027 美波奏乃 9
ローテーブルの向こう側で先輩があくびをする。だんだん間隔が短くなっている。もうだいぶおねむらしい。まだ十一時を過ぎたころなのに。
「眠いなら、付き合ってもらわなくてもいいですよー。あと、英語だけですし」
一番重たい数学も片づけたし、宿題は何とか今日中に終わりそうだ。朝から頑張れば一日でも終わるってわかったので、冬休みもまたサボってしまう気がする。
先輩に見てもらってたほうが気が抜けないし、あたしとしてもうれしいんだけど、夜更かしを強いて明日にひびくのは申し訳ない。あたしが提案すると、彼女はゆるく首を振った。
「ううん、起きてる。一人で勉強するの、さみしいでしょ」
「そんなことは……」
ない、とは言い切れない。無理に寝させて、先輩の厚意を無駄にするのもよくない。もっともらしい理由をつけて、それ以上は言わなかった。
宿題の終わりが見えて余裕が出てきたせいか、英語以外の余計なことが頭をよぎりはじめる。そういえば、あの花火大会のときに先輩が言っていた、夏休みにやり残したことってなんだったんだろう。あと数時間で夏休みも終わりだけど、もうやり終えたんだろうか。
「あの、先輩」
「んー?」
先輩が文庫本から顔を上げる。猫の刺繍の入った、桜色のブックカバー。
「夏休みにやり残したこと、終わりましたか? あの、花火大会の時に言ってたやつ」
あぁ、あれね、と普段の声音で言ってから、先輩はちらっと時計に目をやった。
「終わったよ」
「なんだったんですか?」
「宿題終わったら、教えてあげる」
あたしに宿題に集中させるためか、先輩はそんなことを言った。
***
八月三十一日が終わる数分前に、なんとか英語の宿題にピリオドを打った。
「終わったー!」
シャーペンを放り投げて、カーペットに倒れこむ。宿題が終わるのがこんなに気持ちいいことだとは。でももう二度と味わいたくない。
「おつかれさま」
「えへへ。ありがとうございます」
ねぎらいの言葉をかけてくれる。このままよく寝られそうだ、と思ったけど、明日からふつうに学校があるのだ。また、毎日朝の七時に起きなきゃいけない。
朝早いことだし、歯を磨いて寝よう。立ち上がると、あっ、と先輩が慌てたような声を出す。
「か、奏乃ちゃん! まだ寝ちゃだめだよ」
「え? なんでですか?」
実は、まだ宿題が残っている、とか……? 国語も数学も英語もちゃんとやった。読書感想文だって書いた。そんなことはないと思う。
「なんでって、それは……えっと」
先輩の目が泳ぐ。泳いだ先に、まるい壁掛け時計がある。もう少しで三つの針が重なりそうだった。先輩、今日はやけに時計を気にするような……。
「あとちょっとだから! とにかく、待って」
あの針が重なったら、何かが起こるらしい。必死な先輩に気おされて、またテーブルの前に座った。
ぼーっと二人して時計を眺めていると、金色の秒針が12の数字を通過する。それを見てから、先輩は立ち上がった。
「もういいんですか?」
「うん。もういいよ」
先輩はカギのかかった机の引き出しを開けて、白い袋を取り出した。放送部のひとからもらったお土産って言ってたやつだ。先輩はその袋の中から、ひとまわり小さい袋を取り出す。駅前の化粧品店の紙袋。
なんだろう、と思って眺めていると、先輩はあたしに差し出して、言った。
「奏乃ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「……へ?」
突然のことに驚いて、言葉を失う。今日は八月三十一日──じゃなくて、もう日付が変わったから、九月一日。あたしの誕生日。先輩に教えたつもりなんかなかったし、それよりも、昨日は宿題で手いっぱいで、自分の誕生日のこともすっかり忘れていた。
「今日、お誕生日だよね。これ、プレゼント」
「あ、ありがとう、ございます」
何とかそれだけ絞り出して、紙袋を受け取る。まだドキドキしている。呼吸を整えるために、何回か深呼吸した。
「開けてみてもいいですか?」
「うん、もちろん」
紙袋の中には、水色とピンクのラッピングがされた細長い箱と、リボンのついた小さな包みが入っていた。
箱の方から包み紙を取って、開ける。眠っていたのは、ハンドクリームだった。チューブの形をしたケースには、赤い花の絵が描かれている。
「めちゃめちゃ、うれしいですっ」
「ほ、ほんと? よかったー」
えへへ。先輩が笑う。
「それ、わたしが好きなにおいなの。奏乃ちゃんの好みに合わなかったら、ごめんね」
「先輩が好きなものなら、大丈夫ですよ」
