023 美波奏乃 6
夏休みもあと数日だけど、お祭りの日も、相変わらず暑かった。
空を見上げると、ほの白い月が浮かんでいた。夕日が落ちかけるくらいのころに、あたしと先輩は駅前を歩いた。星空まつりは空の宮ではかなり大きなお祭りらしく、あたしたちと同じような格好をした女の子たちがぶらぶらしているのをよく見かけた。
駅前の雑居ビルにある小さなお店で浴衣を着つけてもらった。先輩は白の地に紫の朝顔が染め抜かれたもの。あたしは、紺の地になんだかよくわからない薄桃色の花の模様がちいさくあしらわれているものを選んだ。足が痛くなるといけないから、下駄は借りないでサンダルにした。
「どう?」
そう言ってくるっと回って見せる。
「かわいいです」
先輩は、ふだん下ろしてる髪を編み込んでもらっていた。桜の枝を模したかんざしで、高いところに結われている。真っ白なうなじが見えて、いつもよりも大人っぽく感じる。
「ありがと。奏乃ちゃんは、美人さんだね」
空の宮中央から、海沿いを走る支線に乗って二駅目で降りる。海浜公園の最寄りはこじんまりした駅で、駅前には何もないに等しい。でも、今日はたくさんのひとが夏祭りに来ていた。
改札を抜け、人の流れに沿って、海岸のほうに引き寄せられるように歩く。
「奏乃ちゃん」
左手に先輩が指を絡ませてくる。先輩の手は小さくて、あたしよりもあたたかい。先輩はあたしの手を冷たく感じているはずだった。
やがて、赤く灯る提灯に彩られたお祭り会場が見えてくる。屋台が軒を連ねる公園が、夕やみの中に浮かび上がっていた。夏の終わりの一大イベントらしく、ひとの入りや喧噪もひときわだった。お互いの声もかき消されてしまいそうだ。
「すごいひとだね」
先輩が声を張り上げる。
「そうですねー。花火、七時からって書いてますけど」
こんな場所じゃ、ゆっくり花火を楽しめない。
「食べ物買って、どっか別な場所で見よっか」
うなづく。離れ離れにならないように、手はつないだまま。
公園をぐるぐる回りながら、お目当ての食べ物を買っていく。リンゴ飴、綿あめ、焼きそば、たこやき、牛串。
「……奏乃ちゃん、やっぱりよく食べるほうだよね」
「先輩は食べなさすぎですよー」
だからこんなにちっちゃいんですよ。あたまをぽんぽんするしぐさをすると、むー、とむくれた。かわいいから、つい意地悪してしまいたくなってしまう。
膨らんだ頬をつついてしぼめる。先輩の視線がお面の屋台のほうに向いているのを見て、寄ってみることにした。
「こういうお面、お祭りっぽいね」
白いきつねのお面を手にして、先輩が言う。黒と赤の隈がどことなく不気味だ。たしかに、お祭りっぽいといえばそうなのかもしれない。先輩は大して迷うこともせず、屋台のおじさんに小銭を渡す。ほかにもプリキュアとかピカチュウとかが売ってあったけど、せっかくなのであたしも同じものを買った。三百円。
うれしそうにきつねのお面を顔につける。先輩が、お稲荷様に……。ふざけているわけではないらしく、そのまま歩き始めようとする。おかしくてふき出すと、先輩はお面をかぶったまま首を傾げた。
「もー、そうじゃないですよ」
これ、持っててください。買った発泡スチロールのトレーを預けて、彼女のお面に手をかける。きつねを取ると、先輩の顔が少し赤くなっていた。お面の中は暑かったらしい。そんなかぶり方するから……。
結わえた髪に引っかからないようにゴムひもを通す。かんざしとは反対側にきつねの顔をかける。
「はい。完成です」
「ありがと」
あたしも、先輩とおそろいになるようにお面をつける。
「そろそろ場所、探しましょうか」
「そだねー」
買い込んだ食べ物が、両手に抱えきれないくらいになっていた。海浜公園を出て、海岸沿いを歩きながら、座れる場所を探す。日はほとんど落ち切っている。西の水平線だけが青白い。
