034 美波奏乃 16
彼女は紺色の魔女の帽子から、ライトグリーンのスマホを取り出した。彼女の下から抜け出すチャンスだと思ったけど、からだに力が入らない。貧相な彼女を押しのけることくらい、簡単なはずなのに。
やがて、彼女はあたしの目の前にスマホをかざした。縦向きで撮られた動画が、スクリーンの中で動いている。ひとりのちいさい女の子と、複数の体格の良い男たちが裸で絡み合っていた。少女がまるで道具のように乱暴にされている。
「これ、なんだと思う?」
「……AV?」
渋谷瑠璃は、耐えきれないみたいにふきだした。
「おしとやかな星花女子が『AV』なんて言っちゃダメだよ。あながち間違いじゃないけど。ここに映ってる女の子は、桜ヶ丘結奈なんだよね」
本当かどうかを確かめようと画面を食い入るように見つめた。小柄な体躯、汗や涙でぐしゃぐしゃになった幼い顔、色素のうすい髪──髪は、今よりも少し短くて、肩くらいまでしかないけど、ほかのどこをとっても先輩だった。
「先輩に、何をっ」
「まあまあ、そう先を急がないでよ。これは三年前の映像だから。ところどころ、きみの知ってる彼女とは違うと思うよ。撮影日時も、ほら」
髪なんて切ってしまえばそう言い張ることができるし、撮影日時も簡単に編集できるだろう。でも、あたしは彼女の言葉を信じるしかない。あたしの力じゃ、彼女からカギを奪えっこないし、それがなければ先輩に会うことすらできない。
興味があるでしょ、とでも言いたげな顔をして、渋谷瑠璃はあたしの目を覗きこむ。カギを手に入れるためには、そして先輩を連れ戻すためには、彼女の話を聞かなければならない。そう言い訳をして、黙って先を促す。
「さて、ようやく本題だね。このお話の第一章の主人公は、女の子じゃなくて、ひとりの男なんだ。ラプンツェルの童話が、彼女の父親と母親の物語から始まるように」
渋谷瑠璃は、スマホを帽子の中に投げ入れて、また被りなおした。帽子の中でカギやケータイは消えてしまったかのように、擦れる音も立てなかった。
「──その男は、とても平凡だった。何のとりえもない、ふつうのサラリーマンで、職場での立場も中の下といったところ。当然、収入もそれに見合ったものしか得られなかった。毎日の生活は、とても豊かとは言えないものだった。
しかし、彼は、つつましくも幸せな生活を送っていた。若かったころからずっと思い慕っていた女性と結婚し、妻にすることができた。夫婦の仲はとてもよくて、喧嘩もめったにしなかった。そういった意味で、彼はとても幸福な人間だった。ただ、ある日を境に、状況が変わってしまったんだ」
彼女はうすく笑みを浮かべたまま、本を朗読するように、よどみなく話す。魔女の瞳は、あたしをとらえて離さない。吸い込まれるような、群青の瞳──。
「彼は、妻との間にひとりの女の子をもうけた。娘が生まれてしばらくは、彼は幸せを絵に描いたような生活を送った。ある一点を除いてね。
彼の妻は、子供ができてからずっと、彼を拒絶していたんだ。彼は、生理的な欲求のうちのひとつをずっと封じられたままだった。それも、最初のうちは、彼にとっては何ともないことだった。それ以上に、子供と、最愛の妻と暮らすのが幸せなことだったからね。でも、それは危ういバランスの上に成り立っているものだった。
十数年間、彼はそのバランスの上で、うまく日常を演じていた。しかし、ある日、彼は見てしまったんだ。中学生になった自分の娘に、初恋の妻の姿を。彼はそのことにショックを受けた。いくらフラストレーションが降り積もっていたとしても、中学生の自分の娘に性的な部分を見出すなんて、と。彼は自分を戒めた。でも、戒めるだけで、欲求が消えるわけじゃない。セックスがしたい。愛しているひとと、愛を確かめ合いたい。彼は、薬指に指輪をつけてから封じていた、ある種の店に何度も通った。
しかし、もう手遅れだった。彼の欲求は、おぞましく変形していた。そんなことでは、彼の欲は満たされなかった。そして、ついに獣を解き放ってしまったんだ。どうしたと思う?」
