029 美波奏乃 11
そう言っていたのに、文化祭が近づくにつれて、先輩は元気を失っていくように見えた。まるで、星花祭にエネルギーを吸い取られているかのようだった。
平日の夜、寮の部屋で他愛のない話をするときも、彼女から、どことなく悄然としているような感じを受けてしまう。それをあたしに見せないようにするために、いつも通りをとりつくろっているような気がする。
星花祭が終わってしまうのが、そんなにさみしいんだろうか。夏休みと同じで、文化祭も先輩にとっては「高校最後」だ。受験をする高校三年生に、文化祭を楽しむ余裕があるとは思えない。先輩はクラスの企画にも部活の企画にも全力で取り組んでいて、あたしみたいな中途半端な関わり方しかしていない大方の生徒にはわからないさみしさをかんじているのかもしれないけど──それでも、そんなにしょんぼりすることないのに。
星花祭が週明けに迫った土曜日、あたしはクラスの準備に駆り出された。あたしたちのクラスの催しは、授業で使う教室でやるお化け屋敷だから、映画や劇とは違ってほとんどの準備を土日にやる必要がある。休日だから、ほんとうは先輩と部屋でゆっくりする予定だったんだけど、こればかりは仕方がない。星花祭の企画を成功させるためには、今日と明日くらい我慢しないと。
六時に解放されたあと、あたしはできるだけ早く部屋に帰った。心配だった。先輩は力なく、おかえり、とほほえんだ。
いつものカフェテリアで晩ごはんを食べた。先輩は、つめたいうどんをおいしそうにすすった。部屋でぼーっとしたあと、お風呂に入った。湯上りにヴァーベナのハンドクリームを塗った。
寝るまでの時間は、先輩とのんびりする。となりあって壁にもたれると、先輩がからだを寄せてくる。腕が触れそうになっている。
「ねえ、あれ、つけたい」
わがままなお姫さまのように、先輩は言った。あたしは家来になったような気持ちで、ベッドサイドの水色のびんを取りに行った。こないだと同じように、先輩の手首につける。うすく、うすく。先輩は、慣れた手つきで伸ばした。
「……奏乃ちゃんもつけて」
「えー。でも、あたし、ハンドクリームつけちゃいましたし……」
香りはあんまり混ぜないほうがいい。先輩もあたしがあのハンドクリームをつけているのは知ってるはずなのに、そんなことを言う。あたしが反対すると、先輩は泣きそうな顔をした。ほんとうに泣かれるんじゃないかと思って、どきっとする。そんな顔、ずるい。
「……わかりました。待っててください」
洗面所の蛇口をひねって、手を洗う。ハンドクリームの香りが落ちるくらいまで、両手をこすった。冷たい水で指紋がふやけていく。
あたし、何やってるんだろう。
先輩のわがままをきいている。あんな顔をされたら、あたしじゃなくても聞くにちがいない。
タオルで手を拭いてから、先輩のとなりに戻った。コロンをつける。いつものきんもくせいの匂いがした。これはこれで、あたしのお気に入りだ。落ち着くいつもの香り。
九時のニュースが終わって、そろそろ寝ましょうか、とあたしは言った。洗面台に立って歯を磨いた。九月になってから二段ベッドの上下を入れ替えたから、いまはあたしのベッドが上だ。寝ころぶと、はしごを上がってくる軽い足音がした。
「……先輩?」
間違えるはずがない。だって、先輩のベッドはもう下なんだから。先輩は何も言わないで、うつむき気味に視線をそらした。
「今日はこっちで寝るんですか?」
目を合わせないまま、あたしの言葉にうなづく。どういう気持ちの変化だろう。でも、一緒に寝てくれるなら、うれしいことに変わりはない。
「……ふたりでだったら、下にしませんか?」
上の方のベッドでふたりして寝たこともあるけど、そのとき、ベッドの脚からあんまりいい音がしなかったのを覚えている。それに、危ない。壁際のあたしはいいけど、先輩のほうは、落ちてしまったら大けがをするかもしれない。
「……こっちじゃだめ?」
また泣きそうな顔をする。ずるい。並べ立てていた理由が吹き飛んでしまう。先輩がそう言うなら、まあいいや。
あたしは壁際に寄って、先輩の分のスペースをあけた。
「……まくらは?」
デジャビュだ。一緒に使おうよ、って言われたらどうしよう。そんなに大きいやつは使ってない。
「……いらない」
先輩は何も持たないで、あたしの布団に潜り込んでくる。ベッドから、この前と同じような音が聞こえた。先輩とこうやって寝るのは、だいたい一か月ぶりだ。そのときとは、いろんなものごとが逆になっている。
リモコンで冷房の温度を下げる。まくらの右半分をあけると、先輩はひかえめに頭をのせた。鼻がぶつからないようにするために、あたしもぎりぎりだった。
電気を消す。目が慣れるまで、何も見えない。あたしが壁のほうを向いて寝ようとすると、音で気づいたのか、弱い力で肩を引かれる。そういうのは許してくれないらしい。
寝返りを打って、先輩にからだを向ける。顔は見えないけど、彼女の湿った吐息と、きんもくせいのにおいを感じる。先輩とありえないほど近くで向かい合っている。鼻の頭がむずむずした。
「まだ眠らないで」
「へ?」
「わたしが寝るまで、寝ちゃだめ」
渋ったりしたら、また泣きそうな顔をするんだろう。今日のあたしには拒否権がない。わかりました、と言うと、彼女は満足そうに息をつく。
腰のあたりに手を回される。先輩が、あたしに抱き着いている。からだがこわばる。なされるがままにするしかない。あたしはふだん抱き着くほうだから、抱き着かれるほうがこんなふうに主導権を奪われるなんて知らなかった。引きはがすことができない相手なら、こっちが圧倒的に不利だ。
そのまま、彼女はあたしの胸にひたいをくっつけて、うずめてくる。もう、近いとかそういうレベルじゃない。Tシャツをたった一枚を隔てたところに、先輩がいる。心臓の音とか、からだの中の音をぜんぶ聞かれていると思うと、ちょっと恥ずかしい。
……まくらいらないって、そういうこと?
「せ、先輩……どうしたんですか?」
たずねると、先輩はあたしの胸の間で首を振る。なんでもない、ってことらしい。ぜんぜんなんでもなくない。なんでもない先輩は、絶対こんなことしない。
でも、先輩がそういうなら、そういうことにしておかなきゃだめだ。
小さいからだを胸に抱く。姉妹みたいだ。あたしがお姉ちゃんで、先輩が妹。ずっと先輩とこういうことをしたかったのに、いざするとなると、恥ずかしさとかためらいが出てきてしまう。
「……星花祭、いっぱい楽しみましょうね」
ささやくと、彼女は小さくうなづく。みぞおちに高い体温を感じる。
「模擬店で高いもの買って食べたり、変な劇見て笑ったり、ライブで盛り上がったり、したいですね」
先輩の腕に力が入る。強く抱きしめられて、胸がつぶれた。
頭を撫でる。むくれるどころか、今日はそれを求められているような気さえした。長い髪を手で梳きながら、何度も撫でた。
やがて、彼女の手から力が抜けていく。起きたらどんな顔して話せばいいだろう。そんなことを考えながら、あたしはまぶたを閉じた。