037 美波奏乃 18
あたしは、先輩に生理が来ていないことを知らなかった。同じ部屋に暮らしていて、いままでどうして気づかなかったんだろう。彼女が道具を持ってどこかに行くのも見たことがなかった。先輩のイメージとは似つかわしくないものだったからかもしれないし、先輩があたしに気取られないように気をつけていたのかもしれない。どちらにせよ、渋谷瑠璃が言う通り、あたしは愚かだった。
渋谷瑠璃は魔女の帽子を取って、手を入れる。手元からのぞく帽子の中は、ぽっかりとした暗闇が広がっていて、まるですべての光を吸い込んでしまうようだった。がさごそしたあと、彼女は片手に握れるくらいの大きさのグラスと、褐色で半透明の壜とを順番に取り出した。おしゃれな食卓に置かれるものと、理科室にあるようなもの。ミスマッチなそれらが、あたしの顔の横に並ぶ。
「ラプンツェルを連れ出しに塔に来た王子さまは、結局彼女を助けることができなかった。手遅れだったんだ。それで、どうなっちゃったと思う?」
『ラプンツェル』の王子さまはかっこよくない。先輩とそういう話をしたのを覚えている。だって、自殺しようとしちゃうんだから。
彼女があたしにそれを尋ねるというのがどういうことか、わからない。あまりいい予感はしなかった。それでも、あたしは答えざるをえない。
「ラプンツェルにもう会えないことを知って、絶望のあまり、塔の上から身を投げた……」
あたしが答えると、渋谷瑠璃は満足げにほほ笑む。
「よく知ってるね。でも、それは半分だけ」
彼女は薬品でも扱うかのように、慎重に壜からグラスへ液体を注ぐ。透明で水のようにも見えるけど、鼻をつく独特の臭気がそうでないことを伝えてくる。
東京の実家にいたとき、こっそりお父さんが買ったお酒を飲んだことがある。そんな匂いだ。
「魔女は王子さまに魔法をかけた。『気をつけたまえ。今度は、猫がきみの目玉をかきむしってしまうよ』ってね。塔から落っこちた時に、王子さまはいばらで目をひっかいて、失明する」
壜を帽子の中にしまって被りなおし、彼女はあたしの腰の上から退いた。彼女の手品は何度やってもぼろが出ない。ほんものの魔法のようにも思えてくる。彼女がしまったもの──カギやスマホ、壜といったものが、帽子の中で消えてしまう、そんな魔法。
まだ鈍く痛む体を引きずって、壁にもたれる。陽の光を受けてグラスがきらきら輝いていた。これも、魔法みたいだ。
「それは魔法なんかじゃないけど」
渋谷瑠璃はグラスに視線をやりながらそう言った。考えていたことをぴたりと言い当てられたような気分になる。
「その液体には、メタノールっていう、平たく言うとアルコールの一種が溶けている。たくさん飲まなければ死ぬことはない。ただ、だいたい十数時間後に、視神経が脱髄を起こすんだ」
だつずい。それが何かわからなくても、飲んだら何が起こるのかは想像がついた。
無駄だと分かっていながら、悪あがきをしたくなってしまう。あたしは王子さまには向いていない。壁に手をついて、ふらふらしながら立ち上がった。すねに鈍い痛みが走って、頬がこわばる。
渋谷瑠璃からカギを奪うことはできない。万全のあたしでも厳しそうなのに、こんな状態じゃまともにやりあえるはずがない。
なら、もう一本のカギの持ち主に開けてもらうしかない。
壁に沿って歩き、金属の扉の前に立つ。ノックじゃ足りないことはわかっている。ひたすら、こぶしを打ち付ける。
「先輩! 開けてください! 先輩っ!」
ひっそりした旧校舎の三階に、あたしの声がこだまする。叩く扉にはまったく手ごたえがない。岩みたいに、音さえも吸い込まれてしまう。
「お願いです! 開けてください!」
「無駄だって。さっきやったでしょ」
背後からあきれたような声がする。手の側面がひりひりした。渋谷瑠璃にもらったもののほかに、自分であざをつけるのはバカみたいだった。でも、やらずにはいられない。
彼女の言葉を無視して扉を叩こうとすると、がら空きの脇腹につま先をねじ込まれる。油断していた。渋谷瑠璃は、こういう人間だった。
「あがっ……」
「興ざめなことしないでよ」
最初に蹴られた場所と全く同じだった。そのせいで、息もできないほどの痛みが走る。冷汗が噴き出て、じわっと涙がにじんだ。
息を荒げて痛みをこらえているあたしに、渋谷瑠璃は言った。
「王子さま。選択肢は多くない。部屋に入るのをあきらめるか、光と引き換えに、カギを手に入れるか。二つだけ」
あんな話を聞いて、みすみす引き下がるなんてできるわけがない。渋谷瑠璃には、先輩を助ける気なんてないのだ。あたしがあきらめると言ったら、彼女はこの部屋の存在を知る人間としての面倒ごとが一つ増えたくらいにしか思わないだろう。
