不惑女に恋を運ぶは悪戯な春雨
駅の東改札口を出て北にまっすぐ徒歩約十数分。
煉瓦造りのお洒落な外壁、木製の扉に小さな白いプレートがかかっている店『Cafe Liliy』。
ここだわ、と夏都子は店の前で暫し逡巡した。
思い切ってドアを開けると、カランとドアベルが小さく鳴り、
「いらっしゃいませ」
中から明るい声が響いた。
縦に細長い店の中を一瞥する。
左側に六人掛けのカウンター席、右側にテーブル席が三つと奥にボックス席が一つあるだけの小さな喫茶店。
店内には聴き馴染みのあるモーツァルトのディヴェルティメントが静かに流れている。
手前のテーブル席で一人、常連客とおぼしき初老の男性がゆっくりと珈琲を飲んでいた。他に客はいない。
夏都子は紺色のトレンチコートを脱ぐと、カウンター席の一番右端に座ろうとした。
「お客さま。カウンターでなくても、ボックス席の方でも構いませんよ」
カウンターの中から女主人が夏都子にそう声をかけた。
「いえ。私、スツールに座る方が好きなんです」
夏都子は不自然とも言えるそんな言い訳をして、そのままカウンターに座った。
メニューとお水が夏都子の前に差し出された。
メニューに目を通すこともせず、まじまじと夏都子は目の前のその女性を見た。
その視線に彼女は訝しげに首を傾げる。
「あ、あの……。このお店のお勧め、パンケーキって聞いたんですけど」
「ええ、うちのパンケーキはシンプルなスフレで厚切りふわふわなんです。ドリンクとセットだと二百円引きになります」
彼女は人懐こい笑みを夏都子に向けた。
「それと珈琲をホットで」
「かしこまりました」
にこりと笑うと、彼女は早速忙しく手を動かし始めた。
(この女が……聡史さんの奥様……)
膝の上で麻のハンカチを握りしめ、夏都子は密かに唇を噛む。
甘酸っぱくほろ苦い初恋の後に出逢った二度目の恋の相手と何年か熱い蜜月を過ごしたものの、最後は辛い別れを経験した夏都子は、長いこと恋愛ができなかった。
そんな夏都子を心配した母方の伯母に勧められるまま、夏都子は二十八歳の時、見合いをした。
頭脳明晰で頼りになると思い結婚した七歳年上の夫・裕哉は、「俺、ワンマンだけど優しいだろう?」が口癖の男だった。
確かに優しい。外での振る舞いは紳士的なレディファーストで、交際中も結婚した後も、誕生日やクリスマスに夏都子の好きなブランド品のプレゼントを忘れなかった。
しかし、共働きだというのに裕哉は家事にはほとんど協力しなかった。しかも、手作りの凝った料理や掃除の行き届いた快適な生活を当たり前のように夏都子に要求した。
何事に関しても、年上だという上から目線でものを言い、夏都子の趣味や外出にも口を出し自由を束縛した。
家庭内のモラハラは高じる一方で、夏都子は夫婦生活を拒否するようになり、子宝に恵まれる間もなく夫婦仲はこじれていった。結婚して数年も待たず、夏都子は裕哉と別居する生活を選んだ。
結局、弁護士を立て裕哉との結婚生活に終止符を打ったのは、夏都子が三十三歳の誕生日を迎えて間もない春だった。
夏都子は、大学院卒業後に就職した外資系の医療機器メーカーで再生医療技術開発部門に携わっている。離婚してからというもの益々研究に没頭するようになった。
しかし、夏都子三十代最後の昨年のこと。
夏都子は仕事で職場を訪ねてきた年下の若い営業マン・村上聡史とふとしたきっかけで、実に十数年ぶりの恋に落ちた。
彼には百合という名の三十五歳の妻と十歳の息子に七歳の娘がいたが、深い関係に陥るのにさほど時間はかからなかった。
人目を忍んだアフター5のデートでもホテルでの密会でも、夏都子は聡史に溺れていった。
"奥さんと子供のいる人を好きになってはいけない"
理性はそう夏都子に訴えかけるが、もう夏都子はひきさがれないところまで聡史にのめり込んでいた。
甘く熟れた情事の後、彼の胸にもたれかかりながら
『奥さんって、どんな人?』
夏都子のそんな探りに聡史は
『童顔だけど、左目の下に泣きぼくろがあって色っぽいよ。それに料理が美味いんだ』
と、悪びれることなく惚気た。
そのことに夏都子はいたく自尊心を傷つけられたものだ。
