017 桜ヶ丘結奈12
「カーット!」
どこかで買ってきたのか、丸い帽子をかぶった莉亜ちゃんが、メガホンで左手をぽんぽんたたく。監督になりきっているらしい。メガホンは星花女子御用達の紫のやつだった。“SEIKA”というおしゃれなロゴが入っている。
「ゆなっち、すごいいい感じ!」
莉亜ちゃんが差し出してきたミネラルウォーターを受け取った。お昼の放送のおかげか、セリフを読むのはひとより得意だ。ちょっと鼻が高い。
「ありがと。莉亜ちゃんも監督さん似合ってるよ」
「ふっふっふ。監督と呼んでくれてもいいのだよ?」
「監督、おほめにあずかり光栄です!」
「えへへ。くるしゅーない、くるしゅーない」
監督というより莉亜殿だった。いいんちょが冷め切った瞳でこっちを見ている。あんまりふざけると、ふたりして怒られてしまう。
「……桜ヶ丘さんまで何バカなことやってるの」
莉亜ちゃんはいつもだけど、みたいな口ぶりだ。事実なので、ツッコミは入れない。
「次は大事なシーンよ。気を引き締めてね」
はーい、と莉亜ちゃんと声をそろえて返事する。そこで毒気を抜かれたように、いいんちょの頬がゆるんだ。
「じゃあ、今日は解散ね。おつかれさま。明日は王子さまとのシーンの読み合わせをするから、そのつもりで」
はーい。
おつかれさまー、と、監督さん、カメラさん、照明さんと順番にハイタッチする。最初は、わたしがお姫さま役なんて力不足じゃないかなあなんて思ってたけど、やってみると意外に楽しい。
撮影の後は、機材の片づけを手伝う。片づけは大道具さんたちの仕事だけど、早く帰ってもひまなだけだ。ほんとうはひとりで時間をかけてやりたいくらいだった。八時くらいまで。
奏乃ちゃんが東京に帰ってしまってから、明日で一週間。帰省は一週間くらいって言ってたから、そろそろ帰ってきてもいいころだ。でも、帰ってくるなら帰ってくるできっと連絡はあるはずだし、その連絡がないってことは、もしかしたらあと数日はあっちにいるつもりなのかもしれない。
大したものはないから、大勢でやると片付けはすぐに終わってしまう。まだ帰りたくないけど、いつまでも残っているわけにもいかない。ホールをあとにして、夕陽に照らされる校舎をとぼとぼ歩く。
新校舎を出てから、寮とは反対側、旧校舎のほうへ向かう。スリッパに履き替え、板張りの廊下をきしませる。
いくつかの教室から、楽しそうな声が漏れている。星花祭の出し物を用意しているんだろう。放送部の部室は新校舎のほうに移ったけど、多くの部活は、旧校舎の教室を部室として使っている。
階段を一つ上がって、まわりに誰もいないことを確認してから、非常階段のドアを開ける。心なしか急ぎ足で、さらにもう一つ階段を上がった。
屋上の扉のカギが壊れてから、旧校舎の三階は、ふつうの生徒は入っちゃダメってことになってる。わたしだってとくべつ許可を得たわけじゃない。だから、校則違反だ。見つかったらたぶんめちゃめちゃ怒られる。いままで見つかったことはないけど。
奥まった場所にある部屋の前にたどりつく。ほかの教室と違って、扉が分厚い。クマのキーホルダーをカバンから探し当てて、大きな音を立てないようにカギを開ける。
部屋にからだをすべりこませてから、ドアを閉めると、外の雑音が遠のいていく。自分の心臓の音が聞こえるほどになる。
ただでさえ小さい部屋の半分を放送用の設備がしめていて、余計に狭く感じる。
この部屋を知っている人は数人しかいない。いま、入れるのは、わたしと瑠璃ちゃんだけ。
もう使われていない、旧校舎の放送室。
桜花寮の部屋は、ひとりで過ごすには広すぎる。奏乃ちゃんがいなくなってから、わたしはたびたびここに来ていた。515号室にいると、奏乃ちゃんがいないってことが気になりすぎて、何にも集中できないから。
