041 美波奏乃 22 (最終話)
先輩にはああ言ったけど、あたしには渋谷瑠璃のいそうな場所の心当たりなんて二つしかない。ひとつは514号室、もうひとつは──。
急ぎ足で、先輩と一緒に校舎に向かう。昇降口で別れて、あたしは旧校舎に入った。二階までは中央階段を使って、三階へは非常階段を上る。
ほこりに残った足跡をたどって、金属の扉の前に立つ。渋谷瑠璃から受け取ったカギを差しこんで回す。手ごたえはなかった。外れかも、と少し不安になった。
きんもくせいの匂いの残る部屋に足を踏み入れる。狭い部屋を見回しても、線の細い小柄な姿は見当たらない。あたしの後ろで扉が閉まると、この場所だけ学校から切り離されたみたいに、何の音も聞こえなくなる。
あきらめて別の場所を探そうとしたとき、昨日ここに来た時に見かけなかったものがあるのに気が付いた。放送用の機材が設置された机の上に、茶色い壜がぽつんと立ててあった。いやに見覚えがある壜だ。
手に取ってみる。蓋は閉まっているけど、中には何も入っていない。ラベルには、おどろおどろしいマークが三つと、あてこすりのように「メタノール」という字が印刷してある。裏には英語と日本語で長い文章が書いてあった。化学の薬品とかはよくわからないけど、本物にしか見えない。
その壜の下に、半分に折ったルーズリーフがしかれている。開いてみると、真ん中にボールペンで三文字だけ、「屋上へ」とあった。整っているけど、女の子っぽい字ではない。渋谷瑠璃がこんな字を書くことは、簡単に想像できた。わざわざこんなことしなくても、ここで待っていてくれればいいのに。
心の中で恨み言を吐きながら、壜とルーズリーフを持って、屋上への非常階段を上がる。ドアのカギは壊れていた。さすがに渋谷瑠璃がやったわけじゃないと思うけど……やりかねないから恐ろしい。
外に出ると、空が広がっている。どこまでも突き抜けていくような青空だった。いちばん遠いところに、ちぎれたような雲が浮かんでいる。このあたりは学校より高い建物が少ないから、空も広く見える。
その下で、見慣れた姿が塗装のはげた鉄柵に寄りかかっていた。柵が外れれば背中から落ちてしまいそうだ。頭の上に昨日と同じ魔女の帽子がのっかっている。足元には瓶が置いてあった。学校という場所には似合わない、宝石のような色をした瓶だった。帽子とそれだけが、この空間では異質で──まるで、あたしに何かのヒントを与えるみたいに、わざとらしい。
「……先輩が心配してますよ」
彼女に近づきながら言うと、ふぅん、と気のない返事をする。放送部のシフトはしらばっくれる気らしい。彼女のとなりに立って、柵に触れる。古びていて、あまりもたれたいとは思わない。
「昨日はちゃんとお姫さまに会えた?」
「おかげさまで」
いやみを言うあたしに、渋谷瑠璃はいつもの含み笑いで返してくる。
「言いたいことがあるなら、いまのうちに言っておいた方がいいよ。邪魔者もいないし」
言いたいことがあるなら、どころか言いたいことだらけだ。昨日はあざが残るほどいたぶってくれた上に、今日はこの人のおかげで先輩との時間まで邪魔された。文句ならいくらでも湧いてくる。
でも、それよりも、もっと大切なことがある。
「……どうしてあたしにうそをついたんですか」
あたしの言葉は予想のうちだったみたいで、渋谷瑠璃は驚いた様子を見せなかった。
「うそ? なんのことかなー?」
そのかわり、平然と白を切る。
「とぼけないでください。もうとっくに十時間なんて過ぎてます」
十時間どころか、あたしがあの液体を飲み込んでから、もう一日が経とうとしている。渋谷瑠璃が本当にこの壜に書いてある薬を入れたなら、ラベルの注意書きどおり、あたしの目はとっくに見えなくなってしまっているだろう。
「お姫さまに会えたから、魔法が解けたんだよ。きっと」
「『魔法なんかじゃない』──そう言ったのはあなたじゃないですか」
あたしが言い返すと、渋谷瑠璃は目をまるくした。それから、やっと真面目に取り合う気になったみたいに、あたしの方に顔を向けた。
「私がミスをしたとは思わないの? 入れるメタノールの量をまちがえたとか」
「思いません。中学生の時からあんなにぬかりなく計画を立てていたあなたが、そんな簡単なまちがいを犯すなんて」
「……ずいぶん私のことを高く買ってるみたいだね」
