3 ある買物の話
エレナはあっというまに屋敷での暮らしになじんだ。もともと人懐こい性格だったらしく、屋敷の使用人や出入りの商人と仲良くなるまで三日とかからなかった。
オソの住む屋敷は都のはずれの森のそばにある。オソ一人が住むには、あるいはオソとエレナの二人が住むにしても大きすぎる家であり、ふだん使っていない部屋も多い。通いの家政婦が一人いて掃除や洗濯や料理をしていたが、おせじにも行き届いているとはいえなかった。
屋敷にやってきた次の日から、エレナは家具や備品の修繕をはじめた。エレナは意外にも手先が器用で、ものを直すのがうまかった。がたつく椅子、滑りの悪いカーテンレール、きっちり締まらない水道の栓などが、つぎつぎによみがえった。浴室のはがれかけたタイルを塗りなおした。外の煉瓦塀の崩れたところも積みなおし、漆喰を塗って美しく仕上げた。
「ほんとに働き者の奥様ですねえ。旦那様はよい人をおもらいになりましたよ」
家政婦の婆さんはオソにむかってそのように評した。旦那様というのはオソのことであり、奥様というのはエレナのことである。あの女傑を奥様呼ばわりされるとオソは背すじがぞっとするのだが、やめてくれと言っても聞いてもらえなかった。エレナがこの屋敷に来たのが政府のさしがねであることは、使用人にも知られているのである。
馬丁の爺さんの評価は婆さんとはすこし違った。屋敷には馬小屋と馬車の車庫があり、この爺さんは馬の世話をするために雇われている。馬と馬車はもちろん、毎晩オソが儀式に通うためのものだ。
「たしかによく働くがね、顔を見りゃわかる、ありゃとんだあばずれだよ。旦那、あいつからはくれぐれも目を離さんようにするこったね」
爺さんはある晩オソにそう耳打ちした。
エレナの働きぶりに比べると、オソはじつに何もしない暮らしをしていた。その一日はおおよそ以下のようなものである。
朝、日が高くなってから起き出す。世間ではとっくに仕事をはじめている時間だが、オソの場合は真夜中にお勤めがあるので朝が遅くなるのはやむをえない。
朝食とも昼食ともつかない食事をすませたあと、屋敷に毎日届けられる新聞を読む。世の中の動きを知りたいからというより、ほかにすることがないから読むというほうが真実に近い。ひまにまかせて気の向いた記事をつまみぐいするのがオソの流儀である。
新聞を読み終えるころには午後もなかばになっている。ここから夕食をはさんで夜遅くなるまでは日によってまちまちである。読書をすることが多いが、読む本は娯楽小説もあれば学術書もあるといった具合でとりとめがない。本を読みながら昼寝してしまうこともままある。
夜が更けると、支度をして儀式に出かける。オソの唯一の仕事であるが、さほど長い時間はかからない。帰ってきて寝る。以上。
なお、オソは自由に外出することができない。ほとんど滅亡したようなものとはいえ黒の民は白の民にとっては古くからの敵であり、オソの身分はいまだに捕虜という建前である。また、黒の民の最後の一人という立場上、不測の事態で死ぬようなことがあってはならない。そのため、外出する場合は事前に政府に行動予定を提出して許可をとったうえ、いざ出かけるときには監視と護衛のために警官が同伴することになっていた。これでは出不精になるのも当然というものである。
そんなわけで、その日オソが買物に出かけたのはきわめて珍しいことだった。エレナが屋敷で暮らすようになって一か月ほどたっていたが、そのあいだ毎晩の儀式のほかには一度として屋敷の敷地から出なかったオソなのだ。
エレナを屋敷に残し、警官二名に伴われて、オソは馬車で駅前の繁華街へ行った。衣類や本であれば手紙で注文を出して屋敷に届けてもらうのが常だったが、この日の買物は自分で店に出向いて品物をたしかめなければ気がすまなかった。遊戯の盤と駒である。
世の人々のあいだでは、儀式の遊戯から駒の種類と数を大幅に減らして簡単にしたものが娯楽として広く行われていた。八ますかける八ますの盤に敵味方それぞれ十六個の駒を用いるこの遊びは、もちろん儀式とは異なり一局の勝負に千年以上もかかることはない。世間では儀式の遊戯のことを千年遊戯、娯楽の遊戯のことを単に遊戯と呼び、特に区別する必要のある場合は一日遊戯という呼び名を用いている。実際には一日かけて指すことすらまれであり、労働者や学生が短い休み時間にあわただしく勝負を楽しむことも多い。
「いらっしゃいませ。おや、これはこれは」
その店は一日遊戯の用具の専門店であった。目抜き通りから一本入ったところに位置する落ち着いたたたずまいの建物で、入口の上にひかえめな看板が出ていなければ商店だとはわからないだろう。帳場にいた初老の男が、訪れたオソをひと目みて驚きの声をあげた。
「黒の指し手のかたですな。お噂はかねがね耳にしております。手前の店においでいただき光栄です」
