1 儀式
家並みを抜けてきた箱馬車が黒々とした夜の森のふちに止まる。白い肌をした役人たちが車から下りてきて、最後にただひとり黒い肌の少年が地面を踏んだ。身にまとった衣を見下ろして、少年はかすかにためいきをつく。それは袖と裾の長い、ゆったりとした絹の衣であり、赤や緑や金色の糸で神話の場面が縫い取りされていた。夜ごとの儀式の際に着られて千年にもなると言われるその布地は、汗と垢と黴と防虫剤の入りまじった複雑な悪臭をただよわせている。少年はこれをまとうたびに、牢獄かさもなければ棺桶の中にでも入れられる心地がするのだった。
役人の一人が手提げランプを手にして先頭に立ち、一行は木々の間に設けられたひとすじの砂利道を歩いてゆく。ほどなく目の前がひらけ、聖地が姿を現した。
聖地、それは森の中に横たわる巨大な一枚岩の石舞台である。高さは人の膝ぐらいだが、広さはこの上で騎馬武者の一団が模擬戦をできそうなほどあり、しかもほぼ完全に平らであった。
「このまましばしお待ちを」
役人が少年に告げる。少年は木々にふちどられた星空を見上げた。ほどよく暖かくて雨も風もない、過ごしやすい夜だった。待つのは苦にならないが、それでも少年は胸の底でののしる。ばかばかしい、と。
やがて砂利道を踏んで新たな一団が現れた。少年の側と同じように白い肌の役人が数人。その中から絢爛たる錦の衣をまとった白い肌、白い髪、白い髯の年配の男が進み出て、少年に軽く頭を下げた。
「お待たせいたした。黒の指し手どの」
「いえ」
少年も会釈した。黒の指し手とは少年の役目であり、一方相手の男は白の指し手の役目についていた。
「では、本日の儀式を始めます。指し手のかたがた、前へお進みください」
役人がおごそかに告げると、白の指し手は堂々とした足取りで石舞台の前に進んだ。それを横目に見ながら、少年も歩み出る。
「盤面をおたしかめください。昨日より駒の位置に変わりはございませんか」
「変わりありません」
少年は投げやりに即答したが、白の指し手は黙って石舞台の上を見わたしていた。石舞台には縦横それぞれ数百本の線が刻まれて無数のます目をつくっており、そのところどころに白や黒の石でできた像、つまり駒が置かれている。白の指し手はその配置が前日のとおりかどうか、逐一たしかめているのだった。まじめなことだ、と少年は内心で肩をすくめる。
しばらくして白の指し手が確認を終えると、役人は儀式を進行した。
「本日は黒の手番でございます。よろしいですね」
「はい」
少年はうなずき、石舞台の上にのぼってつかつかと一つの駒に歩み寄った。それは石舞台の上に二つしか残っていない黒い駒のうちの一つで、額の中央に一本の角の生えた馬をかたどっている。自分の胸ぐらいの高さのそれを、少年はずるずると引っぱって二ます動かした。役人が述べる。
「黒番、《ユニコーン》を三百四十九列の百六十段へ。本日の儀式は以上となります」
白の指し手の一行がきびすを返し、少年の一行もそれに続いた。砂利の道を踏みながら、少年は心のなかで吐き捨てる。くだらない、と。
病気や事故で早死にすることがなければ、少年はあと五十年ぐらいは生きるだろう。その長大な年月、毎夜毎夜この場に引き出されて石像をあちらへやったりこちらへ動かしたりするのをつづけなければならないのだ。
はるかな昔、神々は肌の白い人間と肌の黒い人間を作り出し、一枚の巨大な盤と白黒各数千個の駒を与えた。それから人々に駒の動きを教え、肌の白い人々と肌の黒い人々のあいだで毎夜一手ずつ指しすすめるように言いつけた。そして最後に、このように宣言した。
この遊戯が行われなくなったとき、世界は終わりを迎えるだろう。だが、この遊戯が続けられるかぎり、世界もいつまでも続いていくだろう。
人々は言いつけを守り、それから数千年にわたって毎夜欠かさず遊戯を指し継いだ。それは人々が神々から課された務めであり、決しておろそかにしてはならない神聖な儀式であった。長い年月のうちに人々は肌の色によって白の民と黒の民に分かれ、別々の土地に暮らすようになった。やがて二つの民のあいだには戦争も幾度となく起こった。それでも儀式だけは変わりなく続けられた。
百年ほど前に起こった最後の戦争で黒の民は大きく数を減らし、数十人しか生き残らなかった。白の民は黒の民の生き残りを保護し、儀式のために血筋を保存しようとした。だが、黒の民は減りつづけた。現在生き残っている黒の民は、ただ一人である。