに紛れるように息をひそめる気配が四つ……いや五つ。
「なにかご用でしょうかっ?」
鞄の中の巻物へ手を伸ばしつつ、周囲のなにかに向けて声を上げた。
間を置いて、一人が茂みから現れる。追従するように、他の影も低木をかき分けた。
動物を模した仮面に、模様の描かれた貫頭衣。儀式的な雰囲気を漂わせた集団だ。
「……なにかご用でしょうか?」
再度問いかけると、先頭の人物が細い声を発した。
「勇者、か?」
たどたどしい言葉で問いかける。
よく見れば全員が全員、細身な女性だ。
「なんの話でしょうか?」
相手の真意が読み取れない以上、一度誤魔化してみる。
彼女たちは一度互いに顔を見合わせ、代表の一人が仮面を外した。
「勇者、待っている、いた」
褐色の肌に赤い髪が肩に流れる。少女は真正面から純粋な瞳でこちらを見ていた。
あ、まずい――そう思った。
「申し訳ありませんが失礼させ――」
「オレが《勇者》で間違いありませんよ、お嬢さん」
となりにいたはずのトシヤはすでに彼女の手を取っていた。
……くっ。
トシヤの言葉を聞いた赤髪の少女は目を見開いた。
「お母様、探している。あなたを。ずっと」
逆にトシヤの手を強く掴んで訴えかける。他の女性たちも仮面を外して歩み寄る。
「お母様にお会いしてください」
「勇者、お願いする」
「……」
「あたしたちと来てほしいな、なんて」
次々と求められたトシヤが真顔になり呟いた。
「あ、ヤバい。モテ期来たかも」
「勇者様……」
頭を抱えた。
どうやら彼女たちに敵意はなく、『お母様』とやらに勇者を引き合わせたいようだ。
怪しい集団であることには変わりないし、そんな時間の猶予はないのに、なんでだろう、この先の未来が手に取るように察せられてしまった。
「わかった! 行こうか!」
「勇者様!」
想定通りのトシヤの返事に待ったをかける。
彼の腕を引っ張り少女たちから距離を取ると――
「本来の目的をお忘れですか?」
「なあアシュレイ、考えてもみてくれ」
小声会議。勇者は穏やかに語りかけてくる。
「こんな人通りのない場所でずっと待っていたなんて、きっとあの子たちは長い間、お母さんを助けてくれる勇者を探し求めていたんだ。困っている彼女たちを見捨てて、勇者が勇者たりえるのか?」
「こんなときばっかり口が回って……」
饒舌なトシヤに呆れてしまったが、言っていること自体は一応正論だ。
さすがに私も反論する。
「ですが勇者様、物事には優先事項があります。今私たちが最も優先するのは、世界の平穏――すなわち使徒の討伐です。ゆめゆめお忘れなきように」
「けどよ、オレたちがいるのって、結局は目的地までの通過点なんだよな? それなら、時間的なロスはそれほど多くないはずだ」
「だとしても……」
なおも言い募ろうとするが、トシヤは離れた場所にいる異装の少女たちに声を掛けた。
「ねぇ、きみたちのお母様ってどこにいるの?」
「ん」
一人が、街道沿いの――私たちの進行方向を指差す。
「よし! 旅は道連れ世は情け! 行こうか!」
「はぁ……」
キラキラ笑顔のトシヤに、もはや説得は不可能だろう。なるべく早期の解決に尽力しようと決意した。
――北に行くなら……気を付けなさい。
ヘンリエッタの言葉が不意に思い出された。
この胸騒ぎが、どうか杞憂でありますように。
◆ ◆ ◆
街道とは言われるものの、人の行き来はほとんどなく、でこぼこの地面に名もない植物が点在している。
左右を樹木に挟まれた道で、仮面の彼女による先導に応じていた。
「こんな場所に人が住んでるなんて聞いたことないのに……」
不安を抱えつつ、足元の草葉を踏みしめながら進行する。
それにしても、彼女たちはいったい何者なのだろう。街で見る出で立ちとはかけ離れた装束。姉妹……にしてはあまり年が離れていないようにも見える。なんらかの理由があって集団で行動しているのだろうか。
赤い髪の少女が立ち止まり、横の森を指差す。
