5.初めてのお仕事
古くて寂れた大きな屋敷。壁には蔦がまとわり付いて、赤レンガの屋敷を緑に装飾している。広い庭には草が生い茂り、太陽の光をたっぷりと浴びた雑草達が、今日も元気にもぞもぞと動いている。……動いている。もぞもぞと。
ここは郊外。町外れ。街壁の外、道から逸れた森の近く。俺が受けた依頼の目的地である。
「えっと……お分かり頂けたでしょうか。これが、僕が依頼を出した原因でして……」
元気にのたうち回る植物を指差すのは、金髪の頼りなさそうな青年だ。俺より頭一つ分身長は高いが、その分俺よりもヒョロヒョロである。175cmくらいだろうか。なんというか、皮と骨! あとちょっとだけ肉! って感じだ。風が吹いたら飛びそう。
この青年が依頼人……らしい。いくつかの依頼の中からなんとか出来そうなものを選んだら、あのおっさんがこの青年を依頼人として紹介してきたのだ。お昼過ぎの時間なのにわざわざ付いてくるなんて、暇なんだろうか。仕事ないんだろうか。
「えーっと……とりあえずいろいろ試してみて良いですか。あと、一応今回の依頼について、あなたの口から詳しくお願いします。齟齬とか誤解があるといけないので」
「あ、はい、それはもちろん! というか本当に受けてくださるのですか!? ありがとうございます、これで祖父も安心して神の御身元へ逝けます!」
青年は俺の両手を強く握り、ぶんぶんと上下に振り回す。反動で頭まで揺れて気持ち悪いから止めてくれ。あとフィー、逃げるな。笑ってないで助けてくれ。
「いや、分かりましたけどまだ解決できるとは決まっていませんから……! あと、早く説明を」
「ああ、すみません! これはとんだ失礼を……」
青年は慌てて俺から手を離し、先程までの行動を誤魔化すためか、一つ咳ばらいをして話し始めた。
「ええと、では今回の依頼ですが、端的に言わせて頂くと"植物型"狂獣の駆除となります。数週間前、別荘代わりにしていたこの屋敷は、突如として涌き出た澱みの魔力により、このような化物の巣窟となってしまいました……。協会になんとかしてくれないかと泣き付いても、澱みが外に広がらないのなら放っておけとけんもほろろ。この話を聞いた祖父は、『こうしちゃおれん』と張り切って、自慢の屋敷を守るために無謀な戦いへ挑み……見事惨敗を喫してしまいました。おお、この老人を哀れとお思いならば、どうかこの屋敷をお救いください! あなたは神が私たちへ遣わした救世主なのです!」
……オーバーな人だ。話している間も身振り手振りを交えて実に感動的に喋っている。感動している聴衆は話し手自身だけのようだが。……いや、フィーも両手を組んでなんかなんとなく震えてるな。この話に感動する要素あったか?
「……まあ、最善は尽くします……」
消極的な俺の言葉に、青年は歓喜したように天を見上げうち震えた。ついでにフィーも手を掲げて天を仰いだ。さてはお前、真似してるだけだな?