そんな風に聡史は家庭のことを隠すことをしなかったので、百合が聡史の家の近くにカフェを経営していることも、そのカフェの名前も程なく知った。
だから、夏都子がここに来るのは容易だった。
しかし。
(こんなに魅力的な奥さんだなんて……)
想像はしていたが、百合は夏都子の予想を遥かに上回る女性だった。
ぱっと見、三十路そこそこ。焦げ茶色の長い髪を黒いリボンバレッタでシニョンに結い、細い肢体はスキニージーンズが似合っている。Vネックの春物ニットからチラ見する鎖骨が綺麗で、目鼻立ちも整っている女。
聡史が言う通り、左目の下には泣きぼくろがあった。
それはどちらかと言えばたぬき顔の童顔とミスマッチしていてそこはかとない色気を醸し出し、百合の美女ぶりを上げている。
片や夏都子はこの春四月には、不惑を迎える四十歳。
でも、まだ今なら、彼との間に子供を望むことだって……そんなことを真剣に考えていた。
でも、目の前にいる百合はどうだろう。
夏都子より遥かに若く、子供を産んで育てているというような体つきでもなく、所帯じみたところもない。
けれど、妻であり母であり、好きなことを仕事にもしている見えない自信に満ち溢れている。
じっと、夏都子は手元のハンカチを握り締めた。
「お待たせしました」
百合がパンケーキの皿とホット珈琲を夏都子の前に並べた。
それは、苺が添えられ生クリームの乗った三枚の分厚いパンケーキで、素朴だけれどいかにも美味しそうだ。珈琲も淹れ立ての香ばしい香りが漂い、鼻腔をくすぐる。
「お客さま……?」
百合が怪訝そうに夏都子の顔を覗き込んだ。
夏都子が慌てて、ハンカチで軽く目元を押さえる。
元々、一度結婚に失敗した自分が、再び結婚を夢を見たこと自体が間違いなのだ。
それも、あろうことか『略奪婚』。
そんなことが許されるはずがない。
わかっている。わかっていたこと。
そう思うがしかし、その現実は夏都子を容赦なく打ちのめし、夏都子は百合の目の前であるにも拘わらず、ぽろぽろと涙を零した。
「お客さん。良かったらこれをどうぞ」
「え?」
百合はカウンター越しにコトンと小さなガラスの器を夏都子の前に置いた。
「バニラアイスクリームです。サービスです」
「え、でも……」
「このバニラ、パンケーキとすごく相性がいいんですよ。どうぞ遠慮なく」
そう言って柔らかく笑んだ。
その微笑みはまるで、百合の大輪を手にして聖母マリアに受胎告知をする大天使ガブリエルの微笑みのようだと、夏都子は思った。
「……頂きます」
素直にそう言うと、夏都子は出されたバニラアイスクリームを銀のスプーンで口に運んだ。
焼きたてのふわふわパンケーキと交互に食べると、確かに味がそれぞれ際だって美味しい。
自家焙煎珈琲も酸味のあるすっきりとした味わいで、夏都子の口に合う。
(この女には敵わない……)
最初は聡史の妻がどんな女性か単純に知りたかった。
いや、心のどこかでは修羅場も覚悟だった気がする。
けれど今、女性としても人間的にも魅力的な百合を見て、夏都子の敵がい心はすっかり失せていた。
「ご馳走様でした。お勘定を」
夏都子は静かに呟いた。
(さっさと立ち去ろう。そして、聡史さんのLINEも電話番号もブロックしよう)
そんなことを考えながらコートを手に取り、夏都子がバッグから財布を取り出すと百合がレジに立った。
「税込みでパンケーキが650円、珈琲が450円。セット引きで900円になります」
「あの、アイスクリームは……」
「本当にいいんです。その代わりにまたよろしければ、お立ち寄り下さいね」
百合はにこりと笑んだ。
「美味しかったです。ありがとうございました」
そう呟いて、夏都子は『Cafe Liliy』を後にした。
一人、とぼとぼと駅まで歩く。
横断歩道の赤信号で立ち止まった時、夏都子はスマホを取り出すとあっさり聡史のLINEをブロックし、電話番号を着信拒否にした。
(聡史さん……さようなら……)
聡史が自分を追ってくることはないだろうと、何故か夏都子はそういう気がした。
「あら、雨……?」