「先輩だって言ってましたよ。あなたがシフトを忘れるはずないって」
先輩は彼女のことを信頼している。あたしがそのことを口にすると、渋谷瑠璃は面白くなさそうな表情をした。
「……茨のとげが刺さって失明した王子さまは、盲目のままラプンツェルと再会して、彼女の涙で奇跡的に──というか、奇跡によって、視力を取り戻す。そういうお話だからだよ」
「そんなことは知ってます。あたしが知りたいのは、なぜあなたがあの童話に、そこまでこだわるのかってことです」
どうしてうそをついてまで──こんなものを用意してまで、ラプンツェルの童話をなぞろうとするのか。あたしが問い詰めると、彼女にしてはめずらしく、口をつぐんだ。昨日は何を言ってもひょうひょうと言い返してきたのに、今度はそうはいかないみたいだった。
彼女が答えを持っていないのか、それともあたしに言いたくなくて黙っているのかはわからない。でも、あたしが目を覚ましてからずっと考えていたことが正しいなら、彼女は気づいている。だとしたら──勝手に答え合わせをさせてもらうだけだ。
「あんなこと、ほんとは早く終わりにしたかったんじゃないですか?」
彼女は目をふせた。屋上をわたる風に耳を澄ませているようにも、あたしの視線から逃れるためにそうしたようにも見えた。それから、飛ばされないように魔女の帽子をおさえる。
「あなたがやっていたことは、復讐なんかじゃない。ただの八つ当たりです。あなた自身もそれに気づいていて、罪悪感や良心の呵責を感じていた。でも、だからといって、そう簡単にやめることもできなかった。中学の時からやってきたことは復讐だ、自分を犯した男がすべて悪いんだと、ずっとそう思い込んでいたから、何か形になるものが得られなければ引き下がれなくなってしまった」
「……仕返しのつもり? 昨日殴ったり馬鹿にしたりしたことへの」
彼女の言葉を無視して言いつのる。
「ラプンツェルの物語は、ラプンツェル自身になんの罪もない。でも、彼女は魔女によって囚われ、砂漠に棄てられてしまう。あなたにとって、それは都合がよかった。憂さ晴らしのために先輩を慰み者にしてきたことを正当化できる上に、その結末を“復讐”の最後にすることで、自分を納得させることだってできる。あの物語をああまでしてなぞりたがったのは、自分自身を守るためだったんじゃないですか?」
言い切ると、渋谷瑠璃はまぶたを開いた。初めて見るようなけだるげな表情をして、あたしに視線をくれる。
「よくできたお話だね。それに、半分はあってる」
とりつくろう様子もなく、彼女はそう言った。
「もう半分はまちがってる。やめたいと思ったのはほんとうだよ。でも、私は桜ヶ丘結奈に申し訳ないとか彼女がかわいそうだとか、八つ当たりや憂さ晴らしをすることが正義にもとっているからいけないとか、そういうふうに考えたことは一度もない。私がやってることが復讐だろうが憂さ晴らしだろうが、そんなのはどうでもよかった」
自分がやっていることが正しくないと気づいたあとも、彼女は先輩に対して、自分をとがめる気持ちを持たなかった──そんなことがありえるだろうか。
「なら、どうして」
「疲れちゃったんだ」
突き放すように言って、渋谷瑠璃は空を見上げた。
「高校生になってからずっと、私は桜ヶ丘結奈の親友として振る舞ってきた。学校でも、部活でも、寮でも──彼女の隣にいるときは、ずっと親友になりきらなくちゃいけない。ほんとうは彼女を友達だと思ったことなんてないのに。私はうんざりだった。でも、親友であることと復讐を続けることは、表裏一体なんだ。やめるなんてとてもできない。中学二年の時から、私はすべてを復讐にささげてきた。もしやめてしまえば、いったい私に何が残る?」
渋谷瑠璃は、同い年の女の子を犯させて、それを悪びれる気持ちを少しも抱かないような人間だった。彼女には、同情や共感が欠けている。でも、それ以前に、彼女だって、ひとりの少女に過ぎない。ひとりの少女が、二年間も二つの顔を演じ続けることができるとは思えない。せめてクラスにいるときだけなら何とかなったかもしれないのに、この閉鎖的な学校では、それもままならない。
