008 桜ヶ丘結奈8
寝ぼけまなこではしごを下りる。こういう朝、二段ベッドの上のほうは危険なのだ。ちゃんと目が覚めていないと、たまにどきっとすることになるから。
あんまりいい目覚めとはいえない。先週の日曜日から──奏乃ちゃんと一緒にカフェに行った日から、うまく寝つけない夜が続いていた。
片倉沙希のことは、つい最近まで思い出さなかった。いやな記憶ほどすぐに忘れてしまうっていうのはほんとうらしい。奏乃ちゃんとこの部屋で暮らした数ヶ月のあいだ、わたしは一度も彼女のことを考えなかった。
でも、あの日彼女に出くわしてから、気を抜くといやな思い出がよみがえってくる。静かな部屋でベッドに横たわっていたり、ぼーっとテレビを見ていたりするときに、ふと浮かんできてしまう。まるで見えない手に沼へと引きずり込まれるみたいに。
おかしいくらい心臓がばくばくして、眠れなくなってしまう。
木目の床に裸足で降り立つ。足の裏がひんやりした感触にふれる。心地よくて、すこしだけ心が安らぐ。
なんてしていたら、わき腹に白い手が伸びてきて、強い力で引っ張られた。なすすべなく、下のベッドに引きずり込まれる。
いつもの匂いと柔らかさ。
「……、おはよ」
「おはようございます」
奏乃ちゃんの体温が残るベッドと、あたたかい彼女の体にすっぽりくるまれる。眠たい朝には、睡魔と一緒にわたしのあたまをむしばもうとしてくる。ここで寝るのは絶対にだめだ。悪魔のベッドだし、何よりいいんちょからも二年一組のみんなからもブーイングをもらう。
「……ちゃんと寝られましたか?」
「………」
いやな質問だった。たぶん奏乃ちゃんには、わたしが遅くまで寝つけなかったのがわかってるんだろう。でも、認めたくもないから、答えなかった。
「先輩はわかりやすいですねー」
そんなことないって言いたかったけど、否定できる根拠が見当たらない。
奏乃ちゃんは物憂げに息をつく。
「ひとりで寝られるようにならないとダメですよー。あしたから、あたし、しばらく空けるんですから」
「え?」
びっくりして奏乃ちゃんのほうにからだを向ける。勢いあまって鼻の頭どうしをぶつけてしまった。痛い。奏乃ちゃんもちょっと涙目になっている。
「あ、ごめん……」
「いいですけど……言ってませんでしたっけ」
「聞いてないよ! なんで!?」
「なんでって、実家に帰るからですよー」
当り前じゃないですか、って言いたそうな顔だった。
部活やらクラス企画やらで忙しいからつい忘れちゃうけど、もう夏休みも中盤だ。親元を離れて桜花寮で暮らしている生徒が実家に帰るのは、べつにふしぎじゃない。
「遠いの?」
「うーん……まあ、遠いといえば遠いですねー。東京です」
「めっちゃ遠いじゃん……」
電車で数時間はかかる。すぐに行き来できないなら、結構長い間むこうにいるのかもしれない。また、しばらく、この部屋でひとりになるのか……。
やだな。桜花寮の部屋は二人用に作られているから、ひとりで生活するには広すぎる。
「いつ帰ってくるの?」
「一週間とか、その辺かな……えー、ちょっと、なんでそんな顔するんですかー」
ぷにぷに頬をつつかれた。わたしには、自分がどんな顔をしているのかわからない。
「お土産買ってきますから」
聞き分けのない子供をあやすように言ってくる。だだをこねても仕方ないので、しぶしぶうなづいた。
「……ばななとごまたまごとひよこは禁止だよ」
はいはい、と笑われる。
奏乃ちゃんのベッドから出て、学校に行く支度をする。今日は劇の配役を決める日だ。うまく目立たないところに入れてもらえたらいいな、なんて考えていた。