035 桜ヶ丘結奈16
息が詰まりそうな狭い部屋だった。無機質な壁が四方からわたしを見下ろしていた。小さな窓から見える空さえも、色を失ってしまっている。
床に座り込んで、ただ空を見上げている。目を閉じると、呼吸と拍動の音がより近くに感じられた。体はまだわたしのいのちをつなぎとめようとしているみたいだ。わたしは、自分の意志で、その絆を断ち切ろうとしている。
昨日から、何も口に入れていない。ヒトは水と食料なしで何日生きられるんだっけ。三日? 五日? 奏乃ちゃんみたいにいっぱい食べられないし、きっとわたしはふつうの人よりも生きる力が弱いから、短いほうだと思う。だとすれば、あと半分くらいかな。
のどの下あたりまでが、猛烈に渇いている。それでも水を飲みたいとは思わなかった。高熱にうなされているときみたいに、頭で判断することができなくなっているのかもしれない。
このまま、飢えて渇いて死んでいくのもいい気がしていた。消えていなくなってしまったほうが、生きていくよりよっぽどいい。そのためには、この部屋から出ないだけだ。
ここは、きんもくせいの匂いがする。奏乃ちゃんの匂いだ。
もう帰らないって思いながら部屋を出ようとした時に、ベッドサイドの水色のびんが目に入った。あのコロンの匂いに包まれていると、わたしはよく眠れた。これから、痛くてつらいだろう。眠るようにいなくなりたかったから、心の中で謝りながら、わたしはびんを持ち出した。
奏乃ちゃんのものだから、奏乃ちゃんに返さないといけない。わたしは部屋と自分のからだにきんもくせいの匂いをつけたあと、びんを部屋の外に置いておいた。こうすれば、きっといつかは奏乃ちゃんの手元に帰る。
奏乃ちゃんに、何も言わずに出てきてしまったのが心残りだった。わたしのことを心配しないで、星花祭を楽しんでいてほしい。お祭りが終わるころには、きっとわたしはからだだけになっている。奏乃ちゃんは自分を責めるかもしれない。でも、そんなことはしないでほしい。
奏乃ちゃん──。奏乃ちゃんに会いたい。奏乃ちゃんのやわらかいところに、額をうずめたい。奏乃ちゃんは、ちょっと困りながら、わたしの肩を抱いたり、頭を撫でたりしてくれる。それだけで、わたしは心地よくなって、眠りに落ちていく。
この最低な人生で、星花女子にいた一年と少しだけが、救いだった。そんなことを考えると、またぼろぼろ涙がしたたり落ちた。
ずきずきとおなかの下が痛んだ。どこかで感じたことのある痛みだった。
苦しい思い出ばかりが目の前をちらつく。わたしの最期には、こんな最低な人生の終わりには、ふさわしいのかもしれなかった。
***
わたしの父親は犯罪者になった。わたしと同い年の女の子に乱暴して、捕まった。母親は、わたしが学校から家に帰るといなくなっていた。どこに行ったのかなんて、考えたくもなかった。
身寄りのなくなったわたしは、片倉家に引き取られることになった。物置のような部屋をあてがわれ、最低限の食事を与えられた。それでも屋根があるところで生きていられるだけマシだった。犯罪者の娘なんて、誰も家に置きたがらない。親戚がみんなわたしの処理に困っていることも知っていた。居場所をくれた片倉家の人たちの気分を害さないように、家の中ではなるべく鉢合わせしないよう心掛けた。
特に片倉沙希は、わたしへの嫌悪感を隠そうともしなかった。片倉のひとり娘である彼女にとって、わたしという存在は、あの家にあってはいけないのだ。わたしが犯罪者の娘になったときから、彼女はずっと、わたしをさげすむような目で見た。
片倉家が地獄のような場所になったのは、中学二年生の冬のことだった。学校から片倉の家に帰ってくると、玄関にいつもより数足多く靴が置いてあった。片倉沙希の友人たちらしかった。
たいして気に留めず、いつもの部屋に帰ると、まずわたしのものだけがぐしゃぐしゃに荒らされているのが目についた。教科書やノートはびりびりに裂かれていた。数少ないわたしの服や、下着までもが、床に散らばっていた。片倉沙希がやらせたのかもしれないけど、こんなふうに直接的な嫌がらせをしてくるのは初めてで、わたしは呆然とした。狭い戸口に立ちすくむわたしの後ろに、人の気配がして、振り向くと、片倉沙希と三人の体格のいい男が立っていた。
四人とも下卑た笑みを浮かべていた。もともと狭い物置に男たちが入ってくると、それだけで窮屈だった。わたしがふだん寝床にしている布団に、男たちはわたしを組み敷いた。わたしはなすすべもなく、腕と足を抑えられると、もう男たちの思いのままになってしまう。
ぎらぎらと欲望をあらわにした目でわたしの全身を舐めるように見たあと、彼らはわたしの制服を一枚ずつ剥いでいった。物置にストーブなんてあるはずもなく、わたしは寒さに凍えた。スポーツブラとショーツだけの格好にされると、彼らの視線が肌に突き刺さるようだった。助けを求めるように義姉に目をやっても、スマホのカメラがわたしを見返してきた。
わたしはようやく思い至った。これはわたしの父親が、名前も知らない少女にしたことなんだと。これからわたしは見ず知らずの男たちに乱暴される。これはそんな父親を持ったわたしへの罰なんだと。
彼らは獣のようにわたしに欲望をぶつけ、爆発させた。血と汗を流しながら、わたしは男たちの性欲のはけ口になった。
それから幾度となく、わたしは片倉沙希が連れてきた男たちに犯され続けた。片倉沙希はいつも愉快そうに笑いながら、わたしをスマホに収めた。それを誰かに話すことはできなかった。片倉の家から追い出されてしまえば、今度こそ路頭に迷うことになってしまう。自分で何とかするほどのお金も知恵もない。
中学を卒業するころになって、わたしはそんな地獄のような日々からやっと解放された。片倉の両親の転勤で、片倉家は大阪から遠く離れた場所に引っ越すことになった。引っ越し先の隣町に寮つきの女子校があると知って、わたしは進学先をそこに決めた。さいわい、片倉の両親に反対されることもなかった。わたしをいつまでも家に置いておきたくはなかったんだろう。これ以上片倉の家にいて犯され続けていると精神が持たないと思ったし、わたしは性的な視線におびえるようになっていたから、星花女子はそんなわたしにとっては願ったりかなったりだった。
逃げるように桜花寮に転がり込んで、わたしは平穏な日々を手に入れた。星花女子での毎日は楽しかった。誰もわたしの親のことを知らない。わたしは大阪であったことを、すべて過去のものにしようと思った。
でも、昔と今は、どうしようもなく強い絆でつながっている。わたしがどんな気持ちでいようと、忘れようとしても、犯されたという事実は、わたしの肉体と精神に傷跡を残している。わたしは毎日のように、それを確認させられた。
あの時から、わたしのからだの時計の針は狂ってしまったから。