午後の月
初夏の六時半、表参道はまだ明るく、恋の予感に満ちている。
私は青山通りを折れて瀟洒なビストロに入る。俊介は既にテーブルに着き、私を待っていた。大手広告代理店に勤める男。ジャズピアノを弾き、週末は早朝からサーフィン。彼は私を見ると破顔する。
「千絵。今日も綺麗だ」
「遅れちゃった。取引先から急な電話で」
という言い訳は嘘。男は待たせるのが鉄則だ。
まずはシャンパンで乾杯。俊介は手早くコース料理を注文すると、ウエイターが去っていくのを見送り、私を真っ直ぐに見つめた。
「僕が何を言おうとしているか分かるよね。結婚してほしい」
その夜、私が俊介に「一週間待って」と留保したのは、もったいぶったわけじゃない。
家に帰り二階の自室にいると、窓に何かが当たる音がする。窓を開けると、街灯の下で短髪のいかつい男、遼太郎が私を見上げていた。
「何?」
不機嫌な声を出すけど、来ると予想していた。
彼は私の幼馴染みだ。スポーツ万能で腕っぷしも強くクラスのヒーローだった。今は消防団員として町の安全を守る。
「降りて来いよ」
本人は囁き声のつもりの大きな声。
仕方ないという表情を作り、そっと階段を降りて表に出る。
「プロポーズされたのか?」
走り寄った遼太郎はいきなり尋ねる。俊介のことを彼には話してあった。私が頷くと、
「OKしたのか?」
と私を見つめる。
「一週間待ってと言った」
遼太郎は、ほっと息をつく。そして自分の両頬をパンと張り、私に言った。
「千絵、ずっと好きだった。結婚しよう」
恋愛は恋愛、仕事は仕事。
トラブル続きで連日残業に追われた。二人のプロポーズは保留したまま。私は新人の悠人とコンビ、というか悠人を教育しながら、スイーツの商品開発を担当している。
「今日も十時過ぎますね」
悠人が疲れた様子で言った。
彼の髪は連日の激務でボサボサ。涼し気だった目元にはくっきりと隈が。まだ半人前だけど単純作業は進んで私の分もこなしてくれる。
「お腹空いたね」
と私。
「俺、コンビニで何か買ってきます」
言うが早いか、彼は腰を浮かす。
「私も行く」
気分転換だ。
ビルの外はもう人の流れが疎らになっていた。辺りは明かりが消え、コンビニの照明が夜の海に浮かぶ灯台のよう。
ふいに悠人が立ち止まる。
「あの、俺」
それで悠人はいきなり叫んだ。
「千絵さんが好きです。こんな年下、興味ないかもだけど、真剣です」
悠人の事、嫌いじゃない。むしろ好きだ。
でも私には俊介がいる。遼太郎だって。
その時、私のお腹がグーと鳴った。
それで二人で笑ってしまった。
「コンビニ行こうか」
でも、店には予想外の人達が待っていた。
「愛してる」
と微笑む俊介。
「大好きだ」
遼太郎は大きな声で。
「千絵さん」
悠人も、並んで私を見つめている。
「どうしたの? みんな揃って」
三人は少しだけ譲り合い、
「そろそろなんだ」
まずは俊介が答えた。
「残された時間は僅かしかない」
遼太郎はすまなそうに言う。
「その時間、誰と過ごしたいですか?」
悠人は寂しげな表情を浮かべて尋ねた。
私は何の事か分からなかった。
いや、分からないでいたいと思っていた。本当は分かっていた。
何もかも。
それで私は、ふふふと笑った。
みんな素敵な男性。
でもね。
彼らはコンビニの光景と共にすうっと消えていき、東京のオフィス街も掻き消え――。
私は、古い平屋の庭先で洗濯物を干していた。新婚時代から数十年を過ごした家だ。
庭に面した廊下に一人の老人が座っている。黒縁眼鏡を鼻眼鏡にして新聞に目を通す。謹厳実直を絵に描いたような夫。
いつ頃からか私は空想するようになった。女優みたいに若く美しくなってイケメン男子と恋に落ちる。夫とは恋愛結婚ではない。両親が厳しく女子高育ち、勤め先も女ばかりで、恋愛経験もなく見合結婚した。
仕事もそう。当時女性は雑用的な仕事しかさせてもらえず、そうするうち結婚して家庭に入った。そして年老いた。
だから私は空想の中で何十歳も若返ってバリバリ仕事をこなし、恋に燃えた。
でももう時間切れだと言う。
「千絵」
見れば、夫がサンダルをひっかけ庭に降りてくる。
夫はこの翌日に急逝する。それから三十年以上、私だけ生きてきた。そして一人では暮らせなくなり施設に移った。
最近のことは正直何だかよく分からない。けれど良い人生だったと思う。夫がいたから。空想はただのスパイス。いつでも夫が私の憩う場所だ。彼が亡くなってからも。
見上げれば薄っすらと月が出ている。透き通って向こう側が見えそうな月は、うつつか幻か見分けがつかない。月だけじゃない、全てが一体どちらなのか、もう私には。
けれど、もうどちらでもいい。ただ私はその時が訪れるまで、愛おしいこの景色の中で夫と佇み続ける。