5 無勝負への道
聖地を擁するこの都は世界の中心であり、各地からいろいろな品物が入ってくる。東の最果ての土地からは香木や磁器、南の熱帯地方からは香辛料や宝石、北の辺境からは毛皮や石炭。あるいは船で、あるいは馬や駱駝で、あらゆる場所から運ばれてくるのである。もちろんそのほかにも穀物や野菜や果物、肉や魚、糸や布、木材、金属など多くの物資が、住民の生活を支えるために近隣の地域から日々運ばれている。
ある夜オソが儀式におもむくときに袖のなかにひそませたのは、そうした品のひとつだった。都から少し南に行った海沿いの地方で採れる、海綿という生きものの死骸である。
動物とも植物ともつかないこの奇妙な生きものは、海の底の岩などに生えてくる。その体は柔軟でありながら腰が強く、また水をよく吸う性質があり、食器などの道具類を洗うときに水を含ませてこするのに使われる。屋敷の台所にもひとつあったので、オソはそれを拝借してきた。
石舞台の前で進行役の役人が呼ばわる。
「本日は黒の手番でございます。よろしいですね」
オソはうなずいて、石舞台の上へのぼった。左手の袖の中では、海綿を軽くつかんでいる。
からりと晴れて星のあかるい夜だった。オソは自然な足どりを心がけて盤の上を歩いてゆく。白のいくつかの駒のそばを通りすぎて、自分の動かすべき黒の《ユニコーン》のところへ。その手前でほんのわずか足をゆるめ、左手の海綿をぎゅっと握った。ぽたぽたぽた、と液体がしたたりおちた。
オソは、盤上に入っているひびに酢をたらしたのだった。こんなもので大してひびをひろげることができるとも思えないが、強い酸などは手に入らないし、かりに入手できたとしても儀式に持ち込むのはむずかしいだろう。できる範囲でやってみるだけのこと。ひびが大きくなれば、巨大な石舞台も案外あっけなく真っ二つになったりするかもしれない。
二日後、つぎの黒の手番の夜にオソがそこを通ると、ひびはセメントの詰め物でふさがれていた。ちらりと振り返ると、白の指し手がきびしい目つきでオソの一挙手一投足を注視していた。
「まあ、もともとうまくいくとは思っていなかったさ」
こっそりつぶやいて、オソは黒の《ユニコーン》を動かしにかかった。
しろうとの一日遊戯の対局で、不届きな者は形勢が思わしくなくなると盤をくつがえして勝負をうやむやにしようとくわだてることがあるらしい。
オソはそれをやろうとしているのだった。
アレンヤがふたたび屋敷をおとずれたのは、二か月ほどたってからのことだった。そのあいだ一度も顔を出さないばかりか手紙すらよこさず、エレナはかなり気をもんでいた。いらいらするとささいなことでオソに当たり散らすので、オソとしてもアレンヤの動向は気にかかるところだった。こんながさつな女のどこがいいのやら、とオソはほとほとアレンヤに感じ入っている。エレナのことは無事アレンヤに引き取ってもらいたいし、そのためにもアレンヤにはがんばってもらわねばならない。
その日アレンヤは、白昼堂々オソの在宅中に訪れた。もちろん正式な訪問者として表門から入ってきたのではなく、例の塀の細工した場所からの不法侵入である。
ずうずうしくも居間の椅子に腰を落ち着けてお茶など飲みながら、アレンヤは近況を語った。
「大学を退学して、この二か月というもの資金集めに奔走してた。どうにか目標額の半分といったところさ」
「もしかして、エレナの親御さんの借金を肩代わりする気か?」
エレナがオソのところにいるのは、親の借金を政府がかわりに持ってくれる約束だからだ。逆に言えば、政府に頼らずに借金が返せるならエレナはいつでもここを出られるのである。
だがアレンヤは首を振った。
「最終的にはそうする。でも、親父さんたちの借金がおれの借金に衣替えするだけじゃ意味がないし、先も続かない。それに金額がでかくて、ちょっとやそっとじゃそもそも肩代わりできないんだ。おれが考えてるのはもう少し違うことだ」
「なんなんだよ。もったいをつけずにはっきりお言いよ」
エレナがせまったが、アレンヤは自信たっぷりな笑顔をうかべるだけだった。
「具体的なことはまだ秘密だ。まあ要するに、集めた金を元手にして事業をはじめる。うまく当たれば、借金を返しても十分なおつりがくるぐらいもうかるはずだ」