「こっち」
街道から逸れ、獣道に入った。
目的地までの道順から外れたことに不安を抱くが、トシヤはまるで意に介していないようだった。
「ねぇねぇきみ、お名前聞いてもいいかい?」
「イア……」
赤髪の少女は戸惑いながらも答えた。
「イアちゃんか。実に愛らしい名前だ」
「お母様。この名、与えた。お母様、なんでも知ってる」
感情の起伏は少ないながらも、イアの言葉はどこか誇らしげに思えた。
背の高い針葉樹が空を覆い、隙間から空の色が差す。汗ばんだ頬に当たる風がひときわ冷たく感じる。
「……勇者様、本当に大丈夫でしょうか?」
「大丈夫だろ、たぶん!」
こ、この能天気。
困難に立ち向かうものを人は勇者と呼ぶ――とは言うけども、この人の場合『困難』が判別できていないだけなんじゃ……
懸念を感じながら、それでも足を進めていると――
イアが立ち止まる。
「ここだ」
「これは……?」
木々が途絶えたその場所に、それは佇んでいた。
見上げるほどのレンガ造りの屋敷。窓の数から三階建てだろうか。ところどころ装飾が施された柱や、敷地を囲う柵と石壁。こぢんまりとした庭には名も知らぬ花が微笑んでいた。
キィ、と軋む音とともに鉄柵の門が開かれる。
イアを筆頭に仮面の少女たちが庭へなだれ込んでいった。
彼女たちが向かう先には、花壇の前に身を屈める背中。流れる金糸の髪を一つにまとめ、熱心に手元を動かしているのか小刻みに肩が揺れている。
「お母様!」
呼びかけに、件の人物は立ち上がりながら振り返った。
「わぁ……」
美醜に疎い私でも綺麗だとわかった。
透き通る肌に、日の光を照り返す金色の髪。慈愛あふれる柔らかな笑み。女性の周りだけ暖かい光が注がれているようだった。
「美しい……」
傍らからトシヤの呟きが聞こえた。
女性は手早く園芸用品をかごにまとめると、それを抱えて歩み寄ってくる。
「お客様かしら? この辺鄙な場所まで御足労いただき、ありがとうございます」
落ち着いた声音に、見た目以上の歳を重ねているように感じた。
「お母様、勇者! 勇者だ!」
女性の片腕にしがみつきながらイアがトシヤを指差す。
その言葉に、金髪の淑女の瞳が――氷のような冷やかさを帯びた。
え……?
しかしそれも一瞬で、すぐに柔和な笑みに戻った。
「長旅でお疲れでしょう。どうぞお寛ぎください」
そう言って、屋敷の扉を手で示す。
「ありがとうございまーす!」
止める間もなくトシヤが意気揚々と進み出た。スキップしつつ。
「はぁー……」
勇者を無理にでも連れ出す労力と、可能な限り迅速に所要を済ませる時間的ロスを天秤にかけ――後者を選択した。
ああ聖女様、どうかご無事で。
心臓を鷲掴みにされるような焦燥感を抱きながら、勇者の背中に追従した。
◆ ◆ ◆
「お優しい【勇者】様、実は折り入ってお願いがあります」
室内のテーブル席。紅茶の湯気が天井に溶けていく中、彼女は眉を下げながらそう言った。
「オレにできることなら――」
「あの! その前にお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
安請け合い上等なトシヤを遮り、相手の素性を探る。
「そうね……ユーディ、とお呼びください。長らく、この名で呼ばれたことはありませんが」
「ユーディさん……素敵な響きだ」
恍惚そうに呟くトシヤを無視して話を進めることにした。
「申し訳ありませんが、私たちは急を要する事態に見舞われておりまして……」
「いいえ、一日で構わないのです。だってあなた、【勇者】なのでしょう?」
ティーカップを置くと、ユーディは柔らかい視線をトシヤに向ける。
「なぁ、アシュレイ」
いつになく真剣なトシヤの声音。
瞬間、自分が占星術の未来視を会得したのかと思えるほど、次の言葉が予期できた。
「困っている人がいるなら、助けるのが勇者。そうだろ?」
「――っぅわー」