「おお、ありがたい……! この出合いをもたらした神に大いなる感謝を捧げます!」
だからオーバーだって。最初の印象は、大人しい物静かな人って感じだったんだが。なんというか、騒がしい人だ。まあでも、おじいちゃんがこの雑草のせいで死んでしまったというなら、ここまで感情的になるのも分からなくもない。
「……そうですか。亡くなったお爺様もさぞお喜びでしょうね」
「いえ? 祖父はまだピンピンしてますが」
生きとるんかい。
†
狂獣というのは、澱み腐った魔力を吸収してしまった生物の総称である。エネルギーである魔力が腐るというのはちょっと意味が分からないが、魔導書にそう書いてあるからそうらしい、としか言えない。世界中を循環する魔力というエネルギー……いや物質なのか? の流れが留まり、流れず、長い間放っておかれると、まるで溜まった水が腐るように、魔力という奴も腐ってしまうらしい。
そして、その澱んで腐った魔力を、自浄しきれないほど多量に摂取してしまうと……生物として、狂ってしまう、らしい。
それは、例えば植物が獣のように振る舞う。例えば、獣が火を吹き空を飛ぶ。例えば……人が異常な膂力を発揮し、まともな思考を保てなくなる……その狂い方に規則性はなく、同じ生物が狂獣化しても、全く違う生物のようになってしまうんだとか。
また、その行動パターンもそれぞれ違うらしい。動くもの全てに襲いかかるものもあれば、一切動かず石のようになってしまうものもある。まさしく謎、不思議、奇々怪々である。
つまり、何が言いたいかというと。
「火が効かねぇ……」
仮にも植物を名乗っているんだから、燃やされれば灰になるべきではないか、とルビーを握りながら思う。宝石魔術・紅玉。詠唱も省略、血も使わない、名前すらついてない魔術……と呼べるかも怪しい手段だが、マッチ代わりにはなる。
目の前にはびったんびたん悶える雑草ども。この植物だかなんだか分からない奴らは、せっかく火を点けても叩き合ってのたうち回り消し止めてしまうのだ。
「んー……油でも撒いて、大規模に放火するか……?」
どこもかしこも燃えた状態にすれば、多少こいつらが叩き合ったりしてもキッチリ燃やせるかもしれない。油の入手方法や火の始末、屋敷の保護なんかはちょっと考えなきゃいけないが。
「除草剤で枯らすのもアリかもしんないな」
そうだな、一回、持ち物を全部出していろいろと検証してみよう。正門でも確認した(させられた)が、直に見て、じっくりと考えてみれば何か思いつくかもしれない。そうと決めた俺は、早速ポケットの中身を地面にぶちまける事にした。と、その前に。
「フィー、なんか人が来たら教えてくれ」
了解! と敬礼をし、飛んでいくフィー。楽しそうで何よりだな。……敬礼の文化ってこっちにあるのか? まあ良いか。取り敢えず、依頼人はもう帰ったので、俺の手札というか手の内というかがバレる心配はない。マジで何しに来たんだろうなあの人。いや、目的地の案内はしてもらった訳だが……
そんなこんなで、ポケットの中身を全て地面に出してみる。ランプと魔導書はベルトに紐で括り付けてるから、それ以外の細々した物だな。えー、大雑把に纏めると……おお、調度良い。メモ代わりになる白紙があるから、それに書き付けよう。チョークもあるしな。
というわけで、こんな感じだろうか。まあいちいち内容を覚えておく必要は無さそうだが。使う時に確認だけすれば良いし。
・宝石類
ルビー(大2、小1)
黒水晶(大1)
エメラルド(大1、小1)
アメジスト(大3)
水晶(大4、小5、状態に難があるものアリ)
トルマリン(小2)
・道具系
ボロボロのチョーク5本
滲んだ魔法陣カード18枚
しわしわの白い紙8枚
ナイフ1本
・素材
小瓶入りの妖精の粉2本
一角魚の角1本
サラマンダーの鱗4枚
バイコーンの尾の毛1束
山羊の胃石2個
幽霊の骨3本
川底の睡蓮1つ
・薬
群青花の万能傷薬1瓶。
うむ、こんなとこだろう。宝石の目利きなんか一切できないから、値段やら品質やらは分からないが、魔力を通せば種類だけは確認できる。
