012 美波奏乃 1
数時間快速に揺られて、乗り換えで人ごみに揉まれ、今度は各停に揺られて、というのを経て、ようやく実家にたどり着いたころには、体は疲れ切っていた。夏休みの東京は、ただでさえ多い人口が五割増しな気がする。
少しうとうとしようと思って横になったけど、眠気は襲ってこなかった。昨日先輩と一緒に寝たおかげで、あたしまでよく眠れたのかもしれない。先輩は後ろからつかまえるのにちょうどいいサイズだと思う。こんなことを言ったらすねるから言わないけど。
先輩は、ちっちゃくてかわいい。いじりがいがある。それに、たぶん頭がいい。成績表を見たことがあるわけじゃないけど、真面目だし、部屋でもよく机に向かってノートと教科書を広げている。
でも……いや、だからなのかもしれないけど、先輩は、いつも考えすぎているふしがあると思う。
考えすぎて、的外れなことを言ったり、しちゃったりするんじゃないだろうか。
あの「ありがと」もきっとそうだ。先輩の考えたことくらい、想像がつく。あたしが先輩のために、一緒に寝ようって言いだしたとか、そういうことを思いめぐらせていたんだろう。
言い出したのはあたしだけど、あんなふうになるのはまったく予想外だった。いつもどおり、先輩を困らせようとして言ってみただけだ。あーんも嫌がるような先輩が、一度だけ間違いがあったとはいえ、一緒のベッドで寝てくれるとは思えない。
それなのに、「いいよ」なんて言ってくれた。先輩の思い込みの中にしかない、あたしの厚意ってやつを、むだにしたくなかったのかもしれない。大方そんなところかな。
一パーセントでもあたしを求めてくれてたんだとしたら、最高なんだけど。
自分に都合のいい想像だっていうのはわかっている。でも、あたしが帰省するって言ったときの、先輩の悲しそうな顔のことを思い出すと、あながち妄想ってわけでもないような。
最近の先輩がいつもと違うっていうのは、あたしも気づいていた。先輩の様子がおかしくなったのは、カフェであの女の人に会ってからだった。ユリの匂いがする女の人。学校では誰にでも人当たりがいい先輩が、あの女の人を一方的に嫌っているようにも見えた。
いったい、誰なんだろう。
あれ以降、先輩の口から彼女の話を聞くことはなかった。先輩の深刻な表情を見て、何回か尋ねてみようかとも思ったけど、声に出すことはできなかった。あたしにとって先輩は相談相手になるかもしれないけど、逆はそうじゃない。ルームメイトとはいえ──お姉ちゃんになりたいとはいえ、あたしは後輩だから。
それに、「なんでそんなこと聞くの」とか言われたら、立ち直れる自信がない。
机の上に置いた携帯が音を立てて震える。先輩とも一応LINEを交換してあるけど、ほとんど使ったことがない。授業の時以外はだいたい部屋にいるから、あんまり使う必要がない。
先輩かな、と期待したけど、裏切られる。ユキからだった。明日の集合場所と時間を書いたメッセージが、きらきらした絵文字で二倍ぐらいの長さになっている。
ユキとミサは、中学生のとき、一番仲が良い友達だった。よく三人でゲーセンやらカラオケやらで遅くまで遊んで、補導されては先生に怒られたものだ。
二人は都内の同じ高校に進んだ。頭はよくないけど、名門大学の付属で名の知れたところだ。留年しなければ、受験しないで大学まで行ける。あたしもそこにしようかと考えていたけど、なんとなく気が進まなかった。
ユキからのメッセージに、「OK!」というウサギのスタンプと、「たのしみ!」というネコのスタンプを押して返信する。ベッドから出たついでにお風呂も済ませてしまおう。
一階に降りても、家族とはすれ違わなかった。物音ひとつしないところを見ると、父さんも母さんもまだ職場らしい。
洗濯物をかごに放り込んで、湯船につかる。一人用のお風呂は久しぶりだ。こうやって静かに湯に身を沈めていると、疲れが溶け出していくような気がする。
うちの親は、放任主義ってやつなんだと思う。きっとユキやミサのところもそうだ。父さんは仕事人間で、まずほとんど家にいないし、母さんもあたしの生活に何か口を出したことはない。友達と遊んで遅く帰っても、怒るのは先生ばかりで、ふたりから怒られたことは一度もなかった。あたしに何も期待していないのかな、なんて思うこともあったけど、あれこれ指図されるよりよほどいい気もした。
あたしが電車で数時間かかるくらい離れた地方の高校に行きたい、そこで寮生活をしたいと言った時も、拍子抜けするくらいあっさり認めてくれた。
東京のことは嫌いじゃない。でも、なんだか見飽きてしまった。どこに行ってもコンクリートとアスファルトに覆われている。「閉塞感」ということばで表されるものを、中学生のあたしは感じていたのかもしれない。
高校生になるのは、東京を出るのにちょうどいい機会だった。かといって一人暮らしできるほどの器用さも持ち合わせていないので、寮のある高校を探さなくてはならなかった。星花女子は遠いことを除けば、あたしにとって最も都合がよかった。あたしの頭でも受かりそうだし、空の宮は海も山も近い小さな街だ。ユキたちに星花女子に行く理由を話したときは、「おばあさんみたい」って笑われたけど。誰がおばあさんだ。
……まあ、ユキに言われたことはちょっと的を射ているところもある。島本理生の新刊は発売日まで買えなくてうずうずするし、サイン会もないし、おなかいっぱい食べられるところも、東京ほどないし。
それでも、あたしは星花に入学したことを後悔してはいない。だって──。
お風呂から上がって髪を乾かしていると、ドレッサーに置いたスマホがまた震えた。どうせユキからスタンプが返ってきたとかだろう。
ドライヤーする手を休める。LINEを開いて、どきっとした。
先輩から、『東京ついた?』というメッセージと、「かな?」と首をかしげた白いクマのスタンプが送られてきている。
女子高生としてダメな声が出そうになって、反射的に口もとをおおう。先輩、こんなスタンプ使うんだ……。かわいすぎる。
『着きました』と送ってから、「かわいいですねー」と打って、紙飛行機のアイコンをタップしようとした。でも、少しためらって、親指が画面の上をさまよう。
先輩にかわいいって言うことくらい、なんでもない。でも、書いて送るのはちょっと違い、勇気が必要だった。顔が見えないと、先輩にどんなふうに思われるかわからない。
“スタンプ、”という五文字をたして、送った。
すぐに、『でしょー!』とうれしそうな返信と、また白いクマのスタンプが送られてきた。今度は、「どやっ」だった。
「──っ」
ずっとやり取りしていたくなってしまうけど、先輩がそう思ってるとも限らない。最近忙しそうだし。それに、あたしもこれ以上やると、先輩に何を言ってしまうかわからなかった。
あんまりかわいくない、ひよこのスタンプを返して、トークを切り上げる。ドライヤーをしまって、二階に上がってから、まだ髪が乾いてないことに気付く。
あたし、何やってんだ……。