7 手詰まり
エレナの母親が病気になった。
事業が不調だった時代に食うものも食わずに仕事をしていたのが響いたのか、母親はこのところあまり体調が良くなかったのだが、ついに倒れたのだという。アレンヤの出港から三か月ほどたった夏のことだった。
その年はいつになく暑さが激しかったこともあり、母親の病状は日ましに悪化した。エレナは看病のために屋敷からの外出を申請した。ところが許可は下りなかった。エレナは役人にくってかかった。
「どういうことだい! 親が死にそうになってるのに、会いに行くこともだめだっていうのか! ふざけるな!」
「僕も納得できませんね。政府というのは国民の幸福を実現するために存在するものだと思っていましたが」
オソもここぞとばかりに皮肉を言ったが、役人は動じなかった。
「エレナさんにはここで果たすべき務めがあるはずです」
「なんだって……?」
役人の言わんとするところを理解したのだろう、エレナの浅黒い顔は血の気が引いて青白くなった。ついにはふらりとよろけてオソを一瞬あわてさせたが、どうにか持ちこたえて椅子にすわりこんだ。
エレナがまだ一度もオソと床を共にしていないことを、役人はあげつらっているのだった。
それから五日後に母親は亡くなった。
さすがに葬儀への出席は認められ、エレナは屋敷の馬車に乗って出かけていった。オソは出席無用と政府から言い渡されたので屋敷に残った。エレナには四人の警官が監視役として同行した。オソが外出するときは二人なのだが、エレナが本気であばれたらそれではおさえきれないという判断であろうか。
エレナは予定の時刻よりだいぶ早く帰ってきた。ひどくしょげかえっており、まだ日が暮れてもいないのにベッドに倒れ込んで寝てしまった。働き者のエレナには異例のことだった。行き帰りの馭者を務めたのは屋敷で仕事をしている馬丁の爺さんだったので、オソはあとで葬儀の様子を聞いたのだが、それによると家族や親戚となにやら憂鬱なやりとりがあったらしい。
「わしはずっと駐車場におったから、話をぜんぶ聞いてたわけじゃねえが、ほれ、この馬車で行っただろう。こいつは見た目はずいぶん立派だからね。馬車から下りれば下りたで、まわりにゃ護衛の警官がずらりだ。ほかの人間の目にはどう見えたか、わからねえかね、旦那」
「なるほど、すごく偉そうに見えたってことか」
「そのとおり、まるで大臣かなんかみてえに見えたわけだよ。それで親戚連中は腹が立っておさまらなかったのさ。病気の母親はほったらかしで、自分ばっかりぜいたくな暮らしをしてたにちげえねえってね」
母親の看病ができなかったことはエレナももともと負い目に感じていたので、なおさらこたえたらしかった。
その夜、オソが儀式から帰ってきていつものように居間の床に横になると、エレナがしずしずと入ってきてオソのそばに身を横たえようとするので、オソははねおきて椅子のかげに退散した。
「待て待て、アレンヤのことはどうするんだ」
オソは機先を制したつもりだったが、これは悪手だった。エレナはその場にすわりこんではげしく泣き出した。
「あいつだって、あたしのせいで大学もやめてあんな自殺同然の航海なんかすることになったんだ! ほんとはもっとましなところに勤めるか、自分で事業をおこすにしてもずっと堅実にやれたはずだろう。あたしがあいつを殺したも同じだ」
そのとき窓から月の光が差し込んで、オソはエレナが下着姿であることに気づいてしまった。わるいことに、月の光はエレナを妙に色っぽく見せた。オソとて若い男であり、こうなると別の生きもののごとくむくむくと起き上がってくるものがあった。
エレナがふたたびにじり寄ってくる。オソははかない抵抗をこころみた。
「とにかく落ち着け。いまきみは気持ちが動転して早まった行動をとろうとしてるぞ」
「落ち着いたらこんなことできやしないから、いまやるんだ」
エレナは屁理屈をこねた。万力のような手がオソの腕をつかみ、引きずり寄せた。
「あたしは、自分に罰をあたえないと気がすまないんだ」
そう言って、エレナはオソを床の上に押し倒した。
このただ一度の夜をのぞいて、エレナがエレナでなくなったことはなかった。次の日からまた二人は冷淡な同志とでも言うべき落ち着いた関係に戻り、それ以上にも以下にもならなかった。
だがエレナは妊娠した。そして、あくる年の春に女の子が生まれた。
大方の予想と期待を裏切り、女の子の肌はほとんど生粋の白の民といっていいぐらい白かった。役人がオソとエレナの前で型どおりの祝いの言葉を述べたときには、赤ん坊が色黒でなくて内心がっかりしているのではないかとオソは思ったが、これはさすがに邪推だったかもしれない。エレナの家族は誰ひとり見舞いにも来なければ手紙もよこさなかった。
このころには、アレンヤが出航してから丸一年がたっていた。当初の予定であれば、すでに都に一度戻ってきて二回めの航海に出ている時期である。船に積み込んだ食糧や燃料はとっくに尽きたはずだが、どこかの土地に寄港なり漂着なりしたという消息はまったくなかった。もはやアレンヤの一行は海のもくずになったのだと考えるほかなかった。