「ど、どうも」
「それで、本日はどういったご用件でしょうか」
オソの用は、盤駒一式の新調であった。いま屋敷にひと組あるのだが、これは相当な年代物で盤も駒もあちこち傷んでおり、あまつさえ《兵》の駒を一個紛失してしまって指ぬきで代用しているありさまなのだ。そろそろ買い換えようと思っていたところ、折りよく新聞でこの店の広告を見たのである。
「なるほど、それでは黒の指し手どのにふさわしい品をご用意いたしますよ。こちらの駒はいかがでしょう。小粒ではありますが、すべての駒に宝石をはめこんでおりまして……」
「いえ、そういう豪華なのではなくて、ほどほどの値段のものをお願いします。なにしろ税金で養われている身分ですので」
「そうですか」
「ええ。それに、華美なものはもともとあまり好きではないもので」
すったもんだの末に、オソは無難中の無難ともいうべき盤と駒を選んだ。店主はいささか物足りなさそうな様子であったが、オソが新しい盤駒を見てにこにこしていると、さすがに機嫌をなおしたらしい。こんなことを言い出した。
「もしお時間がおありでしたら、その盤と駒で手前と一局指してゆかれませんか」
オソはきょとんとして店主を見る。店主はあわてて手を振った。
「いや、これは失礼。あまりに嬉しそうでいらしたものですから、つい無遠慮なことを申しました」
「いえ、失礼なんてことは……」
オソは壁の時計を見る。事前に申告した帰宅予定時間まではまだだいぶあった。となれば答えは決まっている。
「あの、それではお言葉に甘えて一局お願いできますか」
店のすみに置かれたテーブルで、オソは盤をはさんで店主と向かい合った。一日遊戯で人と対局するのはいつ以来だろうという感慨がつかのま胸をよぎったが、すぐに目の前の勝負に心を奪われてしまった。
千年遊戯の指し手のたしなみとして、オソはいちおう一日遊戯の心得もある。だが、対局の相手はいなかった。家政婦の婆さんも馬丁の爺さんもエレナも遊戯の指しかたを知らない。屋敷に出入りする役人や商人のなかには心得のあるものもいるかもしれないが、仕事中に勝負に付き合わせるわけにはゆかないだろう。
だからこれまでオソはもっぱら棋譜を並べるばかりであった。さいわい当節では新聞社が遊戯の王座決定戦を主催し、その棋譜を紙面に掲載しているので、並べるべき棋譜には不自由しない。だが、棋譜によっていかなる名手の対局を追ってみたところで、自分もだれかと戦いたいという渇望が満たされるわけではなかった。
オソが先手、白を持って、勝負がはじまった。《女王》の前の《兵》を無造作に二ます進めるオソ。店主はそれに応じて左の《騎士》を跳ねる。攻めるオソ、守る店主という図式で戦いは進行した。オソは左の《城》を《王》と入れ替えて中央に振り、《女王》と《騎士》を繰り出してごりごり押し込む。店主はきわめてしぶとく、一時は白の《騎士》一個を損害なしで捕獲するなど有利に進めたが、最後はオソの《女王》と《城》が黒の防御を食い破った。
「まいりました」とついに店主は言った。
「ありがとうございました」とオソも言った。
「よい勝負だった」と白の指し手が言った。
オソは飛び上がって振り向いた。そこにいるのは毎晩顔を合わせている男。儀式の時にはオソと同様に古色蒼然とした衣を着ているが、いまはすっきりとした三つ揃えの背広にステッキと帽子という現代的なかっこうだ。オソは驚きのあまりどもりながら聞く。
「い、いつからそこに?」
「君が《騎士》をただ取りされたところからだな。おぼえていないのかね? 私が声をかけたら、君もあいさつを返しただろう」
まったく記憶になかったが、店主ばかりか監視役の警官までうなずいているので、たぶん白の指し手の言うとおりなのだろう。オソは頭をさげた。
「何といいますか、その、うわのそらでたいへん失礼しました」
「いや、対局中に声をかけたのが不作法だった。こちらこそすまなかった。ところで」と白の指し手は店主にむかって、「右端の《兵》を進めたのは緩手ではなかったかね。あそこでは《僧正》を二段めに引いて白の《城》を絞り上げつつ自分の《女王》の利きを通したほうがよかっただろう」
「やはりそうでしたか。優勢になって気が緩みましたかねえ」
店主はどうやら白の指し手と親しい様子である。もしかすると白の指し手はこの店の常連客なのかもしれない。オソは急に居心地が悪くなってあたりを見回し、壁の時計に目をとめた。店主と一局指すあいだにけっこうな時間が過ぎていた。
「あの、すみません。そろそろ帰らないといけないので、会計をお願いしたいのですが」
店主は白の指し手を相手に感想戦をはじめようとしていたが、オソに言われてようやく仕事を思い出した。釣銭を取りに行く店主の背中を眺めていると、白の指し手が話しかけてきた。
