038 美波奏乃 19
古い放送室に入った途端、息が詰まるような閉塞感に襲われる。よどんだ空気が頬を撫でる。強烈なきんもくせいの香りと、かすかに鉄さびのようなにおいが混じりあっている。
先輩は糸の切れた操り人形のように壁にもたれて座っていた。高いところにある小窓を見上げていた視線だけが、あたしのほうに向く。すこし驚いたように、先輩は泣き腫らした目を見開いた。
「先輩……」
「来ないで」
あたしの後ろで、重たいドアが閉まる音がした。その声はからからに乾いてひび割れている。それなのに、今まであたしが受けたどんな言葉よりも強い意志を感じさせた。
拒絶されても、立ち止まるわけにはいかない。先輩の目の前に膝をつく。
「帰りましょう。515に」
あめ色の瞳の奥をのぞき込みながら、あたしは言った。先輩はだだをこねるように首を振る。
「なんでですか?」
「帰りたくない」
遊園地に来た子供みたいにかたくなだった。そんなことを言われると、いじってあげたくなってしまう。
「あたしのこと、嫌いになっちゃったからですか?」
「ちがうよ! そんなわけ、ないじゃん」
必死に否定してくれる。笑みを浮かべると、左頬が痛んだ。あたしがにやにやしているのに気が付いたのか、先輩は恥ずかしそうに目をふせる。
先輩をいじるのは楽しいけど、これくらいにしとかなくちゃ。あたしには、タイムリミットがある。渋谷瑠璃によってかけられた魔法が、あたしの光を奪うまで。それまでに先輩とできることは、すべてやらなくてはいけない。後悔はできない。
「……渋谷先輩に聞きました。先輩の、からだのこと」
先輩はすべてが渋谷瑠璃によって仕組まれていたのだとは知らないし、あたしも教えるつもりはない。渋谷瑠璃のためではなく、先輩のために。だから、あたしは先輩の過去にあったことに関しては知らないふりだ。
あたしがそう言っても、先輩はあまり驚いた表情をしなかった。
「……そっか。秘密にしてて、ごめんね」
謝らなきゃいけないのは、あたしのほうだ。
先輩は、クラスのみんなにも、後輩のあたしにさえ置いてけぼりにされていた。それが、さびしくてつらくないはずがない。あたしにだって、ユキやミサが手の届かないところに行ってしまったときは気がめいってしまったのに。
「あたしこそ、気づかなくて、ごめんなさい。先輩はずっとひとりぼっちだったのに。さみしかったのに、それに気づいてあげられなくて……」
先輩はゆるく首を振る。それからうつむいて、視線をさまよわせた。あたしに何かを伝えようとして、でもためらっているような、そんな姿だった。
言ってほしい。白くてすべすべした手を取る。先輩の手はいつもあたしよりもあたたかいのに、今日はまるで金属に触れているかのように冷たかった。飾り気のない指先に、乾いた血がこびりついている。すぐに折れてしまいそうな指や、きれいな形をした爪が痛々しい。
「……瑠璃ちゃんに言ったことだけじゃないの」
あたしの手のひらから、先輩が手を引っ込めようとする。弱い力で握ると、先輩は空いた方の手で自分のからだを抱いた。
「中学二年生のときから、わたしのからだは、すこしも変わってない。生理も来なかったし、身長も、体重も、ほかのところもぜんぶ」
先輩は、ちいさくてかわいい。あたしはこの世界のだれよりもそう感じてきた。でも、それは成長が遅いせいじゃなくて、あの日を境に止まってしまったせいなんだ。
中学二年生になれば、身長が伸びなくなっても不思議なことじゃない。だけど、身長や体重だけじゃなくて──服の上からはわからないところもそうだったんだろう。
「……わたしはそれでいいと思ってた」
あきらめるように、先輩はため息をつく。
「わたしは大人のからだになりたくなかった。胸がふくらんで、くびれができて、ほかのひとからそういう目で見られるようになるのが怖かった。だから、中学生のからだのままでいられるなら、それでよかった」
ミサとの会話を思い出す。胸が大きくなったり、大人っぽいからだになったりするのは、性的な対象として見られやすくなるってことだ。あたしやユキやミサにとって、それは意識することもないような何でもないことだった。