飛び出そうになった雑言を飲みこんだものの、抑えきれなかった声が漏れる。
聖女の安否が不明の現在において、目の前の美女を優先するとおっしゃりやがりますか。
侮蔑の眼差しに気付いたのか、トシヤは言葉を取り繕う。
「いや、全力でなんとかするから。半日、半日だけならいいだろ? なっ?」
なぜか両手を合わせながら懇願するトシヤに、眉間のしわを指で押さえながら考えて、考えて――深い息を吐いた。
「…………わかりました。半日です。それで解決しなくても、申し訳ないですがすぐに発ちますよ」
目に見えて明るい表情のトシヤは、即座にユーディに向き直る。
「というわけで! 大船に乗ったつもりでオレに任せてくれ」
「まぁ、ありがとうございます。【勇者】様」
優雅に微笑む妙齢の女性に、自信満々で胸を張る勇者の姿を見ながら、私はただ遠い目をして天井の照明を眺めていた。
「それで、お願いってのは?」
改まって尋ねるトシヤ。ユーディは憂いを帯びた瞳を伏せながら語り出した。
「わたくし、長年とあるものを守っております」
「とあるもの?」
私が問うと、彼女は小さく首肯する。
「この地には、百年前の勇者が恐ろしい魔物を封じたとされる祠があるのです」
「百年前の勇者が……それはもしやアビスガードのことでしょうか?」
「なんだそれ?」
トシヤがこちらを向き、不思議そうに尋ねた。
百年前。北の山に存在する世界の裏側、その入口を守護する門番が現れたそうだ。当時の文献によると、王室側と教会側の揉め事が原因で進行が遅れた勇者と聖女を阻むため、使徒が呼びだした刺客だという。
ユーディの手前、すべてを話していいのか迷うが――
「構いませんよ。承知しています」
まるで心を読んだように微笑を浮かべる。
「勇者様、お話しますね。それは……」
私の知っている範囲の説明をした。
「……それで、当時の勇者と聖女が不死であるアビスガードを打ち倒し、二度と復活しないように土地ごと清めた、と聞きました。祠と言うのは、その跡地に建てられたものだと推察します」
「へー」
他人事のような相槌。ホントこの人……
私の話を継ぐように、ユーディが口を開いた。
「その祠守をしているのがわたくしです。しかし先日のことです。小さいとはいえ、祠は石造りなのですが、そこに亀裂が走っておりました。それだけならまだしも、清浄なはずの土地に澱みが見られるようになったのです」
「澱み……」
あまり聞かない表現。
「ああ、ご説明が遅れました。生まれつきこのような浄・不浄に敏感な体質でして。この地にいるのも、それが理由の一つでございます」
「なんと繊細な人だ……守らないと」
となりから聞こえた呟きは聞かなかったことにした。
「それで、勇者様にしてほしいことは、祠の修繕および補強ということですか?」
「ええ。それこそ、【勇者】様にしかできないことですもの。決してお時間は取らせません」
ティーカップを傾けるユーディ。
なるほど、相手の事情は理解した。
「勇者様、できますか?」
「大丈夫だ! たぶん!」
大丈夫かなこの人……
自信たっぷりに宣言するトシヤ。一抹どころではない不安がよぎる。
複雑な感情を飲みこんでいると、その間にも空になったティーポットを下げる褐色の少女が目に入る。
「ところで、あの子たちは?」
目の前の女性を『お母様』と呼び慕う、五人の珍しい肌色の少女たち。
「あの子たちは……かわいそうな子たちよ」
ユーディの長い睫毛が伏せられる。
「……孤児、などですか?」
「そう考えてくださって構いません。今はお世話をしたりされたりしておりますが、ここがあの子たちの居場所になれていればと願っております」
屋敷の奥から、小さな笑い声が聞こえてくる。
「そうだったんですね。すみません、不躾に事情を伺ってしまって」
「お気になさらず。さて――」
ユーディがカップを置いた。
「お急ぎの道中だと伺っておりますので、よろしければすぐにご案内いたしますよ」
「わかりました。お願いします」
