040 美波奏乃 21
となりで寝息が聞こえる。まぶたの裏で日が高く上っているのを感じる。星花祭の二日目は、もうとっくに始まっている。あたしたちがいないって騒いでいないといいけど。汐音ちゃんあたりが、いい感じにごまかしておいてくれたりしないかな。
昨日、あの部屋を出てから、すぐに汐音ちゃんに電話した。先輩、見つかったよ。シフト代わってくれてありがと、と。汐音ちゃんは電話口でとてつもなく長いため息をついて、「よかったわ」とだけ言った。心配してくれていたんだろう。ふだんはツンツンしてるけど、根はやさしいのだ。
515号室に帰って、儀式をした。あたしがお母さんから教わったことを、先輩は誰からも教わることができない。だから、お姉ちゃんとしてあたしが教えてあげなきゃいけない。光を失う前に。
本当はトイレとかバスルームでやりたかったけど、桜花寮の部屋にはそういうものはない。共用のトイレの個室にふたりで入るのはちょっと勇気がいるし、丸聞こえになってしまう。仕方なく、カーテンを閉め切って、内緒話をするみたいに肩を寄せあった。
あたしは人にものを教えるなんてほとんどやったことがなかった。でも、先輩は物覚えがよくて、思ってたより手早く済ますことができた。先輩は、ありがと、と言って、あたしの左手に触れた。すこしだけ、体温が戻ってきているような気がした。
お腹すいちゃった、と先輩が言ったので、あたしたちはカフェテリアまで降りて行った。晩ごはん時っていうにはちょっと早いくらいの時間だったから、閑散としていた。先輩はいつものうどん。あたしは、ピザとクリームパスタ──だけじゃ足りなかったので、もう一周して、今度はデミオムライスを注文した。今日は朝も昼も食べてなかったので、いつもよりいっぱい入るみたいだ。先輩はにこにこしながらあたしが食べるのを見ていた。
ごはんを食べたあと、べつべつにお風呂に入る。目に見えるところだけでも、いくつかあざができていた。先輩に見られたら嘘をつかなくちゃいけなくなってしまう。いっしょに入ることになってなくてよかったと、初めて思った。
あたしが部屋に帰ってくるのを、先輩はくらげのクッションの上で待っていてくれた。でも、もう二人とも体力の限界だった。何も話さないまま、折り重なるようにベッドに倒れこんで、そのまま眠ってしまった。あたしが先輩のベッドで寝ていたので、二対二だ。
胸のあたりで、先輩の頭がもぞもぞする。先輩のベッドなのに、あたしがまくらを使っている。柔軟剤に、少しだけ先輩の匂いを混ぜ合わせたような香りがした。
頭をぽんぽんすると、あたしに身をゆだねて、また動かなくなる。先輩が起きる前に、これからのことを考えないといけなかった。どう言い訳したらいいだろう。そういうことを考えながら、まぶたを持ち上げる。
「………」
いつもどおりの515号室がある。昨日とほとんど変わっていない。ベッドボードに置いてあるコロンの瓶が、ローテーブルの上にあるくらいしか──。
……見えなくなってなんか、ない。
あまりにもばかばかしくて、こっけいで、笑いがこみあげてくる。あたしはまんまとだまされたんだ。渋谷瑠璃に。
それなのに、目元が熱くなって、刺すように痛む。思わず、先輩の肩に回していた手に力が入った。
「……奏乃ちゃん?」
先輩がとろんとした目で見つめてくる。
「あ、起こしちゃいましたか?」
「ううん。大丈夫」
先輩があくびをすると、うつったみたいにあたしも真似した。先輩はにへっと笑った。でも、その顔はすぐに曇ってしまう。
「……どうしたの?」
「へ? 何が……」
抑えきれなかった涙が、数滴だけしたたり落ちた。桜色の枕カバーにしみこんで汚してしまう。
「ご、ごめんなさい」
