022 美波奏乃 5
机の上に置かれていた文庫本をなんとなく読み直していると、部屋のドアのカギがゆっくり開く音がした。先輩が帰ってきたみたいだ。
ドアを閉める音も、靴を脱ぐ音も聞こえない。なぜかこっそり入ってくるつもりらしい。おかえりなさいです、と言うと、玄関の方で慌てる気配がした。
ただいま、とあきらめるようにリビングにやってくる。
「……奏乃ちゃんも、おかえり。東京、楽しかった?」
いつも通りの会話を装いながらも、門限を破ったこどものように、目をそらしている。相当後ろめたく感じることがあるらしい。
ふーん……なるほど。お土産のお菓子が冷蔵庫に入ってるけど、渡すのはちょっと後になるかもしれない。江國香織の小説を閉じる。
「楽しかったですよー。でも、先輩が帰ってくるのを待つ方が楽しかったです」
「うぐっ……」
先輩が漫画のキャラクターみたいな声を出した。
「……さっき、なんでこっそり入ってきたんですか?」
「そ、それは……な、なんでだろう。わたし、そんなこっそりだったかな?」
目が泳ぎまくっていた。
先輩の手を引いて、小さい体を膝に乗せる。揚げものと甘ったるい果物のような匂いが混ざり合って、ブラウスに染み付いていた。ファストフード店の匂いだ。ワックかクーネルにでも行っていたのかな。
「何かやましいことでもあったんじゃないですかー?」
「ま、まさか。そんなんあるわけないやん」
無防備なわきに手を差し込む。先輩の体温は、いつでもあたしよりすこし高い。
「………」
そのまま、しばらく無言で待つと、先輩が覚悟を決めたように体の力を抜いて、背中を預けてくる。あたしも椅子の背もたれに寄りかかった。
「ごめん」
「なんで謝るんですか?」
「奏乃ちゃんが帰ってくるって知ってたのに、瑠璃ちゃんたちとクーネルに行ってたので……」
「それはいけませんねー。奏乃ちゃんもとても悲しんだと思います」
「だ、だよねー」
先輩のわきに入れた手を動かそうとすると、びくっと体を震わせる。おしおきはこちょこちょって決まってるのだ。
しかし、今日はちょっとした執行猶予をつけてみる。
「でも、あたしはやさしいので、先輩にチャンスをあげることにします」
ほんとに? とすがるような目で見つめてくる。かわいいけど、そんな顔してもあたしはごまかされない。先輩にはちゃんと課題をクリアしてもらわないと。
「……星空まつりって知ってますか?」
駅前で配っていたビラが、机の上に広げてある。濃紺の空に火の花が咲く写真と、「星空まつり」という筆文字。空の宮市が主催する花火大会のものだ。
「知ってるよー。海の方でやってるやつでしょ? 去年はみんな行ってたなー。わたしは人多いの苦手だから、パスだったけど」
「何か言いましたか?」
先輩は、はっ、と口をつぐむ。
「な、何でもないです! 今年は行きたいなー!」
「ですよね。実はあたし、まだ誰と行くか決めてないんです」
そっか、と先輩がうなづく。あたしがあげたチャンスの意味を分かってくれたらしい。
「……じゃあ、おうちでごろごろしてよっか」
「……ファイナルアンサー?」
わきわき。先輩が悶絶するまであと数秒。
「あー違います! 冗談です!」
「じゃあなんですか?」
「奏乃ちゃん、お祭り、一緒に行かない?」
わかってるんじゃん。
もういちど、ファイナルアンサー? と尋ねてみる。先輩は自信ありげに、ファイナルアンサー、と繰り返した。
「……まあ、いいでしょう」
先輩を膝の上から下ろして、彼女のわきであたたまった手を抜く。解放された先輩は、安心したように、ふぅ、とため息をついて、ローテーブルのそばに座った。クラゲのクッションがおしりでつぶれている。
「……ほんとにいやだったら、いいですよ。おうちでごろごろでも。こちょこちょも、しないですし」
先輩はくすくす笑った。
「いやじゃないよ。奏乃ちゃんとだもん」
「えー。なんですか、それ」
「ふふ。なんだろうね」