026 美波奏乃 8
八月三十一日、夏休み最終日。515号室はいつになく静かだった。先輩が本のページをめくる音と、あたしのシャーペンがノートをひっかく音だけが聞こえる。
部屋には二人分の勉強机があるけど、今日は何となくローテーブルだった。……なんとなく。勉強中に先輩を視界に入れたいとか、そういうのでは、断じてない。
先輩はビーズクッションにからだを半分くらい埋めながら、レシピ本を眺めている。表紙はつやつやした肉じゃがの写真だ。机の上にピンクの付箋の束が置いてあって、たまにそこから一枚引っぺがして貼り付けたりもする。もしかすると今度作るのかもしれない。こないだ、料理できるって言ってたし。
先輩がちらっとこっちに視線を向けて、目が合う。そらしづらくなってしまう。
「わたしがいると、集中できない? どっか行こっか?」
「そんなことないです!」
というか、いてほしい。ひとりだと投げ出してしまう。
「ならいいけど……。進んでる?」
「半分は終わりました」
半分かぁ、と先輩が苦笑いする。
ほんとうは、まだ半分も終わっていない。ぶ厚く机の上に積まれた教科書や問題集があたしの心を何度もへし折ろうとしてくる。宿題の追い込みをしているというより、むしろ宿題に追い込まれているような気さえする。
「休憩、する?」
先輩は天使のような顔をして、悪魔みたいにささやく。今のおまえには休憩が必要だ、バッテリーが切れちゃう、と邪波奏乃の声が聞こえる。
今日もいいほうの奏乃は出てこない。なんでだろう。最近調子でも悪いのかな。
「しますー」
シャーペンをノートの上に転がして、足を崩す。伸びをして、その勢いのまま後ろにごろっと倒れた。白いシーリングライトがまぶしい。
「あーあ、先輩が夏休み中に思い出させてくれれば、こんなことには……」
「言ったよ!?」
そうだったかな。そう言われると、そんな気もしてくる。まあいいや。凝り固まった体をほぐそうとふらふら立ち上がって、先輩の近くに座ってみた。
「……奏乃ちゃん、何か飲みたくない?」
「なんで逃げようとするんですかー」
露骨に離れようとする先輩の手をひっつかんで引き戻す。うぐ、とうめき声が聞こえた。
「充電が必要だと思うんですよねー」
「う、うん、だから何かすっきりするもの飲む? それとも、甘いもの食べる? あ、こないだハーゲン買ったんだー。期間限定のやつ。甘夏とハチミツなんだって!」
まくし立てる先輩を見て、必死だな、と思う。
「うがー」
「わわっ」
後ろから抱きついて引き倒してみた。先輩の体重が、すべてあたしにかかる。軽い。それにやわらかい。それも、女の子のやわらかさじゃなくて、小さいこどものやわらかさ。
シャンプーの匂いが散る。おんなじシャンプーを使ってるから、どっちの匂いかはわからない。
「こうするだけですから」
「もー。約束だよ」
あたしも、先輩に嫌われたくて意地悪するわけじゃない。
耳をそばだてると、彼女の心臓の音が聞こえてくる。びっくりしたからか、すこし早めだ。
星空まつりのときも、こうして先輩を抱きしめたんだった。でも、あのときとは、何かが決定的に違うような気がする。
あの日から、たびたびそのことを考える。あたしにも、あのときどうして抱きついてしまったのか分からない。でもひとつだけ確かなのは、いつもみたいにじゃれついたんじゃなくて──気が付いたら、先輩が腕の中にいたってことだ。
「……奏乃ちゃん?」
急に押し黙ったあたしに、不思議そうな目を向けてくる。腕をほどくと、先輩は「もういいの?」と訊ねた。
「あたしには、やらなきゃいけないことがあるので」
そうだ。今のあたしには、そんなことよりも、もっと考えるべきことがる。かっこつけて言うと、先輩はふふっと笑った。
***
「むむむ……」
数学の問題集で手が止まる。
夏休みのともだちをこんなに頑張って終わらせようとするのは、小学生のとき以来だった。中学のときは、夏休みはあのふたりとほとんど毎日遊んでいた。宿題なんかやらなくてよかった。あたしとユキとミサは、たぶん先生にもあきらめられてたから、提出しろとも言われなかったし。あのふたり、今年も宿題なんてやってないんだろうなあ……。うらやましい。
星花はまじめな学校だから、先生もあきらめてくれない。しかも三年間勉強をさぼっていた代償がかなり大きい。数学なんかは、ちょっとひねられるともうダメになってしまう。
「お悩み? どれ?」
そんなあたしを見て、先輩がとなりに座った。パジャマ代わりにしているTシャツの袖が触れた。
問題集のまんなかのあたりを指さすと、先輩は問題文を読んで、ああ、と納得するような声を出す。
「えっと、これは……」
教えてくれようとして、言葉を途切る。それからあたしの目をのぞき込んで、いたずらっぽくほほ笑んだ。なんだか嫌な予感がした。
「奏乃ちゃんがわからないとこ、教えてあげよっか。わたし、奏乃ちゃんよりお姉ちゃんだから」
うぐ。
鈍い刃物を心臓の前に突き出されているような気持ちになる。先輩のほうから意地悪されるなんていつぶりだろう。それも、あたしのひそかな願望に──先輩のお姉ちゃんになりたいという思いに、けしかけるような形で。
先輩に教えてもらわないで自分で解決するのは、ちょっと無理がある。先輩に見られてしまった以上、わからないまま放っておくというのもなし。そうすると、もう先輩に教えてもらうしかなくなるわけだけど。
勉強に関して、先輩があたしよりも「お姉ちゃん」なのはまちがいない。先輩は高校二年生で、しかも頭がいい。
それでも、先輩がお姉ちゃんだって認めるのは……。
「意地悪ですね」
「ふふ。いつもの仕返し」
先輩は無邪気に笑う。
一回しか言わないですよ、と言うと、先輩が目を輝かせた。
「ねえ、この問題、教えて? おねえちゃん」
先輩が、見たこともないようなだらしない顔になる。めっちゃ喜んでる、ってことはわかった。そんなに喜ばれると、あたしも毒気を抜かれてしまう。先輩はにやにやしながら、しょーがないなー、ってつぶやいた。
「えっと、これはこの部分を別な文字で置いて……おっきいエックスとかね」
ノートの余白に、先輩のきれいな文字と上に開いたグラフが書き込まれていく。
「おっきいほうのエックスは最小がこれで、最大がこっち。あとは、ただの二次関数になって……」
数分もすると、あたしにも解けるような形の式になっていた。というかもうほとんど答えだった。
「で、これ解いたら答え出るから。エックスの範囲でしぼらなきゃだめだよ」
「なるほど……。よくわかりました」
ありがとうございます、と言おうとすると、先輩がもの欲しそうな目で見てくる。
「ありがと、おねえちゃん」
また、先輩が満面の笑みになった。