あたしが謝り終える前に、先輩は人差し指の背であたしの目元をぬぐった。
「悲しい夢?」
先輩まで悲しそうな顔をして、あたしにそうきいてくる。
「……いいえ。違うんです。ほんとうに、なんにもなかったんです」
あんなの、うそだったんだ。あたしが泣き笑いのような表情を作ると、先輩もほほ笑んでくれる。
涙のせいで視界がぼやけている。目を細めてローテーブルに置いた時計を見ると、もう二時を過ぎていた。これじゃ、寝坊どころじゃない。
「……もう二日目、始まってるね」
「そうですねー」
星花祭二日目は舞台発表が中心だ。汐音ちゃんたち合唱部の発表があったりしたから見に行きたかったけど、あたしのからだは睡眠を優先してしまったらしい。
「……休んじゃいましょうか」
「不良さんの奏乃ちゃんだ」
「不良じゃないですってばー」
先輩はくすくす笑う。でも、もう学校に行く気もないみたいだ。ベッドから出ようとしない。
「……ごめんね。初めての星花祭、こんなふうになっちゃって」
「あたしは満足ですよー。先輩とこうしてられるだけで」
そう言うと、んー、と声ともつかないような声を出して、おでこを胸にこすりつけてくる。甘えられるのはうれしい。でも、寝起きだから、あんまり谷間に顔を埋められると、汗かいてないかとかが心配になる。蒸れてたら恥ずかしいし。
あたしの気持ちが伝わったわけじゃないだろうけど、先輩は顔を離してくれた。それから、何か思いついたようにこっちを見た。
「模擬店しよっか。ここで」
「模擬店?」
「うん。わたしが作って、奏乃ちゃんが食べるの。たこやきとか、やきそばとか、クレープとか。だめ?」
「そんな訳ないじゃないですか」
頭を撫でてあげる。先輩は、あたしが撫でやすいようにすり寄ってきてくれた。
「体調、大丈夫ですか?」
「うん、へいき」
しばらくもぞもぞしていると、ベッドサイドに置いたケータイが音を立てた。長くバイブが続く。並べて置いてあるスマホに目をやると、着信画面を表示させているのはピンクのほうだった。
「先輩のですよ」
「うーん……」
「出なくていいんですか?」
「……あんまり出たくないかも」
でも、出た方がいいんじゃないだろうか。あたしたちがいないところで、文化祭は続いている。あたしに連絡が来ることなんてまずないだろうけど、先輩はクラスにも部活にも参加してるわけだし……。
先輩もそんなことは分ってるみたいで、寝転がったままケータイを取った。
「はーい。結奈だよ」
女の子の声が、ざらざら聞こえる。なんて言ってるかは聞き取れなかったけど、あまりいい報告ではないみたいだ。え、瑠璃ちゃんが、と心配そうな顔できき返す。それから二、三言交わして、電話を切った。
「渋谷先輩、どうかしたんですか?」
「最後のシフト、来ないんだって。忘れるようなタイプじゃないんだけど……。代わりに入ってって言われちゃった」
「それじゃあ、しょうがないですね」
踏ん切りがついたので、ベッドから出ることにした。体を起こして、冷たい床に裸足をつける。歯ブラシをくわえて洗面台から戻ってくると、先輩は制服を引っ張り出しているところだった。
最後のシフトがどれくらいからなのか分からないけど、ゆっくりできそうにはない。予定では、あと一時間もしないうちに、星花祭は終わってしまう。
「先輩は放送部のほうに行ってください。あたしは渋谷先輩を探します」
「いいの? でも、いそうな場所とか、わかる?」
「大丈夫です。あたし、実は渋谷先輩とけっこう仲いいんですよ」
少なくとも殴られたり胸を揉まれたりするぐらいには。
先輩は言葉どおりに受け止めたらしく、うれしそうな表情をした。
「そっか。放送部のお仕事、終わったらLINEするね」