この世界における宝石という物は、魔力を通すとそれぞれ、ルビーなら熱及び炎、黒水晶なら光を吸収する霧、エメラルドなら風、アメジストなら念力(運動エネルギー?)、水晶なら光、トルマリンなら電気、を放出する。原理は謎だ。例えば、サファイアは冷気を放出するらしいが、サファイアという鉱物の成分はほぼルビーと同じだった筈だ。なぜ魔力を変換して出すものが変わるのか……謎だな! そのうち調べよう。
まあそれは良い。ちょっとくらい念力を出そうが電気を出そうがこの植物どもはピンピンしてるんだから。重要なのは毒殺と放火のどっちが簡単そうかという話だ。正直どっちも厳しいものがあるんだが……待てよ? 人海戦術という手段はどうだろう。悪魔海戦術になるが。
うむ、これは天才的な発想では? 魔法陣を描くためのチョークはあるし、紙もまあ……あるし、紙が使えなくても地面に描けば良い。低級悪魔なら数も呼べるし、供物も大して必要ない……って、供物なきゃダメじゃん。手持ちに調度良さそうなのは無いしなぁ。買いに行くしかないか。ここ、港町だし、いろいろ売ってるだろう。
悪魔に任せるなら食べ物や動物の死骸といった供物。放火して大炎上させるなら油と屋敷を守るための魔術の道具。除草剤で枯らすなら薬の材料。これらがあれば良いだろう。んー……そろそろ夕方だし、今日は買い物だけして、いろんな検証は明日の朝にやれば良いか。
というわけで。
「オッケー、フィー。もう終わるから、警戒解いて良いぞ。ありがとなー」
再び荷物をしまい、ついでに植物の狂獣を根っこごと引き千切って持っていく。おーおー暴れる暴れる。活きの良い魚みたいだ。あとで調べてみなくちゃな。薬とか効くのか。あと燃えるのか。まあ素手で千切れるくらいの丈夫さだし、人海戦術でもよさそうだが……取り敢えずいろいろ試してみよう。
†
「……うーん……市販の除草剤はやっぱ効かないか……」
生きの良い雑草をポケットに押し込んだ俺は、少しばかり買い物をした後、宿の裏庭、そこそこ広いスペースを借りて実験をしていた。本来は大きな袋で売っている除草剤だが、薬屋の店主に『この除草剤が自分の家に生えた雑草に効くか分からないので少しだけ売ってほしい(意訳)』というような事を懇切丁寧に語ったら通常よりも少ない量で売ってくれたのだ。なんとも融通が利いて嬉しい限りである。現実世界でやったら間違いなくクレーマーだが。
「まあ良いや。薬が効くかどうか確かめるのはそもそもの目的じゃないし」
そうひとりごちた後、未だにびちびちと動く草を捕まえ、切り株の上に乗せて容赦なく解剖する。……うん? いや、普通の植物になんて詳しくないからなんとも言えないが……これは……筋肉、か? うーん? ダメださっぱり分からん。魔力通してみたらどうなるかなっと……おお、動いた。痙攣してるな。蛙の筋肉に電気流して動かすのと同じ感じなんだろうか。
……これは、澱んだ魔力が物理的に肉体を改変しているという事で良いんだろうか。いや変異前と比べないと分かんないか。なんか変な器官も出来てる? よな。なんだこれ。……ああ、なるほどここで魔力を澱ませて? ふんふん。……通常の魔力をエネルギーには出来ないからここでわざわざ腐らせて使ってるのか? いやそんな事ないか。さっき魔力流した時、普通に筋肉っぽいのが動いてたし。
「……さっぱり分からん!」
駄目だな。全然分からない。生物の構造なんか知らんわ。解剖なりなんなりして、あわよくば澱んだ魔力の影響を少しなりとも知れれば良いなと思ってやってみたが……無意味だったな。少なくとも今の俺には。
最後に、ルビーを取り出して植物にくっつけ、適当に魔力を流す。大規模な魔術なら血を使った方が効率良いが、マッチ程度の火だからな。……よし、燃えてる。しばらく観察していれば、やがてこの植物も灰になった。延焼しないように土をかけて消火し、地面に埋める。澱んだ魔力も、正常に流れている魔力の中に置いておけば数日で戻るらしいし、千切ってきた分は焼却処理して埋めるんで構わないだろう。
「……今日はこれくらいにしとくか」
ちゃんと燃える、という事が分かっただけでも収穫としておくべきか。もう夕方だし、夕食でも食べて寝よう。
†