けど、先輩にとっては違った。中学生のとき、あんなことがあったから。父親の罪への報いとして、彼女は渋谷瑠璃と義姉たちに犯された。そのせいで、彼女はそういう目に人並み以上に敏感になり、怯えるようになってしまった。
「でもね」
握っていた手が、ぽとりと床に落ちた。嗄れていた彼女の声が潤いを帯びる。
「来ちゃったんだ。昨日から、わたしのからだの時間が、血といっしょに流れだした。このまま、どんどん汚く、いやらしくなっていく」
彼女の瞳から、大粒の涙がぼろぼろこぼれた。制服のスカートにしみを作る。
「怖いよ、大人になるの。わたしは、このまま、消えちゃいたい……」
彼女は時限爆弾を抱えているようなもの──。
渋谷瑠璃は、そう言っていた。そして、彼女が思い描いたシナリオの通りのことが、先輩に起きたのだ。
孤独を感じながらも、不自由ない暮らしを営んでいた少女は、予期せぬ訪問者によって外の世界のことを知ってしまう。
──それで、彼女は幸せだったんだろうか。
それから彼女は砂漠に投げ出され、最愛の人と引き裂かれた胸の痛みを負いながら生きていく。それなら、外の世界のことを知らないまま、塔に囚われていたほうがずっと幸せだったんじゃないか。
あの物語には、取ってつけたようなハッピーエンドがあるから救われるのかもしれない。でも、渋谷瑠璃が描いた物語に、あたしが書き加えた結末は、ハッピーエンドなんて呼べる代物でもない。
先輩のからだを、慎重に抱きしめる。いつもよりずっと軽くて、冷たい。ガラスでできた壊れ物のようだった。
先輩は身を固くして、すぐにゆるめる。しゃくりあげるたび、彼女のからだがはねた。
「先輩が、大人になりたくないなら、ずっと子供のままでいればいいじゃないですかっ」
もしそうなら、あたしは、彼女を塔の外へ連れ出そうなんて考えない。ずっと塔の上に閉じ込めておけば、つらいことはないはずだから。あたしは、ラプンツェルを連れ出しに来た王子さまなんかじゃないのだ。
「そんなの無理だよ……」
「無理じゃない」
「無理だよ!」
「無理じゃないもん!」
めちゃくちゃなのはわかっていたけど、意地になって言い返す。でも、本当に伝えたいのは、そうじゃない。
「無理じゃないもん! もし、無理だって言うなら──」
もし、彼女のからだが、彼女を子供のままでいることを許さないとすれば──彼女がどうしても砂漠へと追いやられてしまうというなら、そのときは──。
「あたしが、先輩を守るから!」
あたしが、魔女になる。
「……っ」
「あたしが、ずっと一緒にいて、閉じこめて、守ってあげるから! だから、おねがいです! 帰ってきてくださいっ」
先輩が息を詰まらせる。それから、腕をあたしの背中に回して、からだを抱き寄せた。せいいっぱいの力を振りしぼるみたいに、ぎゅっとしがみついてくる。
渋谷瑠璃に打たれた痕が、からだ中で悲鳴を上げる。声が漏れそうになった。歯を食いしばって、気取られないようにする。先輩が受けてきた痛みに比べれば、これくらいなんてことない。そう思えば、やりすごせる。
先輩は、あたしの胸の上で泣きじゃくった。彼女のからだの震えが伝わってくる。こぼれた涙があたしのブラウスにしみこんで、肌にその熱を感じた。
ずっと我慢していた感情が、せきを切ってあふれ出したみたいだった。いままで、つらいことがあったとき、先輩はこんなふうに声を上げて泣くことができたのだろうか。お父さんがああいうことになったときも、お母さんに捨てられたときも、義姉たちに犯されたときも──きっと、そんなことはなかっただろう。彼女にそんな場所があったとは思えない。
なら、あたしは魔女として、先輩にそんな場所を作ってあげる。
彼女を安心させるように、背中をさする。それから、頭を撫でて、長い髪を手で梳いた。こうされるのが先輩のお気に入りだと、あたしは知っている。
やがて、嗚咽が小さくなる。
先輩が数年分の涙を流し終えるまで、あたしは細っこいからだを抱きしめ続けた。