001 桜ヶ丘結奈1
いつもと違う匂いがする。
わたしの匂いじゃない。
薄く目を開けると、奏乃ちゃんの寝顔がすごく近くにあった。鼻先が触れるくらい近く。彼女の安らかな吐息がわたしの頬にぶつかる。一人用の小さなベッドは、彼女のきんもくせいみたいな香りに包まれている。
びっくりしてのけぞった。その勢いでベッドボードに頭をぶつける。ごんっ、とくぐもった音がする。
「何やってるんですかー?」
その音で目を覚ましたのか、それともわたしが起きるまで寝たふりをしていたのか──奏乃ちゃんは、にやにやしながら尋ねてくる。わたしをからかう時の表情だ。
「な、なんでここで寝てるの? っていうか、起きてたの?」
頭がじんじんする。話の順番がめちゃくちゃだった。奏乃ちゃんの質問にも答えていない。
奏乃ちゃんがのんきにあくびをする。わたしもしそうになって、口をつぐむ。
「……二度寝してました。それに、先輩こそ、どうしてここで寝てるんですか?」
「え?」
だって、わたしのベッドだもん。二段ベッドの上が奏乃ちゃんで、下がわたし。
でも明るい部屋の中で見ると、違和感を覚える。わたしのベッドは、もっとピンクっぽい色合いだ。このベッドにあるようなスカイブルーのシーツとか、持ってない。
「あっ、えっ、うそ……」
「気づいちゃいましたかー?」
……そうだ。ひと月ごとに、二段ベッドの上下を入れ替える約束なんだった。上のほうは何かと危険が多いためだ。昨日が八月一日で、寝具も全部入れ替えたから、もうわたしのベッドは下じゃない。
昨日、夜遅くに帰ってきたのがいけなかった。奏乃ちゃんはもう寝てたみたいだったから、彼女を起こさないように常夜灯をつけて探り探りしていたら……ついいつものくせで下のベッドにもぐりこんでしまったらしい。
「先輩がいきなりあたしのベッドに入ってくるから、何事かと思いましたよ」
「き、気づいてたんなら言ってよ……」
ルームメイトが寝てたのに気づかないわたしもわたしだけど。
奏乃ちゃんは意地悪な笑みを浮かべたまま、わたしの肩のあたりに手を伸ばして、くるっと半回転させた。彼女よりも体格が劣るわたしは、簡単に彼女のされるがままになってしまう。
背を向けていると、後ろから彼女の手が伸びてきた。
「いいじゃないですか、一緒に寝るのも、たまには。暑くないでしょー?」
そりゃまあ、冷房かかってるし。
「奏乃ちゃんがいいなら、別にいいけど」
「じゃあいいですねー」
奏乃ちゃんの体は柔らかい。一つ年下なのに、わたしよりも、ずっと大人の女性に近い。だから、こんなことをしていると、まるで──
「ふふ。こうしてると、姉妹みたいですね」
思っていたことを当てられる。でも、あまり認めたくはない。わたしのほうがちっちゃいから、妹ってことになってしまう。
奏乃ちゃんの腕の間から抜け出そうとしたが、うまくいかない。
「あ、ちょっと奏乃ちゃん?」
奏乃ちゃんの手がわたしのわきのほうに近づいてきた。嫌な予感がして、抵抗してみる。やっぱりダメだ。足で押さえ込まれてしまった。
「こちょこちょー」
「か、奏乃ちゃん、やめて!」
「うりうりー」
「あははははっ、や、やめて、奏乃ちゃん!」
「ここがいいんですよね、ここが」
「あ、そこダメ! 奏乃ちゃん、やめてぇ!」
一分くらいくすぐられ続け、息が荒くなる。容赦ない。ひどい。わたしが半泣きで降参、降参と訴えると、奏乃ちゃんはようやく攻撃の手を休めてくれた。
「も、もう! おとなりさんに聞こえちゃうでしょ!」
「大丈夫ですよ、もうお昼だし。それに、先輩が声出さなかったらいいじゃないですか」
「うぅ、それはそうだけど……」
そう言われると言い返せない。
満足したのか、奏乃ちゃんの拘束が解かれる。わたしは呼吸を整えつつ、悪魔のベッドから這い出た。それから、少し急いで身支度をする。朝から心臓に悪いことばかりだ。明日からは絶対間違えないようにしよう。
「先輩、今日も部活ですか?」
「今日は部活じゃなくて、クラスのほうがあるの……」
ふーん、と奏乃ちゃんのあいづちが返ってくる。ちょっと残念そうだった。
せっかくの夏休みなのに、ルームメイトがずっと部屋を空けてたらさみしいし、暇だろう。わたしも奏乃ちゃんとの時間を大切にしたい。
「ごめんねー。あ、でも昨日みたいに遅くはならないよ。一緒に晩ごはん食べよう?」
制服のブラウスに袖を通しながら、朝ごはんと昼ごはんを兼ねたメロンパンを豆乳で流し込む。いくら昨日帰ってくるのが遅かったからとはいえ、お昼すぎまで寝てしまうとは思わなかった。学校の寮に住んでいなかったら遅刻確定だ。
そういえば、わたしがいないとき、奏乃ちゃんはひとりでごはん食べてるのかな。それはなんだか味気ないかも。同じ寮に住んでいる友達と一緒ならいいんだけど。
「先輩で……じゃなかった、先輩と遊ぶの楽しいのに」
「………う、うん?」
聞き間違いかな。うん、たぶんそうだ。奏乃ちゃんがそんなひどいこと思ってるはずがない。わたしで遊ぶなんて、まるでおもちゃみたいじゃないか。
「じゃあ早く帰ってきてくださいね。先輩がいないと、さみしいので」
「………」
なんだろう。普段なら、奏乃ちゃんにもかわいいところあるじゃん、とか思うのに、今は全然そう思えない。
てばやく身支度を済ませてローファーをつっかける。
「あ、あはは。じゃあ、行ってきまーす」
奏乃ちゃんに見送られて部屋を出る。まだ寮の中なのに、蒸し返るくらい暑い。
校舎までのたった数十メートルを、いつも以上に長く感じながら、すこし早足で歩いた。