ここのカギは、放送部が代々受け継いでいる。ずっと前の放送部の先輩が、旧校舎から新校舎に放送室が移るとき、ここのカギをなくしたってことにして、ちゃっかり自分たちのものにしたらしい。先生たちには大目玉だっただろうけど、学校に秘密の場所を作りたいって気持ちもわからなくはない。
旧校舎はもう使われないから、カギの交換も後回しになってるんだろう。このカギが使えなくなるまでの間、秘密の場所にさせてもらっている。
まあ、秘密の場所だからって、何かいかがわしいことをするってこともなく、ただ宿題とか持ってきてやるくらいなんだけど。
宿題は、奏乃ちゃんが東京にいる間に終わらせてしまいたい。わたしが問題集を開いていると、奏乃ちゃんはなぜかちょっかいを出してくる。
無音の部屋で、シャーペンをかりかり動かす。今日の目標は、数学を終わらせること。
***
515号室に帰って、ベッドに寝転がる。晩ごはんとお風呂はもう済ませた。今日はあと、寝るだけのつもりだ。
奏乃ちゃんがここに来る前、わたしはここにひとりきりで生活していた。桜花寮は、原則としてふたり一部屋だけど、もうひとつの寮との兼ね合いや寮全体の人数の都合もあって、ひとり部屋になることもめずらしくない。去年の春、大阪から空の宮に越してきたばかりのわたしが、ちょうどそれだった。その時は、部屋にひとりでいることもなんてことなかった。
今はもう、奏乃ちゃんの寝息や、シーツのこすれる音が聞こえないと落ち着かなくなってしまっている。
そんなそわそわした気持ちで眠れるわけもなく、ベッドでごろごろして、ラプンツェルの台本を読んだり、ケータイを眺めたりした。
奏乃ちゃんからは、一度だけ電話が来たけど、それっきりだった。次連絡があるのは、たぶん帰ってくる日が決まったときだろう。わたしのほうから電話してみるのもちょっと考えたけど、からかわれるような気がして、やめた。せっかく先輩っぽくできたのに。
でも、奏乃ちゃんの声も、聞きたい。電話で奏乃ちゃんの悩みを聞いた日は、よく眠れたし。ほかに眠れる方法も……。
ほかに眠れる方法。
……ひとつだけ、ある気がする。
「うぅ……」
しかし、その方法は、あんまりよくはないというか……。
奏乃ちゃんにばれることは、ほぼないと思う。だけど、わたしの中の道徳心が、ダメだって全力で叫んでいる。それは、奏乃ちゃんに対する、重大な背信行為だ、って。
……でも、ばれないし。
「いやいや……」
ばれなきゃいいってものでもない。そういうのって、人としてどうかっていう話だよね。先生の見ていないところでも校則は破っちゃいけないし、警察のひとが見ていなくても、信号は守らなきゃ。
とはいえ──今日は校則違反をして旧校舎の三階に上がったし、赤信号も、時間ないときとかは無視しちゃうし。
時と場合によるんじゃないかな。わたしが眠れないというのは、一大事だ。明日寝坊したら、いいんちょにも莉亜ちゃんにも、王子さま役の子にも迷惑をかけてしまう。
それに、ほんとに眠れるかはわからない。一度だけ試してみるっていうのもありだ。
試してみるだけ。
二段ベッドの上から出て、はしごを降りる。下のベッドのかけ布団が、わたしを誘うようにめくれあがっている。
「……おじゃまします」
そーっと、潜り込んだ。スカイブルーのシーツは、ひんやりした感触がする。これが、CMでやってる冷感なんとかってやつかな。すごいいいやつな気がする……。
薄手のかけ布団を肩まではおり、水玉模様の枕に頭をあずける。
電気を消すと、真っ暗な部屋の中で、きんもくせいの香りに包まれる。
やっぱり、奏乃ちゃんの寝具には、奏乃ちゃんの匂いがついている。いつかみたいに、奏乃ちゃんに抱きつかれながら眠っているような錯覚に陥りそうになる。
ああ、神様……。いけないことをしているわたしを、どうかお許しください。わたしは、勝手に後輩のベッドに入りこんで、匂いを満喫しています……。
奏乃ちゃんの匂いの効果は抜群のようで、すぐに眠気がやってくる。とろけそうな脳で、ふだんは信じてもいないような神様にざんげした。