030 美波奏乃 12
朝起きると、となりに先輩の姿はなかった。まるで、昨夜の出来事なんてなかったかのように、スカイブルーのシーツの上には彼女の痕跡も残っていなかった。寝起きのせいで、頭がうまく働かない。もしかしたら、あれは全部夢だったのかもしれない、とも思う。あるいは、先輩が正気を取り戻して恥ずかしくなり、あたしが寝ているうちに自分のベッドに帰ったか、だ。
はしごを伝って上から降りる。下のベッドを覗いても、彼女はいない。もう出て行っちゃったのか、と考えて、今日が星花祭の前日だということを思い出した。まだ朝の八時すぎだけど、忙しいところはもう準備を始めているのかもしれない。先輩のところもきっとそうなんだろう。それならそれで、ひとことくらいあってもいいような気もするけど、昨日の夜の先輩の状態だと、そういうことに気が回らなくても仕方がない。
星花祭の前日準備は、あたしだって他人事じゃない。今日は九時から、お化け屋敷の準備の続きをしないといけないのだ。
コンビニのクリームパンをもそもそ噛んで、学校に行く支度をする。制服に着替えてからコロンをつけようとすると、びんが見当たらない。昨日の寝る前、先輩につけてあげて、あたしもつけて──それから、どこへやったんだっけ。思い出せない。
洗面所とベッドの間を往復する。そう広くはない部屋なのに、どこにもない。
散らかっているわけでもないので、すぐに探す場所が尽きてしまう。テレビの上の掛け時計を見ると、集合時間が迫っていた。
何もつけないのも心もとなくて、先輩にもらったヴァーベナのハンドクリームを塗った。先輩のいないところでは使いたくないんだけど。
後ろ髪を引かれる思いで部屋を出る。一日の滑り出しとしては、幸先がいいとは言えない。先輩はいないし、コロンはなくすし。おまけにどんよりと曇った空のせいで、気分まで落ち込んでくるようだった。
***
教室の前の廊下の窓に、段ボールを貼り付ける。学校は休日とは思えないほどのにぎわいようだ。どのクラスも部活も人を駆り出しているせいで、ほとんど全校生徒が登校しているようにも思える。
作業を手伝いながら、コロンのゆくえについて考えていた。隠れていそうなところは探したし、カバンの中にもなかった。じゃあ、いったいどこに行ったんだろう。コロン自体は高いものでもないし、水色のびんもネットで簡単に手に入るから、買いなおそうと思えば買いなおせるんだけど……見つからないと、なんだかもやもやする。見つかるまで先輩がくれたハンドクリームを使いつづけるっていうのも、もったいないし。
先輩が、あたしに何も言わずに、部屋からいなくなっていたのも気になる。あたしを起こさないように配慮してくれたにしても、LINEに「学校行ってくるね」とか送っておいてくれてもよかったんじゃないかな。先輩、そういうのをおろそかにするタイプじゃないし。
こんなふうに考えるのは、朝起きた時にいなくて、いじけてるからなのかもしれないけど──。
みょうな胸騒ぎがする。
昨日の先輩は何だったんだろう。いくら星花祭が終わってしまうのがさみしいからって、先輩の方から布団に入ってくるなんて、にわかには信じがたい。
「──なの! 奏乃ってば!」
いきなり名前を大声で呼ばれて、びくっとする。汐音ちゃんの声だ。
「な、なに? そんな大きな声出さないでよ」
「何度も呼んだでしょ。何ぼーっとしてんのよ」
いつも以上にツンツンしている。もっとカルシウム摂って。
先輩とちがって、汐音ちゃんを怒らせてもいいことはないので、そういうことは言わない。それに、あたしがぼーっとしていたのは事実らしかった。さっきからずっと同じ段ボールを手に持ったままのような気がする。
「桜ヶ丘先輩のこと考えてたんでしょ」
「だったら、何?」
「いいですねー。あつあつで」
汐音ちゃんのくせに、あたしをいじってくるつもりらしい。そっちがそういうつもりなら、こっちにも準備がある。あたしは、聞いてしまったのだ。
「みんな聞いて! 汐音ちゃん、深夜の寮のお風呂で獅子倉──」
「わあああああああ!!なんであんたが知ってるのよ! そこ貼り終わったら、教室来なさいよ! 机組んで、通路作るんだって!」
用件を捨て台詞のように吐いて、汐音ちゃんは教室に帰っていった。勝った。でも、むなしい。こんな勝利に意味はない。
ため息をつく。廊下の窓から見える雲の緞帳は、明日の天候が不安になるくらいに重たげだった。
準備を終えて部屋に帰ったあとも、相変わらずコロンは見つからなかった。さらに悪いことに、晩ごはんの時間になっても先輩は帰ってこなかった。
なるべく一緒に食べるようにしてはいるけど、先輩が部活なんかで帰りが遅くなるときはひとりになることも珍しくない。でも、そういう時はLINEが来る。そういう決まりを作ったわけじゃないが、先輩はまめだから、必ず連絡してくれていた。
今日はメッセージも来ていなかった。ケータイを触る暇もないくらい忙しいのかもしれない。もしそうなら、夜まで帰ってこないなんてこともありえるかも。また朝、こちょこちょしてあげなくてはいけなくなってしまう。
カフェテリアでうどんを食べて、お風呂に入る。先輩に「遅くなるんですか?」とメッセージを送ったけど、返信が来るどころか既読もつかない。あたしが寝る時間になっても、515の部屋のドアが外側から開くことはなかった。
なんてことはないんだ、と思い込む。夏休みの初めの方にも、先輩が帰ってこないことがあった。その時は、翌朝起きたらとなりに寝てたから、大丈夫だ。
悪い想像をしないように布団をかぶった。この部屋で一人で寝るのは久しぶりで、静寂がうるさく感じるほどだった。