座り心地のいいソファから腰を浮かし、私たちは彼女のあとに続いた。
◆ ◆ ◆
屋敷の裏手に、岩に挟まれるように細い石階段が伸びていた。
灰色の壁面に手を突きながら、一列になって登っていく。
赤髪の少女たちに留守番を任せ、私と勇者、ユーディの三人が歩を進めていた。
日陰ではあるものの、人一人が通るのがやっとの場所では自分の足で歩く他になく、登り切ったときには額に汗がにじんでいた。
「ここです」
先頭のユーディが、開けた山道で立ち止まる。
「……木だ」
息を整えて正面を見ると、平坦になった道の先にそびえたつ大木が目に入った。不毛の地だと思っていた岩山には不自然に思える存在だ。
その大樹の根元に、小人の家のようなものがある。
「祠って、あれ、かな……?」
私以上に息を切らせているトシヤが尋ねると、涼やかに佇むユーディは頷いた。
「はい。どうぞ、こちらでございます」
先を進む彼女のあとを追う。間近に来て、改めて大樹の迫力に感動した。山肌を撫でる風が、頭上の枝葉を揺らしてサワサワと音を奏でる。
世界の裏側に近い場所にしては、圧倒的な神聖さを感じる。
まるで、壊してはいけないもののような……
「ご覧ください」
人の腰ほどまでの高さの、角の削れた大岩。それを覆うように、木の板で社が築かれている。
ユーディが指差すので目を向けると、岩の表面に一筋の線が走っていた。
亀裂、と言われればそうなのだろうが……
「ジンジャとかの石みたいなもんか?」
トシヤも覗き込みながら首を傾げる。
静かに祠を見下ろすユーディの説明が続く。
「カナメイシ、と呼ばれています。傷ついてしまったカナメイシでは、封じる効能も不安定になります。一度石を取り除いたのち、新たな石を安置するつもりなのですが……」
不安そうに自身の腕をさする女性。
「なにぶん、女の細腕ですし、かつての【勇者】と同じ権能をお持ちのあなたなら、きっとお力になってくださるでしょう?」
「とにかく、これを壊せばいいんだな? 任せてくれ!」
胸を張って応えるトシヤ。
「いいのかなぁ……」
私の小さな呟きは、葉擦れの音にかき消された。
勇者が右手を掲げる。その手に、黒銀色の一振りの剣が現れた。
「あら。さすが【勇者】様。切りつけたものは塵一つ残さずに消滅されると伝えられている、百年前の【勇者】が得ていた権能《無塵の剣》ですね」
「詳しいですねユーディさん」
なんとなく既視感を感じるやりとりをしながら、トシヤの一挙手一投足に注目していた。
「よしっ」
現れた剣を両手で構え、頭上へ振りかぶり――
ゴォッ、と風が叩きつけられた。
トシヤ……ではない。背後だ。
「うわっ、なんだぁ?」
バランスを崩した彼が数歩つんのめる。
自分の身体が吹き飛ばされるほどの突風だった。舞い散る砂を手で遮りながら振り返る。
明るい空に浮かぶ、いびつな黒い影。
「竜……!?」
黒い鱗に広げられた被膜。長い尾。ツノのある頭部には爛々と光る赤い瞳。私たちの体格よりも数倍はある巨体が、翼をはためかせて宙を泳いでいる。
「なんでこんなところに」
竜の中には意思疎通が可能な知性の高い種類も存在する。しかしその多くは群れず、単独で行動することもあり、人の生活圏に関わることは滅多にない。
考えている間にも、黒い竜は空中で体勢を整え、こちらに急降下してくる。
「勇者様! 気を付けて!」
呼びかける。トシヤは困惑しながらも手中の黒剣を迫りくる竜へ向けた。
「よくわかんねーが、あれは敵なんだよな?」
「た、たぶんっ」
無条件に襲い掛かってきている相手に、手加減なんてしていられない。
私が鞄から召喚の巻物を取り出そうとしたとき。
――キィン、と甲高い音がした。
顔を上げると、竜の尾がトシヤの手元を弾いたのか、黒い剣が空色の背景に浮いていた。降下の最中に体をひねり、長い尾で剣の刃に触れることを避けつつ戦力を削いだのだ。
……なぜ直接勇者を狙わなかったんだ?