意気軒昂である。しかし、成人したかしないかという年ごろでそんなに簡単に大もうけをできるような話があるものだろうか? 金の鉱脈でも探すつもりか? オソとエレナはかさねて問いただしたが、アレンヤは答えなかった。
「それで、目標額とやらは集まりそうなのか?」
オソが違う角度からたずねると、アレンヤの威勢はいささかしぼんだ。
「むずかしいが、なに、集めてみせるさ」
オソはすこし考えてから言った。
「どのぐらいの額になるかはわからないが、少し危ない橋を渡るつもりがあるなら、心当たりがないこともない」
「なんだって?」
「千年遊戯の駒を盗み出して、売り飛ばすんだ」
あっけにとられているアレンヤに、オソは説明した。
千年遊戯の盤である石舞台の上には、黒二個、白六十二個の駒が残っている。そのほかにこれまで相手に取られて盤上から取り除かれた駒が数千個あるが、それは政府が厳重に保管しており、手が出せない。狙うのは盤上に残っているもののうち、黒の《王》と《ユニコーン》である。
「いいか、白はだめだ。手を出したら確実に罪に問われる。だけど黒のほうは黒の民の財産、つまり僕のものだ。僕が訴え出なければ罪に問われるおそれはない」
「いやいやいや、ちょっと待て。駒を盗んじまったら儀式ができなくなるだろう」
「そうだよ、儀式が続けられなくなったら世界が終わりになるっていう話じゃないか」
「二人ともそんなことを本気で信じてるのか? あんなのはただの迷信だ」
晴れた夏の日の昼さがりだというのに、アレンヤとエレナは腕に鳥肌を立てていた。
「いや、おれも迷信だとは思うけどよ。万が一もしかして本当だったらどうするんだよ」
「心配いらない。儀式ができなくても何も起こらない」
それは、一たす一は二であるというのと同じぐらいはっきりと揺るぎない口ぶりだった。その様子に、アレンヤはいたく好奇心を動かされたらしい。身を乗り出して聞いてきた。
「そこまで言い切るからには、なにか根拠があるんだろうな?」
「ある。千年遊戯はすでにいちど決着がついている。僕の母が指し手だったころに」
母親という言葉を聞いてオソが真っ先に思い浮かべるのは、酒のにおいである。母親は、オソが物心つくころにはすでに酒びたりだった。幼いオソの世話をしたのは政府から派遣されてきた乳母であり、母親は何ひとつしなかった。父親は黒の民の誰かだということだが、オソが生まれたときにはすでにこの世におらず、母親の口からも父親についての話が出たことはない。
十一歳のころのある夜、自分の部屋で寝ていたオソは突然母親に起こされた。母親は儀式から帰ってきたばかりで着替えもしていなかった。そして、べろんべろんに酔っぱらっていた。
「やっちまった、やっちまったぜ、あたしは。駒の動きを間違えちゃったんだ。これで世界は終わりだ。あーはははは、やったぜこのくそがきめ、ざまあみろだ」
母親は乱暴にオソをつねったりたたいたりなでくりまわしたりしながら支離滅裂な繰り言を垂れ流した。寝起きのぼんやりした頭でオソは辛抱づよく耳をかたむけ、やっとのことで何が起きたかを理解した。母親はその夜の儀式で、二ます動く駒である《ユニコーン》を間違えて三ます動かしてしまったのだ。つまり反則である。母親が酔っぱらって儀式に臨むのはいつものことだったが、この夜はいささかならず飲み過ぎており、そのせいでます目を数えまちがえたらしかった。
もちろん儀式を取り仕切る役人たちは事態をそのままにしてはおかなかった。母親はただちにやりなおしを命じられた。最初に指した手はなかったことにされ、記録にも残っていない。ほどなく母親は健康の悪化を理由に黒の指し手を辞任し、オソが後を継いだ。母親の体調は深酒のせいでとみに悪化しつつあったのだが、この件以降それに弾みがついた。母親は翌年病死した。
「もし本当に神々が儀式を見守っているのだとしたら、反則を見のがすわけがないし、待ったをかけてやりなおすなんて言語道断だ。世界は二回滅ぼされていてもおかしくなかったぐらいなんだ。そうならなかったということは、神々などいないか、いたとしても儀式ごときを理由に世界をどうこうするつもりはないんだろう。心配には及ばないよ」
