010 桜ヶ丘結奈10
寮に帰るころには日が落ちかけていた。それでも昼の暑さの残り香がする。半そでのブラウスからあらわになった腕を、生暖かい風が撫でる。
いいんちょから体のあちこちにメジャーを巻かれ、若干テンションが下がったあと、魔女さんと最初のシーンの読み合わせをした。衣装が出来上がるまでの間、しばらくは練習期間だ。放送部の仕事は瑠璃ちゃんが引き受けてくれたから、わたしはラプンツェルに集中できる。帰ったらありがとってLINEしておこう。
いろんな食べ物の匂いと女の子たちの話し声が混ざり合うカフェテリアを通り過ぎ、エレベーターで五階の部屋に帰ると、奏乃ちゃんが旅支度をしているところだった。
「あ、おかえりなさいです」
「ただいまー。……そんなに荷物いるの?」
キャリーバッグがぱんぱんになるくらいいろいろ詰めてるところを見て、きいてみる。実家に帰るだけなら、そんなにいらないんじゃ……。
「先輩、東京来たことあります?」
「ないけど……」
「あそこは恐ろしいところですよー。これくらいの重装備が必要なんです」
「へ、へぇ……」
そういわれると何も反論できない。
「先輩、ここ、乗ってください!」
奏乃ちゃんがバッグの空いているところを指さす。奏乃ちゃんひとりの体重では閉まりきらないらしい。行きがこの様子なら、お土産とかで荷物が増えた帰りはどうするつもりなんだろう。
「そっちからも……あ、そうです」
荷物を押し込みながら、ファスナーを閉める。悪戦苦闘してようやく、ケースの口を閉じきることができた。
奏乃ちゃんがもたれてきて、ケースの上から落ちそうになる。少し疲れたので、座りなおして、わたしも奏乃ちゃんの背中に体重をあずけることにした。
「ありがとうございます。手伝ってくれて」
「別にいいよー。帰りが大変だね」
「そうかもですね」
奏乃ちゃんが笑う。なにか言うたび背中が小刻みに震えてこそばゆい。
「そろそろ晩ごはん、食べに行きますか?」
「……もうちょっとだけ、のんびりしたいかも」
いいですよー、と奏乃ちゃんは立ち上がって、ローテーブルの上にあるテレビのリモコンを取ってから、戻ってきた。またキャリーバッグの上に座る。一回立ったなら座布団に座ればいいのに……。
……でも、そういう野暮なことは言わないことにした。奏乃ちゃんの背中にもたれていると、落ち着く気もするし。当たり前だけど、奏乃ちゃんの背中は、わたしより広い。
「明日、いつ出ていくの?」
「朝の十時くらいです」
バラエティー番組のにぎやかな笑い声と一緒に、背中から答えが返ってくる。明日の練習は午後からだから、十時ならじゅうぶん間に合う。
「じゃあお見送りするね。駅までだけど」
「品川駅までですか?」
「空の宮中央だよ! 見送るどころかついていってるじゃん……」
「ついてきちゃってもいいんですよー。ひとりくらいなら泊まれます」
奏乃ちゃんは冗談でそう言ったんだと思う。
でも、わたしはそれを耳にするなり、口を開けなくなってしまった。
真に受けたわけじゃないのに、奏乃ちゃんと一緒に東京に行けたら、という思いが一瞬だけ胸をかすめる。
ひとりでこの部屋にいるのはちょっといやだ。いまよりも眠れなくなってしまう気がする。一緒に行けば、さみしい思いをしなくてもいい。それに、この前会ったあの女のことを──片倉沙希のことを、少しの間だけでも忘れられるんじゃないかって。
「……先輩?」
いきなり黙り込むわたしに、奏乃ちゃんが不思議そうにたずねる。
「……本気にするよ」
軽い調子で言おうとしたのに、あんまりうまくいかなかった。
「あたしは本気ですよ」
背中合わせだと、彼女がどんな顔をしているのかわからない。ただ、彼女の声には、ふざけるようなひびきはなかった。もしかすると、奏乃ちゃんもわたしとおなじような思いでいてくれているのかもしれない。真剣に考えてはいないけど、ほんの少しだけ、東京にわたしを連れて行こうか迷ってしまうような、そんな思いで。
けど、それは都合のいい想像だった。わたしにはラプンツェルという役目があるし、電車のお金だって用意しないといけない。奏乃ちゃんについていくのは、あんまり現実的じゃない。
とどこおりがちになった空気を、奏乃ちゃんが明るい声で振りはらう。
「そういえば、先輩、こないだあたしのベッドで寝たじゃないですか」
「え? まあ……」
そうだけど、その言い方だと、わたしがわざとそうしたみたいになってしまう。あれはまちがって奏乃ちゃんのベッドに入っちゃったのであって、決してわざとじゃないのだ。
「あたしも先輩のベッドで寝る権利があると思うんですよねー」
「ないよ!?」
「あります」
断言されてしまった。
「なので、今日その権利を使おうと思います」
「うー。横暴だ……」
不満の声を上げてみても、奏乃ちゃんは聞いてくれない。わたしのあやまちを盾に取られると、ダメとも言えない。
「……いやですか?」
……また、そういうことを言う。
あーんにくらべれば、一緒に寝るくらい大したことない……と、思う。知らずにしても、もうすでに一回寝ちゃってるし。
「……こちょこちょ、しない?」
「しません」
食い気味に答えられた。
「じゃあ、いいよ」
奏乃ちゃんが喜んでくれるなら、それで。
今日だけだからね、と付け加えようとしたけど、ふと思い立って、やめておいた。