疑問が浮かぶ間にも、竜は脚の鉤爪をトシヤに伸ばす。
「危な――」
召喚獣を呼び寄せようと身構えたとき――ドン、と突き飛ばされた。
え……?
倒れながら背後を見れば、体勢を崩した女性の姿。転んだのか、倒れたのか……それはわからないけど――笑っていた。
次の瞬間、腕ごと上半身を拘束された。竜の鉤爪が胴体を鷲掴みにする。
「ぐ……ッ」
「アシュレイ!」
焦りを含むトシヤの声が聞こえた。
が、浮遊感に身を包まれ、頭が揺さぶられる。
強い風を感じ――私の意識はそこで途絶えた。
◆ ◆ ◆
――ピチャン。
頬に冷たいものが当たる。それが水滴であると、顔に流れる感覚で理解した。
「う……」
渇いた喉からかすれた声が出る。強い疲労感に包まれるが、なんとか身を起こして辺りを見た。
洞窟だろうか。暗いところで目が慣れていたのもあり、うっすらと岩肌の輪郭が見て取れた。完全な暗黒ではないのは、入口からさほど遠くもないからだろうか。
そもそもなんでこんなところに?
少しずつ働いてきた頭で思い出す。そうだ、黒い竜が現れて、私は――
体に食い込む鉤爪の感触を思い出し、冷や水を浴びせられたように血の気が引いた。
けど、どこも痛くない。
「気が付いたかい?」
不意に掛けられた言葉に心臓が跳ねた。柔らかい、男性の声音。
「……誰、ですか?」
声の方角へ視線を彷徨わせる。
暗がりの中に、突然、オレンジ色の光が灯った。
「すまなかったね。本当は勇者くんを連れてくるつもりだったんだけど、目測を見誤ってしまったみたいだ」
ランプの火が揺れる。淡い光が、暗がりに人影を浮かび上がらせた。
すらりと伸びた手足に、長い髪が胸元まで垂れている。顔はほとんど隠れていたが、目鼻立ちのくっきりした美丈夫だった。
――全裸の。
「あの、えっとー」
なんと声を掛ければいいのか言葉を選んでいると、相手は身を屈めて片手を差し出してきた。
「起きられるかい?」
「あ、ありがとうございます……?」
困惑しつつも善意なのはなんとなくわかり、彼の手を借りて立ち上がった。
低い洞穴の天井に吊るされた蝋のランプ。ほぼ頭上からの光源に、私と相手の影が濃くなる。
なお、裸体の男性が正面に佇んでおり、光源が真上であることに多少感謝していた。
このときばかりは、マリナがこの場にいなくてよかったと思ってしまう。
気がかりなことは多量にあったが、最優先の疑問を尋ねた。
「率直にお尋ねしますが、あなたは誰ですか?」
男性は長い前髪を煩わしそうにしながらも、丁寧な仕草で一礼する。
「僕は――信じられないかもしれないが、王子様なんだよ」
「はぁ」
信憑性の『し』の字も感じられない台詞。申し訳ないが、見た目だけなら森の野人にしか見えなかった。
「おや、信じてくれないかい? でも僕は、勇者と聖女のこともわかっているし、君が召喚士――門の鍵であることも知っている」
無意識に身構えた。
百年に一度、勇者と聖女が【使徒】を討つ物語は世にも広まっているが、その裏に常に存在していた召喚士の存在意義を気に掛けるものなど多くない。
ましてや、召喚以外の役割が与えられていることなんて……
「じゃあ、あなたはジーデリア王室の関係者?」
男性は満足そうに頷いた。
「わかってくれたかい、召喚士くん。ところで、君の役割は知っていても、君の名前は知らないんだ。教えてくれるかい?」
「アシュレイ、と申します」
「アシュレイか。素敵な名だ。僕はダレン。ジーデリア王国第一王位継承者の、ダレン・ジーデリアだよ」
言葉を飲み込むのに数拍要し――
「――はぁ!?」
岩の空洞に、自分の声が反響した。