右の脇腹を押さえて、彼女を見やる。
「……そんなことして、何に、なるの……? あたしに何かしても──」
先輩が苦しむわけじゃない。だとすれば、渋谷瑠璃の復讐の筋書きからは外れることになる。
そう言おうとした。でも、すぐにそんなわけがないことに思い至る。
「目が見えないことをルームメイトに隠し通すなんて、無理に決まってるじゃん。自分を助けるために、大切な後輩が光を失ったと知ったとき、彼女はどんな顔をするかな」
思った通りのことを、渋谷瑠璃は口にした。彼女は最初からこうするつもりだったんだ。あたしには、ここに来た時から逃げ場なんてなかった。あたしはずっと、渋谷瑠璃の手のひらの上で転がされていた。
「これは罰だ。きみが桜ヶ丘結奈の孤独に気づけなかったことへの。そんなの、見えてないのと同じでしょ」
「──っ」
廊下の木目に視線を落とす。床に置かれたグラスが嫌でも目に入った。
あたしの罪は、まぎれもなくあたしのものだ。あたしが先輩の悩みや孤独に気がついてあげられていれば、先輩はいま、苦しむこともなかったかもしれない。
尋ねるチャンスならいくらでもあった。それなのに、あたしは先輩の心に踏み込むのをためらってしまっていた。先輩とぎくしゃくするのが怖かったから。先輩にうっとうしがられるかもしれない、嫌われるかもしれないと思うと、目の前の幸せにばかり手を伸ばしていた。
もしこれが、あたしの弱さの──勇気がなかったことへの、報いだとしたら?
あたしが視力を失うことが、先輩を苦しめたことへの償いになるとしたら──。
「悩むのもいいことだけど、そんなに時間もないよ。長話をした私が言うのもどうかとは思うけど。桜ヶ丘結奈がここに来たのは、昨日の朝なんでしょ? 一歩も出ていないとすれば……」
ラプンツェルが砂漠でどうやって生き延びたのかは、あの童話には書かれていない。童話には現実は必要じゃない。でも、いま先輩とあたしが直面しているのは、まぎれもない現実だ。だから、タイムリミットも当然ある。先輩は、こうしている今もきっと苦しんでいる。その苦しみの先には、あたしにとって最悪の結末が待っている。
悩む必要なんてない。あたしの視力と、先輩の存在──そんな天秤が、成立するはずないんだから。
指先が震えている。両腕でからだを抱いて、心を落ち着けるために深く呼吸をした。
光を失うことは、怖い。今まで当たり前だったことが、当たり前ではなくなってしまうってことだから。部活だって、みんなの足を引っ張ることになるならやめた方がいい。一年四組のみんなにも迷惑をかけるだろう。最悪、どこか別の学校に通うことになるかもしれない。
「……十時間は、大丈夫なわけ?」
でも、先輩が帰ってこないことのほうが、あたしにとっては怖い。
目が見えなくても、先輩の体温や匂いは感じられる。先輩の声を聞くことだって、できる。学校が変わっちゃっても、毎日会えなくなっても、先輩とはつながっていられる。
もしあたしが選ばなければ、先輩の存在は、永遠にこの世界から失われて──もう二度と会えなくなっちゃうのだ。
「まちがいない。どんな人間でもそれくらいはかかる」
なら、じゅうぶん時間はある。決して多くはないけど、それだけ残されていれば、やらなきゃいけないことはすべてできるはずだ。
「……ラプンツェルのお話は、ラプンツェルと王子さまが再会したあと、王子さまの視力が戻って、それでハッピーエンド。そうでしょ」
ラプンツェルを読んだことがあってよかった。恐怖に足もとをすくわれそうになっているのに、引きつった笑みが浮かぶ。せめて、渋谷瑠璃に一矢報いることができたら。
「だとしたら、何?」
「でも、お話の通り、あたしが一度失った光を取り戻す、なんていうのはありえない」
物語にありがちな奇跡は、現実には起こらない。あたしは、ハッピーエンドの王子さまになんかなれないけど──それでも、できることはある。
「あたしは、絶対に先輩を連れ戻す。だから、約束して。もう先輩には手を出さないって」
このラプンツェルのお話に必要な、ハッピーエンドにもならないような結末を、作るってことだ。
渋谷瑠璃の呼吸が乱れたのを、あたしは聞き逃さなかった。彼女の憎しみ以外の感情を初めて見たような気がした。それから、彼女は短くため息をつく。
「……そのつもりだよ。ラプンツェルのお話には、そういう取ってつけたような幸せな結末がお似合いだから」
取ってつけたような幸せ。先輩にとって救いになるなら、それだけでいい。
あたしがグラスに手を伸ばすと、渋谷瑠璃は魔女の帽子を脱いだ。
そして、あたしは──。