ぱらぱらと通り雨が降り出してきたことに気づき、夏都子は天を仰いだ。
傘を携帯していない夏都子は駅へと急ごうとしたが、この近くの美術館で『染付 麗しき青』美術展が催し中だったことをふと思いだした。
雨宿りがてら気晴らしに観て帰ろうと夏都子は、急ぎ美術館へと足を伸ばした。
しかし。
夏都子が美術館へとたどり着くと
「臨時休館日……」
そこには入り口に、『館内システムメンテナンスのため本日は臨時休館日とさせて頂きます』という張り紙があった。
まったくついてないと、夏都子は独りごちる。
雨はまだ降っていて、雨脚は次第に強くなっている。
夏都子は美術館の軒下で雨宿りをするしかなかった。
雨に濡れたトレンチコートの雫をハンカチで拭いながら、聡史のこと、今日初めて目にした百合のことがぐるぐると夏都子の頭の中を渦巻く。
所詮、不惑にもなった女にチャンスなどないのだと、じくじく夏都子の胸が疼く。
再び涙ぐんでいたその時、誰かが夏都子の方に近づいてきた。
「はあ? 臨時休館日?」
それは、年の頃は夏都子と同じ四十路くらい。夏都子より頭一つ分背が高く、およそ中年太りとは無縁の精悍な体つきをした男性が張り紙を見てそんな声を漏らした。
「参ったな。せっかく仕事を休んできたのに」
さっきの夏都子同様、ブツブツと独りごちているその男性を見るともなしに見た夏都子と彼の視線が、偶然に交差した。
「あなたもこの美術展を観にいらして無駄足を踏んだクチですか?」
落ち着いた声で、柔らかな笑みを湛えて彼は夏都子にそう声をかけた。
「どちらかと言えば雨宿りがてらだったんですが。それにしてもついてないですね」
「まったくですよ。休日を楽しみに過ごすつもりだったのに。あなたも染付、お好きなんですか?」
「ええ。藍青色の陶磁器はいいですね。「blue and white」と言うように白磁に青い花の柄は特に好きです」
「僕は染付も好きですが、濁手の色絵の青が殊に好きなんですよ」
「柿右衛門様式の伊万里焼きなどのことでしょうか? 乳白色に赤い大和絵的な花鳥風月を描いたお皿とか」
「そうです。なかなかお目が高い。鍋島様式も古伊万里金襴手の皿なども幾らか持っています」
「古伊万里金襴手と言えば……。以前、美術展を観たことがあります。お皿もとても豪華でしたし、蓋付壺などそれは見事でした」
そう夏都子が呟くと彼は一瞬、目を輝かせて言った。
「もしかして瑚栗美術館の展覧会のことですか?」
「そうです。あなたもご覧になりました?」
「ええ、あれは見逃せない展覧会でしたよ。元禄文化の象徴を見る思いがしたものです」
それから、その展覧会の印象を彼は熱っぽく語り始めた。夏都子は時に相槌を打ち、ほうっと嘆息をつきながら彼の話を聞いていた。
学生時代からずっと理系畑を進んできた夏都子だが、美術や音楽など芸術関係にも興味があり、こういう知識に教養が深い男性は夏都子の好みだった。
「あ……、すみません。いきなりこんな話をして」
暫くして、彼はハッと言葉を止めた。
ばつが悪そうにポリポリと頭を掻く彼の様子は、知性をひけらかすこともなくなんだか親しみが持てる。
夏都子がつい笑みを零すと、彼はにこやかに言った。
「僕のこんな話を興味深く聞いてくれる女性には滅多にご縁がありません。貴女のような方と一緒にこの美術展を観て回ったら、きっと有意義な時間を過ごせるでしょうに」
その彼の言葉に、夏都子は胸がとくんと鳴った。
(そんなことを言ってもでも、既婚者に決まっている。この歳でこんな素敵な人が独身の筈がない……)
そう思ってさりげなく彼の左の薬指を盗み見た夏都子は一瞬、目を見張った。
指輪をしていない。はめ外しをしているらしき指輪痕もない。
(まさか、独身? いや、でも……)
期せずして惑う夏都子に
「ここでこうしていても仕方がない。よろしければ僕の傘に入られませんか? 駅までお送りしますよ」
彼は名刺入れから名刺を一枚、夏都子に差し出した。
「僕は、北崎荘と言います」
『株式会社 北崎デザイン・クリエイティブセンター
代表取締役社長 北崎荘』
とその名刺にはあった。
(デザイン会社のオーナー社長……?)