ある日オソはエレナにたずねた。エレナは子供を抱いてあやしていた。
「もしアレンヤが帰ってきたら、きみはどうする?」
「どうもこうもないよ。あいつは死んだんだ」
「まだわからない」
エレナは困惑して、問い返した。
「あんたこそどうなんだい。あたしがこの子を連れてここを出て行っちまったら」
「できないよ、それは」
オソの答えに、エレナは目をまたたいた。
「え?」
「きみが出て行くことはできるとしても、その子は連れていけない。政府が認めないよ。その子は黒の民の跡継ぎなんだから」
エレナは子供をはなすまいとするかのようにぎゅっと抱きしめた。それでオソは、その続きを言うのをやめた。言ったところでどうなるというものでもなかった。その子は大きくなっても自由にどこかへ行くことは許されず、黒の指し手の後継者として過ごすことを強いられ、年ごろになるとどこからか適当な男が連れてこられて、その男の子供を産まされることになる、などとは。
これまでオソは自分一人のために儀式を終わらせようとしていた。いまでは、子供のためという理由も加わったのだ。
だが情勢は思わしくなかった。
一度、千年遊戯の存在意義について非常に懐疑的な新聞記者の取材を受けたことがあった。例によって記者と問答するあいだ役人がずっとオソの横に張りついていたので、言いたいこともろくに言えなかったが、鋭い質問がつぎつぎに飛び出してきて、オソはひそかにこの記者を応援した。だがどのような経過をたどったのか、結局その記事は紙面に載らなかった。
子供が生まれたときには、何千人ものまったく見も知らぬ人々からお祝いの手紙が届いた。そのほとんどは、これからも末永く儀式を守っていってください、といった内容で、読めば読むほどげんなりさせられた。手紙をくれた数千人は氷山の一角にすぎず、同じ考えを持っているがわざわざ手紙を出すことまではしなかった人々が数万人、もしかしたら数十万人もいるだろうということは想像にかたくない。オソにとっては、エレナの家族が子供の誕生を祝ってくれなかったことなどより、そちらのほうがこたえた。
政府ではときおり、儀式の維持のための費用を削減して国民の福祉に有用な施策にあてるべきだ、という議論が起こった。だが、いっそ儀式を廃止せよという意見はまったく出なかった。
店に入ったオソは、おどろいて立ち止まった。あまり急に立ち止まったものだから、後ろについてきていた警官があやうく背中にぶつかるところだった。奥から店主が声をかけた。
「いらっしゃいませ。おや、おひさしぶりです。お子様のご誕生、まことにおめでとう存じます」
「ありがとうございます」
オソはうわのそらで答えつつ、入口のわきにたたずんでいるものをまじまじと見た。そのただならぬ関心を見て取って、店主は説明した。
「先日、骨董の蒐集を趣味にしていたある金持ちが亡くなって、所蔵の品々が売りに出されましてね。そのなかにあったのを買い取ってきたのです。もちろん本物のはずはありませんが、なかなかよくできているでしょう」
オソの胸ぐらいの高さの、王冠と豊かなひげが印象的な男の彫像。黒い石でできているそれは、千年遊戯の黒の《王》の駒だった。まちがいなく、以前オソがアレンヤをそそのかして盗み出させたしろものである。アレンヤがその金持ちのところに持ち込んだのか、それともアレンヤから買い取った誰かがその金持ちに売りつけたのか、そのあたりの事情はオソの知るところではない。
値札が見当たらないので店主に聞いてみたところ、店の看板がわりにするつもりで買ってきたので、売るつもりはないとのこと。
「ですが、もしお望みでしたらお譲りしますよ。きっとこの駒も、黒の指し手どのに持ち主になっていただいたほうが嬉しいでしょう」
丁重にことわった。場所ふさぎだし、それにオソとしてはこんなものは身近に置いておきたくなかった。いまこの時も、おまえは永久に儀式からのがれられはしないのだ、と《王》から言い渡されているような気分なのだ。
「そういえば、白の指し手どのも先日いらしたときに、それをごらんになって苦笑いしておいででしたな」
白の指し手もさぞおどろいただろうと考えて、オソは少しだけ気持ちを晴らした。
いつものように本を何冊か買い、これまたいつものように「お時間がおありでしたら一局いかがですか」という店主の誘いに乗って遊戯の盤の前にしばらく腰を据えた。結果は快勝であった。初めて対局した時には苦戦した相手だが、いまではオソの腕はかなり上がっており、負ける気がしなかった。次の機会にはハンデをつけさせてもらいましょうと店主はぼやいた。
店を出ると、近くの路上で新聞の売り子が何やらどなりながら道行く人々に紙切れを配っていた。
「号外! 号外! 史上まれなる大事件だよ!」
何事だろうと思い、一部受け取る。見出しには大きく次のように印刷されていた。
――アレンヤ・ベルフレン氏新大陸発見し堂々の生還
立ったまま記事に目を通すオソの唇にはしだいに笑みがのぼってきた。やがてオソは新聞をていねいにたたむと、同行していた警官たちをうながして家路についた。