翌日。眩し過ぎる日の出に起こされた俺は、銅貨2枚でパンとイモのスープをかっこみ、朝の市場へ向かった。悪魔召喚の供物を用意するためである。宿屋の人に教えて貰った、この街の人間が使うちょっと安めの商店で、まだ血抜きもしていない新鮮な魚を買う。安いと言っても食材だから、銀貨1枚では3、4匹くらいしか買えなかったが。昨日の夕食に銅貨2枚、今日の朝食に銅貨2枚、そして今銀貨を1枚使ったので、もう素寒貧である。宝石を換金すればまだなんとかなるが、明日も明後日も同じメニューの侘しい食事をフィーと分け合ってすするのは遠慮したいところだ。
更にその足で冒険者の宿に行き、スコップやナイフなどを持てるだけ貸してもらう。俺に依頼を紹介したおっさんは、大量の道具を入れた箱をこちらに渡しながら、半笑いで『まあ、せいぜい頑張れよ(笑)』などと抜かしていた。確かに俺は道具類の重さによろめいていたし、笑われる程度には頼りなく見えたかもしれないが、それはそれとして今度なにか悪質で致命的なイタズラを仕掛けてやろうと思う。
そんなこんなで、屋敷の前。朝日は明るく緑を照らし、辺りに人気は見受けられない。森を背にしたレンガの屋敷は寂しくも壮麗で、自然に侵された文明に特有の奇妙な美しさを持っていた。
「さて……一丁やってやりますか」
自分を励ますように呟き、地面に紙を敷く。そして皮袋に入った小魚を取り出すと、おもむろにその頭へナイフを突き刺し、どくどくと溢れる血を皮袋の中に注いだ。血抜きした魚は適当に後ろへ放る。ナイフを血に浸し、ペンのようにして、紙へと二重の真円を描く。
目を閉じ、道具を置いて、右手を自分の胸に当てた。心臓が脈打つのを感じ、熱い熱い血液が身体中を巡っているのを感じ、その熱量の中に、冷たく透き通ったエネルギーを感じた。
血流に乗り、喉元に込み上げてくる魔力を声帯に留める。一拍置いて、溜めたそれを空気に震わせ彼等の言葉を歌い呼ぶ。
「──『開け』」
空間が振動し、空気が変わった。俺はすかさず皮袋を手繰り寄せ、入っていた血を全て魔法陣に注ぐ。注がれた血は流れるそばから溶けて消え、一滴の染みも残さず無くなった。
ここまでは順調だ。そして、ここからが重要だ。俺はもう一度魔力を練り上げる。
「『神の敵対者、欲望の奴隷、死を振り撒き厄災をもたらす魔の先兵よ。我が呼び声に応じ馳せ参じ給え──』」
魔法陣が赤く輝き、内側の円が、ある一点から侵蝕されるようにドス黒く染まった。開いた。そう感じると同時に魔法陣からぬるりと手が伸びる。
異形の手だった。節くれ立った指と真っ黒な皮膚、かさかさに乾いた手。それは二重円の縁を掴み、自分の体を引っ張り上げるようにして現れる。
「Gi……guga?」
よっこらせ、とでも言いたくなるような動作で、子供くらいの小さな悪魔が這い出てきた。
「……ふう、成功したか……」
緊張の糸が切れ、体から力が抜けそうになるのを堪える。魔力を乗せた本物の"呪文"は、酷く体力を消耗するのだ。予め対象にたっぷりと魔力が溜まっていれば、声を出すだけで済むのだが。生憎と、悪魔召喚の魔法陣と魔力を溜める魔法陣はお互いに干渉し合うので併用できない。残念だ。
「……頭数が少し足りないかな。一人で作業させても時間かかるだろうし……」
こいつを従えるのは簡単だ。ただ彼等の言葉で命令すれば良い。下級も下級、最下級の悪魔なので頭が悪く、悪魔語の命令は全て彼等より立場が上の者からの命令だと思ってしまうんだな。まあ、下級過ぎて小間使い程度の事しかできないんだが。もっとも、上級の悪魔も悪魔で、契約やらなんやらに自分が食われない為の魔法陣が必要だし、どっちもどっちって所だろう。
「よし、『仲間を呼べ』」
悪魔はびしっと気を付けの形を取ると、速やかに魔法陣へ手を突っ込み、仲間を引っ張り出した。きゅっぽんきゅっぽんと蕪でも抜くみたいに悪魔がぽんぽん増えていく。
「あ、待て待てそのくらいで『止めろ』。そんなに多くなくて良い」
ぴたり、と悪魔達がフリーズする。えー、全部で5匹か。
「じゃあ、あの『植物を刈れ』。道具は『これを使え』」
草の狂獣と、箱に入った道具を順番に指差す。悪魔達は手に手にスコップや鎌を持ち、命令を遂行すべく狂獣へ立ち向かって行った。
悪魔達は襲ってくる植物にも負けず、果敢に攻撃していく。仲間が蔦で絡め取られれば全員で救い、全方位から攻められそうになれば円陣を組んで対抗し、分が悪くなれば一旦引いて石ころや土くれを投げ応戦する。なかなか見応えのある戦闘だった。