「私は最初にやり方をまちがえてしまったんだ。あとは時間の問題だった。桜ヶ丘結奈に初潮が来るにせよ来ないにせよ、私はもう疲れきって、復讐を続けられない。ラプンツェルのお話を知ったとき、この話になぞらえて、全部終わりにしようと思った。そこはきみの言った通りだよ。それに、あのお話の魔女を完璧になぞれば、もしかしたら、私にも何か結末が見つかるかもしれないってね」
彼女は、最初から最後まで、自分自身のためだけに、あんな遠回りなことをした。あたしの答えは、たしかにまちがっている。彼女がどれほど自己中心的かを、測り損ねていた。
「──でも、そんなものはなかった。私に残されたのは、この犯されたからだだけだった。希望がないのは、私の方だったんだ」
渋谷瑠璃はさびしそうな笑みを浮かべる。部屋の中にも、塔の外にも希望はない。あたしと対峙しているとき、彼女が先輩に使った言葉だった。
「ねえ、『ラプンツェル』の魔女は、最後どうなっちゃうか知ってる?」
あたしは首を振った。あの童話を読んだのは一年近くも前だ。王子さまやラプンツェルのことならともかく、そんなに細かいところまで覚えていない。
「いなくなるんだよ、物語から。用済みってわけ。バカみたいだよね。大げさな物語を用意しても、こんなくだらない終わり方になっちゃうなんて」
彼女がそう言うのを聞いて、自分の予感が正しかったことを知る。彼女の足元の瓶を見た時から、もしかしたらと思っていた。あたしの手の中にある壜が本物で、あたしが飲んだのがその中に入っていたものじゃないとしたら──今、その中身はどこにあるんだろう。「たくさん飲まなければ死ぬことはない」、その液体は。
あたしには、理由がわからなかった。でも、今ならわかる。自分が作ったラプンツェルのお話に、彼女自身も飲み込まれてしまっているのだ。
ただ、それがわかったとして──あたしに、彼女を救う言葉を、言うことができるだろうか。
あたしは先輩を助けることができたかもしれない。先輩の孤独や恐怖は、あたしが癒してあげられるものだったから。そういう意味で、先輩は絶望していなかった。でも、渋谷瑠璃はそうじゃない。彼女の心の内側に巣くった穴は、「健康に育ってきた」あたしに理解できるようなものでも、まして救えるようなものでもない。
だったら、今、あたしにできることは、彼女を救うことなんかじゃなくて──その場しのぎのごまかしをすることだ。
あたしが彼女の方に手を伸ばすと、彼女は目を閉じてからだをすくめた。昨日の仕返しをされるとでも思ったのだろうか。その手で、あたしは彼女の帽子を取った。つばの大きな魔女の帽子は、見た目のわりにずっしりとした手ごたえを感じる。どれだけ日の光を当ててみても、内側は真っ暗で、のぞき見ることはできない。
「あなたにとって、渋谷瑠璃は、犯されたからだだけかもしれない。でも、先輩にとっては違うはずです。先輩に接していたのが偽りのあなただったとしても、彼女にとってはたったひとりの、本物なんだ」
だから、とあたしは言った。
「約束は守ってください。『先輩にはもう手を出さない』って。そう言ったじゃないですか」
先輩を悲しませることは、あたしが許さない。強い口調で言うと、彼女は少しの間あっけにとられたような顔をして、それからばからしくなったみたいに、ふっと息をついた。
「何を言い出すかと思ったら。結局、先輩、か」
当たり前だ。渋谷瑠璃の中心に自分がいるように、あたしの中心には先輩がいる。先輩とは、あたしがいつまでも守ってあげるって約束したのだ。
うすくほほ笑んで、渋谷瑠璃は屋上の柵から身を離した。
「いいよ。約束は守る。彼女が私から、自由になるまでは、ね」
今のところは、それで十分だ。そうすれば、先輩は悲しまずに済むから。
ホールがある方角から、ざわめきが大きくなってくる。ほとぼりの冷めていない女の子たちの上ずった声だった。そろそろ星花祭も終わった頃合いだ。
そんなことを考えていると、ブラウスの胸ポケットに入れたスマホがメッセージを知らせる。
画面を見なくたって、誰からかわかる。守るべきひとに知られず役目を果たせたことに、あたしは深く胸をなでおろす。きっと今ごろ、親友の女の子のことを心配しているだろう。
その彼女は、苦笑しながら言った。
「早く行ってあげたら。お姫さまが待ってるよ」
“Rapunzel”
〈キャスト〉
桜ヶ丘結奈 美波奏乃 渋谷瑠璃
栗橋莉亜 砂塚聖 相葉汐音
神保ユキ 小川ミサ
〈製作〉
星花女子学園 高等部二年一組
了