「この店にはよく来るのかね」
「いえ、今日が初めてです」
「そうか。あの店主は無類の遊戯好きでな、よく客に勝負を持ちかけるのだ。私も何度か相手をした。一流とまでは言わぬが、なかなかの腕前だ」
店主をやぶったオソの腕を遠まわしにほめているのだろうか。白の指し手の意図がわからず、オソはいささか気味が悪かった。
「もし時間があれば、私も君と一局指してみたいところだった」
「白の指し手どのとは毎晩指しているではないですか」
オソは不愛想に答えた。白の指し手は苦笑いした。
「そうだったな」
店主が釣りを持って戻ってきたのをしおに二人は話をやめた。オソは購入した駒を箱におさめ、盤といっしょに腕に抱えて店を出た。
だいぶ昔、まだ黒の指し手の役目に就いていなかったころのことだが、オソは白の指し手から遊戯の指しかたを教わっていたことがある。
そのころオソのところには何人もの家庭教師が政府から派遣されてきて、さまざまな学科の授業をおこなっていた。政府としては次の代の黒の指し手に教育をあたえないわけにはゆかず、かといって一般の学校に通わせるのは何かと不都合が起こりそうだったために、このような措置になったのである。科目は文字の読み書きや初歩の算術から始まって、のちには代数、幾何、天文学、古典文学、地理、歴史、化学、神学といったもろもろの分野に及んだが、そのほかに特に指し手に必須の知識として千年遊戯に関する講義もあった。その講師が白の指し手である。
白の指し手はオソに千年遊戯の歴史、駒の動きやそのほかの規則について教えたのみならず、一日遊戯の指しかたも教授した。かびのはえたような千年遊戯の世界とはことなり、短い時間で千変万化する一日遊戯は幼いオソにとって楽しいものだった。オソはめきめきと腕を上げ、そして、白の指し手による指導は打ち切られた。
いまではオソにもわかっている。政府は黒の指し手が遊戯について無知であることを望まない。しかしながら、遊戯を知りすぎていることも望んでいないのだ。一日遊戯は千年遊戯と別のものであるとはいえ通じるところも多く、すぐれた一日遊戯の指し手は同時にすぐれた千年遊戯の指し手でもありうる。千年遊戯の盤上の形勢は、すでに黒の指し手がどれほど優れていようとひっくりかえすことができないほど傾いているのだが、政府は油断するつもりはないのだ。
帰宅して夕食をすませると、オソはさっそく買ったばかりの盤と駒をひろげた。今回並べる棋譜は、新聞に掲載されていた一日遊戯の王者決定戦の一局である。対局者は黒が防衛側の王者。対する白側の挑戦者はオソにもかかわりの深い人物、白の指し手だった。
一日遊戯は人気の高い競技であり、賞金の出る棋戦がいくつも開催されている。そして、その賞金で生計を立てている専業の指し手もいる。白の指し手はそのなかでも最も有力な者の一人だった。
オソは紙面に載せられた符号に従って駒を動かしてゆく。棋譜を追ううちに、いつしかオソは自分が黒を持って白の指し手と対局しているかのように感じていた。いや、それはもはや一日遊戯ではなかった。まわりを見ればそこは森のなかの聖地であり、オソは数千個の黒の駒をひきいて、同じく数千個の白の駒をひきいる白の指し手と、石舞台のこちらとあちらに分かれて向かい合っているのである。両者の号令一下、怒濤のごとく進撃する《兵》や《城》や《僧正》や《騎士》や《ユニコーン》や《ライオン》や《リバイアサン》や《フェニックス》や、そのほか今では盤上に残っていない駒の数々。石舞台の中央で激突し、討ち取ったり討ち取られたり、しばし戦局は拮抗していたが、やがて黒が押されはじめ、ついには黒の《王》であるオソのすぐそばにまで白の駒が肉薄して……
「ほれ、コーヒーいれてやったぜ」
エレナの声でオソはわれに返った。そこはもとどおりの自分の部屋で、目の前には棋譜を途中まで並べた盤がある。部屋の扉を足であけて入ってきたエレナは、盤の横にカップを置きながら聞いた。
「外でなんかあったのかい。妙にふさぎこんで」
「いや、とくになにも。コーヒーありがとう」
オソは礼を言ってカップに口をつけた。エレナとの関係は、さほど親しくない友人、といったあたりに落ち着いていた。相変わらずオソは居間の床で寝ており、おそらく政府もそのことを知っていると思われるが、さしあたり口を出すつもりはないようだ。
「そろそろ時間じゃないのかい。毎晩おつとめご苦労さまです」
言われて時計を見れば、たしかに夜もだいぶ更けていた。棋譜を並べはじめたときはまだ空が明るかったのだが、いつのまにかとっぷりと暗くなって、部屋の中を照らすのはランプの光である。記憶をたどると、途中で新聞の字が見えなくなってきたので明かりをつけたようなおぼえもある。
オソはひとつ息をついて気持ちを切り換えると、駒を箱に片付けた。