危うかったバランスが崩れたあと、どうなってしまうのか、想像に難くはなかった。あまり口に出したい話ではない。
「……娘に、乱暴した」
「ふふ。もしそうだったら、もっとすんなり行くんだけどね。現実はそうじゃない。彼を引き留めたのは、動物的な本能なのか、それとも人間としての倫理なのかは分からない。彼は、自分の娘を手にかけるようなことはしなかった。代わりに彼が取った行動は──」
渋谷瑠璃は、薄い胸に手を当てた。
「全く見ず知らずの女子中学生を──渋谷瑠璃という少女を犯した、だよ」
驚きが顔に出てしまったのか、彼女は含み笑いをした。渋谷瑠璃は、見知らぬ男に犯された──それが本当だとすれば、彼女はまぎれもなく被害者だ。話が見えなくなってしまう。あのビデオは、何だというんだろう。
「中学二年生の夏、私は男に犯された。学校から家に帰るところを、無理やり公衆トイレに押し込まれて。抵抗はしたけど、女子中学生が大人に敵うはずもない。泣き叫びながら、殴られて、縛られ、犯された。怖かった。痛かった。死んでしまうかと思った。どうして私がこんな目に合わないといけないんだろうって、そんなことばかり考えていた。その時の動画があったらよかったんだけど」
「……いいから」
渋谷瑠璃は、自分が辱めに遭った過去を、心地よさそうに語る。まるで舌の上で飴玉を転がすように。
あたしが苦々しい表情をするほど、彼女の笑みは深くなる。そう簡単に信じられるようなことじゃなかったけど、さっき見せられた動画が頭にこびりついて離れない。渋谷瑠璃が男に犯されることと、先輩だというあの動画は、なにか一本の糸でつながっている──そんな気がしてならない。
「男は私を犯したが、殺しはしなかった。こういうとき、泣き寝入りするケースっていうのも少なくないんだってね。でも、私はそうはしなかった。男はマスクをしていて、私には顔もわからなかったんだけど、この国の警察っていうのはよくできてるみたいで、一か月後に簡単に捕まった。もしかすると、私を犯したのは突発的な行動で、それゆえにすぐ足がつくようなお粗末な方法だったのかもしれない。
私は必ず復讐してやろうと思った。私と同じ苦しみを味わわせてやりたい。男を縛って爪を剥いだり、性器を切り刻んだりする想像を何度もした。でも、残念ながら、男は法律で定められた罰を受けてしまったんだ。その間、私は彼には手出しできない。日に日に男への憎しみが降り積もっていくばかりだった。
何か使える情報はないか、男のことを調べているときに、私は彼が父とほぼ同年代だということを知った。なら、子供がいてもおかしくない。私は、私を悲劇のヒロインに仕立て上げようとしている奴らを、逆に利用してやろうと考えた。親には『やめろ』と言われたけど、私は何度か彼女たちの取材を受けた。小銭稼ぎにもよかったし、そのたびに、男のことを教えてもらった。私には調べがつかないようなことも、彼女たちは知っている。ウィンウィンな関係ってやつだ。
そうやって、私は男の子供のことを知った。何の因果か、彼のひとり娘は、私と同い年だった。さっき話したことは、だいたい彼女たちから聞いたことだよ。妻との間に交わりがなかったってことも、その妻が不倫をしていて、男が捕まった瞬間に、娘を置いて別の男のところへ逃げてしまったってこともね」
いやな予感がした。この話がラプンツェルのお話で、しかもあの動画を見せられた以上、たった一つの結論にたどり着かざるを得ない。
「ご想像の通り。その娘こそが桜ヶ丘結奈だよ。身寄りをなくした彼女は、親戚にあたる片倉家に引き取られ、暮らしはじめたらしい。そこまで調べ上げた私は思いついた。あの男に復讐できなくても、娘の人生を無茶苦茶にしてやればいい。私は復讐のターゲットを、あの男から桜ヶ丘結奈に変えた。そっちの方が手っ取り早くて簡単だし、彼女には何の罪もない。男と何の関係もなかった私が犯されたことへの復讐としては、それがちょうどいいと思ったからね。