アレンヤとエレナはしばらく無言だった。二人とも千年遊戯が終われば世界も終わるという能書きを心の底から信じてきたのではないにせよ、もしかしたらありうるかもしれない、ぐらいには思っていたのだろう。そこへ儀式の一方の立役者ともいうべき黒の指し手が儀式には何の意味もないと断言したのだから、これは相当な驚きにちがいない。
やがてアレンヤが口をひらいた。
「おれは儀式のことはよくわからないから、ここはまあ、専門家のオソさんの意見に従っておくよ。あんたが大丈夫だというなら大丈夫なんだろう。それに、駒を盗み出せば政府の連中を多少なりともあわてさせることもできるだろうし、やってみたいね」
しゃべっているうちに政府に対する怒りを思い出したらしく、アレンヤは不敵な表情である。
アレンヤのやる気を見て取って、オソはこまかい注意を与えた。駒は人の胸ぐらいの高さで、《王》は豊かなひげを生やし王冠と王笏をたずさえた男の姿、《ユニコーン》は額に一本の角の生えた馬の姿をかたどっている。石でできているので重いが、動かせないほどではない。現に指し手たちは毎晩引きずって動かしているのだ。人手を何人か都合すれば担ぎ上げて運ぶこともそう難しくはなかろう。
「森の中には道があるんだよな?」
「あるにはあるが、警備の兵士が入口に立ってる。そっちの道を使うのは無理だろう。だけど、道はじつはもうひとつある」
もともとこの森と石舞台は黒の民と白の民が共同で管理しており、森のはずれから石舞台までつづく参道は別々になっていた。毎晩の儀式の際には、黒の指し手と白の指し手はそれぞれ自分たちの参道を通って石舞台へと往復していたのである。だが、黒の民が滅亡同然となってからはそちらがわの参道は打ち捨てられ、黒の指し手は白の指し手と同じ参道を使うことになった。
「黒の民の参道はここ数十年は人の手も入っていないけれど、舗装の痕ぐらいは残っているだろうから、すくなくとも道に迷うおそれはない。ただ、森を出入りするところや駒を運んでいるところを見つかれば、さすがに現行犯でつかまるだろう。それは気をつけろよ」
「よし! それなら今夜儀式が終わったあとさっそくやっつけるか」
アレンヤの決断は早かった。そしてもうひとり。
「力仕事とくれば、あたしの出番だね!」
「えっ?」
オソとアレンヤはそろってエレナの顔を見た。エレナは力こぶをつくってみせて、やる気まんまんである。
「いや、エレナ。おまえはここにいて……」
「いやだね。これはもともとうちの親の借金から出た話じゃないか。あんたに危ないことをさせてあたしがのうのうと見てるのは理屈に合わないだろ。それに、事情を知ってる人間は少ないほうがいいだろうし」
いちいち正論なので、アレンヤもオソも言い返しようがなかった。
その夜、オソが儀式から帰ってくるとエレナの姿は屋敷の中になかった。
翌日、エレナは首尾についてひとことも言わなかったものの、オソの顔を見ると歯をむきだして意味ありげに笑ってみせた。
夜、オソが儀式に行くと、黒の駒は二つともそこにあった。だが、毎晩見ているオソの目には、それがよくできた偽物であることは明らかだった。まさか盗んだ駒のかわりにとアレンヤが置いて行ったわけではあるまい。儀式をつつがなく執りおこなうために、政府が盗みを隠蔽したのだ。
めずらしいことに、白の指し手が話しかけてきた。
「ゆうべここに賊が忍び込んだらしい。何も盗まれはしなかったが」
「そうなのですか」
「儀式に支障が出るようなことにならず、まことにさいわいだった」
オソは白の指し手の顔を見た。白の指し手もオソをじっと見つめ返した。その年ふりた顔からは何も読み取れないが、オソにははっきりとわかった。これが敵の一人だ。かびのはえた儀式をつづけ、そこにオソを縛りつけ、エレナを引きずり込み、これから何百何千年ものあいだはかりしれないほどの血と涙を石舞台の上にそそごうとしている連中の代表だ。
「盤面をおたしかめください。昨日より駒の位置に変わりはございませんか」
「ありません」
オソと白の指し手は声をそろえて答えた。