本気でそう思った。きんもくせいのコロンはあたしのお気に入りだけど、先輩と一緒にいるときにつけるなら、先輩の好きな匂いのやつがいい。
「大切にします。先輩といるとき、いっぱい使いますね」
「ありがと」
あとこっちは、ともう一つの包みを手のひらに載せる。さっきのに比べるとかなり軽い。
「そっちはまあ、おまけみたいなものだから……」
リボンをほどくと、中にはたくさん一口サイズのクッキーが入っていた。バターとシナモンの甘い香りが鼻をくすぐって、思い出したように空腹を感じる。晩ごはんを食べたのが七時だから、ちょうどおなかがすいてくる頃合いだった。
「もしかして、手作り、とか……」
先輩ははにかみながらうなづく。
「一緒に食べませんか?」
「え、今?」
「一枚だけですから。あたし、おなかすきました」
「うー……。奏乃ちゃんがそう言うなら」
やった。
テーブルに小袋を広げる。
丸みをおびた正方形のクッキーをつまむ。焦げ目もでこぼこもない。手作りでこんなものができる先輩は、女子力が高い。いくつかは茶色い生地も織り交ぜてあるけど、これはプレーンかな。
邪波奏乃はささやかない。そのかわり、平常運転のあたしが先輩の口にクッキーを近づける。
「あーん」
「え、えぇ……」
先輩は困ったようにたじろいだ。でも、今日のあたしにはとっておきの武器がある。
「……特別な日、だけなんですよね」
「うっ」
花火大会の日が特別なら、あたしの誕生日くらい「あーん」をしてもらっても、ばちは当たらないはずだ。
「……でも、その四角いのは、特別なやつなの。だから、奏乃ちゃんに食べてほしいっていうか……」
「特別?」
ふーん。確かに包みの中には、あたしが手に持っているような四角いやつに加えて、いろんな形のクッキーがある。色と形で味が決まっているらしい。一見何の変哲もなさそうだけど、実はこれが特別なクッキーだという。
「じゃあこれは」
四角いクッキーを先輩に渡した。あたまに「?」を浮かべる先輩の前で、自分の唇を指さす。
「あ、そういうこと……」
先輩がおずおずと差し出してくる。
「あ、あーん」
彼女の指が触れたクッキーを口に含む。唇に柔らかい感触が触って、先輩はびくっと手を引っ込める。
クッキーが口の中で崩れていく。懐かしい甘さがした。溶けてなくなってしまった生地とは違う、ざらざらした感触が舌の上に残った。
「どう?」
「めっちゃおいしいです」
ふふ、と先輩がほほ笑む。
「きなこのクッキー、作るの初めてだったんだー」
特別っていうのは、きなこの味ってことらしい。先輩は、あたしがきなこを好きだってことをどこからかかぎつけてきて、わざわざきなこをまぶしたクッキーを焼いてくれたのだ。
あたしのいないところで先輩に情報を漏らした犯人……誰だろう。
指先についた粉をこすり落として、茶色がマーブル模様になったクッキーをつまむ。
「あーん」
約束通り、先輩の唇があたしの指からクッキーを奪っていく。
「ふふ。残りは、毎日の楽しみに取っておきますね」
すごく幸せな気分だった。こんなに幸せなことは、もうないような気さえしてしまう。
さて、そろそろ寝ないと、明日に差し支える。二学期最初の登校日は始業式だけとはいえ、遅刻をつけられることには変わりない。
クッキーの袋をたたんで、リボンを結びなおす。殺風景なあたしの机の上に、二ついろどりが加わる。
先輩に一緒に寝てもらおうかと思ったけど、それはやめておいた。こんなに幸せにしてもらって、さらに欲張るのはいけないと思ったし、もし幸せと不幸せにバランスがあるんだとしたら、天秤を傾けすぎるのはのちのち大変だ。
そんなことを考えながら、洗面所に並んで歯を磨く。
二段ベッドの下で薄い夏布団に肩まで潜って、部屋の電気を消したあと、真上から先輩の声が聞こえた。
「夏休みにやりたかったこと、これで全部おしまいだよ」
暗闇に視界が慣れるまで、何も見えない。上にいる先輩の顔が見えないなら一緒か、と思って目をつむる。
「よかったです」
「奏乃ちゃんも、全部できた?」
夏休みにやりたかったこと。旅行、読書、先輩と遊ぶこと。いろいろあったような気がする。でも。
「うふふ。なんかもう、どうでもよくなっちゃいました」
あたしが言うと、先輩の忍び笑いが聞こえる。
「どうでもよくなっちゃったかー」
「はい」
あたしも声をひそめて笑う。
暗闇に、二人分のひそひそした笑い声が響いた。
夏休みは今日でおしまいだ。あたしは、きっといままでで最高に楽しかったと思う。先輩は、どう思ってるかな。