でも、問題も少なくなかった。復讐の内容は、言うまでもなく彼女に私と同じ屈辱を味わわせることだったけど、その計画にはどうしても男が必要だった。私は彼女を殴ることができても、犯すことはできない。それに、私を含めて、誰も捕まってはいけない。捕まるとわかっていて犯罪に手を染める人間なんて、頭のイカれた奴だけだ。皮肉なことに、私は桜ヶ丘結奈の父親と同じで、彼女が泣き寝入りするのを願っていたってわけ。
計画がうまく立たないまま、冬を迎えた。私は寒い中、何度か片倉の家に足を運んだ。何か計画に使えるものはないか、探すために。
そんなある日、片倉の家の近くで、制服の女の子に話しかけられた。あの時はびびったね。私の計画がダメになるんじゃないかって。その女の子からは、きつい百合の香りがした。きっと香水か何かだったんだろう。逃げようか、と迷いながらパニックになる私の腕をつかんで、彼女は言った。
『渋谷瑠璃ちゃんでしょ。私、片倉沙希。ちょっと話さない?』
片倉ってことは、この家の人間かもしれない。私は仕方なく、近くのカフェに連れていかれた。
『なんでうちの周りうろうろしてるの?』
彼女はホットコーヒー、私はアップルジュースを頼んだあと、にこにこしながら彼女は私に尋ねた。私はほとんど絶望した。名前を知ってたということは、私について少なからず調べられたということだ。とっくに私が桜ヶ丘結奈を狙っていることは知られているだろう。そうすれば、計画は台無しだ。もうごまかしても無駄だとは思ったけど、私はどう嘘をつこうか考えながら、口ごもった。
『私、瑠璃ちゃんが桜ヶ丘に何されたか知ってるよ。正直に言って。ね』
年上の女性にそんなふうに言われると、そのころの私には抵抗できなかった。いい嘘も思いつかなかったし、いままでの努力が水の泡になる音を聞きながら、私は片倉沙希に、計画のことを話した。ああ、もちろん、具体的な方法はふせてね。
コーヒーを傾けながら私の話にあいづちを打っていた片倉沙希は、話が終わるとカップをソーサーに置いた。
『ふーん。いいね。手伝ってあげよっか』
たしなめられて終わりだと思っていた私は、彼女のことばに耳を疑った。なんで、と訊くと、彼女は笑いながら言った。
『性犯罪者の家族を歓迎する人間がいると思う? 桜ヶ丘のおかげで、こっちまでいい迷惑なの。私もちょうど、むかついてたし』
桜ヶ丘結奈は、親戚の中で、私が想像していたよりはるかに厳しい立ち位置にいるみたいだった。ともあれ、彼女が私の味方についてくれるのは、思ってもみない幸運だった。桜ヶ丘結奈は、片倉沙希に弱みを握られている。片倉家という居場所を作ってもらっているという弱みをね。私は片倉沙希が男たちをけしかけて、桜ヶ丘結奈を犯すというシナリオを作った。そうすれば、誰も捕まらずに済むし、好き放題レイプでき、晴れて私の心も満たされる」
渋谷瑠璃は、まるで数学の問題を解いていくかのように、周到にその計画を仕上げていく。そこに同い年の少女への同情は感じられない。
彼女に自分と同じ屈辱や痛みを味わわせることが、彼女にとってはすでに目的になっていたんだ。
「片倉沙希には動画を撮って送ってもらうことにして、私は現場に立ち会わなくていいようにした。片倉沙希の言うことを全く信用しなかったわけじゃないけど、リスクが大きいからね。こうして、桜ヶ丘結奈をレイプする手はずが整った」
とても中学生の女の子が立てられる計画とは思えなかった。でも、彼女はやったんだろう。それほどまでに、彼女の復讐への意欲は大きかったのだ。
話の続きを聞きくのがいやになってくる。でも、まだ先輩がどうしてあたしの前から姿を消してしまったのかがわからない。それを知るまでは、耳をふさぐわけにはいかない。
渋谷瑠璃はあたしを組みしいたまま、先輩と渋谷瑠璃の過去の話を──ラプンツェルと魔女の話をつづけた。