「失礼ですが、貴女は……?」
「志村夏都子と申します」
思わぬ展開に夏都子が内心動揺していると
「志村さん。せっかく来た美術展が鑑賞できなかった代わりと言ってはなんですが、できれば駅前の喫茶店ででも話の続きをしたいんですが。貴女も芸術の話がお好きでしょう?」
と、北崎は言った。
その瞳は澄んでいて、実直そのものだった。
(これはひょっとして……新しい出逢い……?)
「だったら、この近所にいいカフェを私、知っているんです。ご案内します」
夏都子は淡い笑みを浮かべて言った。
百合の顔をもう一度見たい。そう思った。
百合に聡史とのことを悟られるわけには決していかない。でも、今の自分なら百合も喜んでまた迎え入れてくれるようなそんな気がする。
「そのお店、パンケーキがすごく美味しいんです。あ、甘いものはお嫌いですか?」
「いや。亡くなった妻がスイーツ好きだったので、よくつきあいましたよ」
瞬間、夏都子は口を噤んだ。
北崎が独身なのはそういうわけだったのか。
「……すみません」
「いえ、お気になさらず。もう三年前のことで、心の整理はついています」
静かに北崎は言った。
「私も心の整理ができました」
「それはどういう……?」
「いえ、こちらのことです」
そう噛みしめるように呟いた夏都子に北崎は何かを感じたようだが、深くは追求せずに言った。
「やはり、女性は甘いスイーツが好きなものなんですかね。亡くなった妻は外食すると必ず食後にケーキを頼むし、家でも菓子を手作りしていましたよ。主婦友ともしょっちゅうお茶やデザートバイキングなんかにも行っていたようです」
「デザートバイキングですか。私の歳になると甘いものは好きでも、もうそれほど食べられなくて」
「いや、貴女はお若いでしょう。僕はもう今年本厄を迎えますが」
「もしかして四十歳でいらっしゃる? 私も同じ歳です」
つい、夏都子は口を滑らせた。
「え、本当ですか? 五歳は若く見えますよ」
夏都子をまじまじと見つめる北崎に、夏都子は顔を赤らめた。
「お口がお上手ですね」
不惑の自分をそんな風に言ってくれるなんて、夏都子は思いもかけなかった。
「いや、本心ですよ」
北崎が真面目な顔で一言呟く。
伏せていた夏都子のまなざしと北崎の視線とが微妙に絡み合った。
瞬間の空白。
黒く澄んだ北崎の瞳を見つめる夏都子に、北崎はフッと笑んだ。
それは不惑の年輪に相応しい穏やかな笑みだった。
北崎は夏都子に大きな傘を掲げて、言った。
「では、行きましょう。そのカフェに案内して下さいますか」
「ええ、喜んで」
夏都子も微笑んだ。
これはきっと暖かい春雨の悪戯。
『倫ならぬ恋』を捨てるきっかけ。
誰に後ろ指を指されることもない。
そんな新しい恋に身を投じる密かな予感を感じながら、夏都子は北崎の傘の中に入り、並んで歩き始めた。
しとしとと煙るように優しく、春雨は降り続く。