水戸山の狐
白い毛の狐は、凛として縁側に佇む伯池神社の御祭神である神様に恭しく頭を下げた。
『私は、水戸山に在った社に住んでいた狐です。正三位の位をいただいておりました』
「水戸山って、水道局の近くに在る?」
市内を流れる一級河川の近くには、この地域一帯の水道を管理している水道局がある。
水道局の建物の裏手には山があり、昔から水戸という地名が付いていた。そこに位置する山だから、水戸山。
真那は、あの小さな山に社が在ったことを知らなかった。
水戸山の狐は問いかけた真那を睨み、唇をめくり上げて牙を覗かせる。
『人間風情が、我に気やすく話しかけるでないわ!』
狐は喉の奥で唸り、怒りを醸し出す。
一触即発。なにか余計なことを言い返そうものなら、さらに怒りを買いかねない。これは、謝っておいたほうが無難だろう。
真那は狐の一方的な物言いにムッとしつつ、小さな声で詫びを入れることにした。
「……すみませんでした」
アーとウンが狐を威嚇し返すように、姿勢を低くして唸り声を上げ始める。狐は、さげすむような視線を向けた。
『なんだ。式神風情が、我に牙を剥くなどおこがましい』
アーとウンは凄腕の祈祷師に調教され、神様がさらに力を強くしてくれた真那のボディーガードの役目を担っている式神だ。
正三位という位を賜る立場からしたら、式神などは小物だろう。けれど、大好きな人達が真那のためを思ってしてくれたことをけなされているみたいで、いい気はしない。
アーとウンを両手で抱き上げ、大丈夫だよ、と小声でなだめた。しかし、真那の心中を察してか、アーもウンも唸ることをやめない。
神様は肩越しに真那の腕の中にいるアーとウンを見遣り、庭にかしこまる狐に顔を戻した。
『水戸山の狐よ』
『はい、伯池の神様』
神様の低く通る声に、真那を睨んでいた狐は媚びるような表情にコロリと変わる。神様に名を呼ばれ、どことなく誇らしそうだ。
『ここにいる佐々木真那と柳楽涼介は、ただの人間ではない』
『ただの、人間ではない?』
狐は意味が理解できず、神様の言葉を繰り返す。
『ただの人間が、神である私の住まいに来られると思うか?』
神様の声は、酷く冷たい。狐はゴクリと唾を飲み込み、慌てて言いつくろう。
『いえ! ただの人間が、伯池の神様の住まいにはおろか、人間界と神界の境界を越えて、神域に足を踏み入れることなどできようはずもありません!』
『ならば……なぜ、この二人がこの場にいると思う?』
神様から問われ、狐の視線が人間の二人に向けられる。その表情には、困惑の色が浮かんでいた。
そう、理解は難しいに違いない。
狐の感覚のほうが正しいのだ。
なぜ人間がこんな場所にいるのだと、疑問に思わないほうがおかしい。本来なら、神様の住まいに人間がいるはずがないのだから。
しかし真那にとっては、神様の元へ遊びに来て、お茶を飲みながらお菓子を一緒に食べることは日常だ。なんならここで勉強だってするし、読書だってする。
神様の元へ来る他の神様達も、当たり前に真那を受け入れてくれているから、今の狐から受けているような扱いをされたことは一度もなかった。
それはなぜか。答えは、とてもシンプルだ。
『あの……えっと……申し訳ありません、私には……その』
狐はしどろもどろになりながら、懸命に答えを探している。
神様はところどころに鱗がある白い腕を組み、露草色の瞳で狐を見据えた。
『この者達は、私の友人だ。そしてあの式神は、私が与えたモノだ。不遜な振る舞いをすることは許さぬ!』
狐は、まさかいさめられるとは夢にも思わなかったのだろう。神様の露草色の瞳に睨まれ、『ヒッ』と小さな悲鳴を上げた。
真那にとっても、今の神様がまとう雰囲気は、少し近寄りがたい。ピリピリと気が張り詰めていて、息をすることさえもはばかられる。
こんな神様は、見たことがない。
(神様が、怒ってる)
とても珍しい光景だ。
神には和魂と荒魂という二つの面が存在する。神が荒らぶれば疫病が蔓延し、災害が発生することもあるという。
真那が原因で神様を荒らぶらせ、人間界に災いをもたらすわけにはいかない。
(神様も、十分荒ぶる神じゃないのよ……)
真那は涼介にアーとウンを預け、苦笑しながら立ち上がる。
(神様に鎮まってもらわなきゃ)
サササと神様の傍に歩み寄り、神様の着物の袖を遠慮気味にツンと引っ張った。
「神様……」
神様からの反応はない。
「ねえ、神様。怒ってくれて、ありがとう。正直、嫌な気持ちにはなったけど……神様のおかげで、もう大丈夫だよ。気を鎮めてくれたら、もっと嬉しいな」
できるだけ落ち着いて、気持ちが伝わるように優しく語りかける。
狐の態度で、真那が気分を害したのは事実。神様は、真那の気持ちを察してくれたのだ。
気遣ってくれて、とても嬉しかった。なにより、神様が真那だけではなく、涼介のことも友達だと言ってくれたことが、この上なく嬉しかった。
『真那殿。伯池の神様のご友人とはつゆ知らず、不遜な態度を取りましたこと……反省しております。なにとぞ、お許しくださいませ』
手の平を返した狐の態度に、真那は文字通り、狐に摘ままれた表情になる。なんと変わり身の早いことだろう。
神様はフンと鼻で息を吐くと、組んでいた腕を解いた。
『自尊心が高く、気位の高い狐が多い。真那。またなにか気に障ることを言われたりされたりしたら、遠慮なく私に言うのだぞ』
「そんな告げ口みたいなこと、したくないけど……」
苦笑すると、神様は優しく微笑み、真那の頭に手を置いた。
『私は、真那を護ると約束をしたのだ。約束を違えさせるようなことはしないでくれ』
真那は、首元にぶら下がっている伯池神社の神紋が描かれたお守りのペンダントトップに軽く触れる。子供の頃、初めて神様と出会ったときに、神様から授けられたお守りのネックレス。どんなときも真那を護ると、神様は約束してくれた。
『まあ、真那が言わなくても筒抜けだがな』
「ふふっ、それもそうね」
神様の軽口に、真那も笑って答える。
お守りのネックレスは防犯カメラのような機能も果たしているのだから、神様に隠し事はできない。
神様は円座に座り、まだ庭にいる水戸山の狐に向き直る。狐はビクリと身を揺らし、慌てて頭を垂れた。
『して。なぜ、お前は断りもなく私の屋敷に侵入してきたのだ?』
神様の問いに、狐はうぅ……と口ごもる。
(たしかに、狐のほうが不法侵入じゃん!)
真那がハッとした表情をすると、小さな笑い声が隣から聞こえてくる。顔を向ければ、涼介が笑い声を押し殺しながら肩を揺らしていた。
「なによ」
「いや……言われてみれば! って顔してたから、面白くて」
アーとウンは笑う涼介を不思議そうに見上げ、鼻をピクピクとさせながら何度も首を傾げている。
緊迫した空気が、一気に和らいだ気がした。
狐は言いにくそうにモゴモゴと口を動かし、前足をこすり合わせる。
『実は、住む所が無くなってしまいまして……』
「家が無くなっちゃったの?」
反射的に狐の言葉に問い返してしまい、慌てて口を手で押さえた。また、狐からいちゃもんをつけられるかもしれない。しかし、その不安は的中せず、狐は『そうなのです』としおらしい。
神様は立てた片膝に肘を預けて頬杖を突き、話してみよ、と狐に促した。