砂浜へと続く階段に腰掛ける。堤防の陰になって、公園からは見えない場所だった。
海はお祭りの喧騒がうそのように、しんと静まり返っていた。提灯の明かりが水面をたよりなく照らしている。湿り気をはらんだ生ぬるい風が頬を撫でる。潮の香りがする。
船の形をしたたこ焼きのパックを開けて、爪楊枝を突き刺す。買ったときはあつあつだったけど、もう容器を持つ手のひらに感じる熱が弱くなっていた。
「食べますか?」
「じゃあ、一つだけ」
あーんしようとして、先輩はダメなんだっけ、と思い出す。
邪波奏乃が、でも、もしかしたら押し切れるかも、ってささやく。
…………。
良いほうの美波奏乃は寝てるみたいだった。
「……あーん」
迷ったけど、やってみた。先輩は一瞬目を伏せて、それから周りを見渡すような仕草をした。誰もあたしたちのほうを見ていないって確認するみたいに。
「…………」
先輩が食いついてくれる。一口でたこ焼きを食べて、爪楊枝の先っぽが先輩の唇に触れた。
あ然としてる間に、たこ焼きの船を取り落としそうになった。先輩のぷっくりした頬を見て、現実感が戻ってくる。
うれしい……!
邪波奏乃が、ほらね、と言っているのが聞こえる。ありがとう、邪波奏乃。
「今日は特別やから!」
夏祭りだからってことかな。先輩のあらわになった耳たぶとうなじが、ほんのり朱に染まっている。そんなに恥ずかしがることないのに。
「特別な日、だけやから」
それでも、うれしいものはうれしいし、にやけが止まらなかった。先輩に見られたら、また機嫌を損ねてしまうかもしれない。
たこ焼きを口に放り込んで、ざらざらした生地とソースの味をコーラで流し込む。船を空にして、次は甘いものを食べようと、マイメロの絵が描かれた綿あめの袋をちぎった。
「……いりますか?」
またひとくちだけ。
あたしが買った甘いものや塩からいものを、先輩はひとくちずつ食べた。おいしいとか、甘いとか、そういうことを言った。
浴衣の帯がきつくなる。買ったものをぜんぶおなかに収めたあと、ぼーっと夜の海を眺めた。湿った風が汗ばんだ肌を撫でるたび、ぞわぞわした。先輩があたしのあーんを受け入れてくれたことの、よろこびの余韻がまだ残っている。
「もうすぐだね」
そうですね、と言う前に、空気をつんざく甲高い音が聞こえた。あ、と先輩が声を上げる。音が途切れてから瞬きをすると、目を開いた時には夜空に花が咲いている。
ほとんど同時に心臓まで揺さぶられるような音が鳴り響く。潮風に乗って火薬のにおいが届く。火の粉が海に落ちて、それから炸裂音が幻だったみたいに、夜の海は静けさを取り戻す。
後を追うように、いくつかの小さな花が咲いて、しぼんでを繰りかえす。ぱん、ぱんと小気味の良い音と一緒に、いろんな形を見せる。
突然、夜空の端から端までを光で覆うような巨大な花火が上がった。それが合図だったかのように、轟音が海を揺らした。体の奥がじんじんする。濃紺の空が昼間のように明るくなって、狂ったみたいに彩られる。何百発というスターマインが続けざまに上がり、光を残しては消えていく。
強烈な音と光に、頭がくらくらした。火薬のにおいが鼻を突いた。
先輩は、どんな顔をしてるだろう。気になって、視線を彼女のほうにやった。
花火が打ちあがっているのに、吸い込まれるように目を離せなくなってしまう。彼女の瞳に、何条もの光の筋が行きかってる。彼女は、純粋な子供のようにも、世間知らずのお姫様のようにも見えた。花火に夢中で、あたしが見ていることには気づかない。
先輩のひまそうな右手に左手を重ねてから、名残惜しく感じながらも視線を引きはがす。
ひかえめに指を動かして、絡めてくれる。
夏の終わりに、先輩と過ごせてよかったと──あたしは、そんなふうに思った。