悪魔達は一進一退の攻防を繰り広げ、両手が切り取った植物で一杯になればこちらへ山にして積み、再び戦いへ舞い戻っていく。それをぼけっと眺めていた俺は、取り合えず暇だし、こいつらにこれ以上動かれても困るし、ということでこの草を燃やしてみることにした。ぶっとい触手状の草を互い違いに組み、景気良く火をつければ、ちょっとしたキャンプファイアーみたいな気分になってくる。ついでだから、悪魔にやらない分の魚を焼こうと思い立ち、放り投げた魚を回収して、
「……下処理わかんねぇや」
しょうがないのでそのままフィーにあげると、両手で魚を掴んだフィーは、鱗も内臓も取らないままにバリバリと食べてしまう。……突っ込まないからな。その謎生態には突っ込まないからな。
そうやってぐだぐだしている間にも悪魔達は健気に戦っているようで、見ると、もう庭の隅まで植物の支配領域を削り取っていた。
さんざん暴れ回り、なんとかして生き残ろうと抵抗を続けていた植物もとうとう諦めたようで、端の草からゆっくりとしおれていく。勝った。そんな歓声が聞こえそうな様子で悪魔達が喜び、舞い踊って──
「──待て、なんだ、これ……」
肌が泡立つような悪寒。生理的に受け付ける事が出来ない感覚。なにか、認めてはいけない、許してはならない存在を感じる。俺は思わずポケットの中に手を突っ込み、宝石を握り締めた。
悪魔達は何も気付かずに喜んでいる。浮かれた悪魔のうち一匹が足を踏み外し、転びかけ、支えられてバランスを取り戻した。転びかけた悪魔はバツが悪そうに頭を掻き、自分を支えてくれたのは誰だろうかと仲間達を見やる。しかし、誰もが首を振るばかりだった。では一体誰が? そう思い、振り返って、背後を見ると──
「Gugigyaaaa!?」
──それはそこにいた。人間の腕よりも太い、何本もの触手と、その中でも一際大きな触手の先に開く大きなつぼみ。悪魔達がゆっくりと後ずさる中、ゆっくりとつぼみが開き、花弁の中身を白日に曝す。
大きな、大きな瞳があった。充血し真っ赤に染まった目玉が、大輪の真ん中で全てを睥睨するようにグルグルと回る。そして、瞳がぴたりとこちらを向いた。
嫌な予感が嫌な気配が何かとんでもないことが起きるやばいやばいヤバい──!
「全てを跳ね退く孤独の外壁あまねく否定す斥力の壁!」
握り締めたアメジストを殴るように突き出し、裏返りそうな声を必死に抑えて呪文を唱える。俺が呪文を唱え終えたのと同時に、巨大な植物がその触手を何本も何本も地面へと突き刺す。そして、ボゴッと土の塊を抉り取ると、地面を擦り悪魔達をはね飛ばすようにして投げつけて来た。視界を塞ぐように飛んで来る巨塊への恐怖に、思わず目を瞑ってしまう。その直後、飛来した石つぶてと土くれが散弾となって即席の障壁に激突し、ドガガガガガ! と凄まじい轟音を立て俺の耳朶を震わせた。
「クソがっ! 何が安全な仕事だよあのおっさんホラ吹きやがって!」
もうもうと立ち込める土煙の中、目を開いて辺りを見回す。うろ覚えの呪文で唱えた障壁は今にも崩れそうだ。しかし、魔力を直接込めるのだってまだ慣れてないのに、これだけの強度を持った障壁を生み出せるとは、これが火事場の馬鹿力、あるいは生存本能というやつか。いや、そうではない。何か、体に染み付いた反射的な行動だった。そう、まるで忘れていた経験を思い出すような──
「……これも魔導書の力か……?」
この魔導書には、初めて読んだ時に色々と変な知識をぶち込んできた実績がある。一番怪しいのはこいつだろうし、少なくとも、眠っていた才能が命の危機で開花した、なんて話よりは現実味がありそうだ。まあ今はなんだって良い。それよりも逃げるかこの腐れ植物を駆除するかしなくては、こちらが殺される。
「おい、フィー! 無事か? どこに居る!?」
未だ晴れぬ土煙の中で声を上げる。すると、風を切り裂いて飛んで来た石くれが障壁を砕き俺の真横を射抜いていった。
「ぅひっ……」
聴覚あるのかよあのクソデカ目玉花野郎。耳どこだっつの。そんな威勢の良い心中とは裏腹に、俺は今にも泣き出しそうだった。いやだって、今まさに死にかけてたんだぞ。おかしいだろ。無理。死ぬ。怖いわ。普通に怖いわ。
「うう……なんでこんな目に合わなきゃなんないんだよ……宝石魔術・黒水晶。お前は宵闇、私の僕。敵を欺き姿を隠す、夜を集めた神秘のベール」
泣き出しそうな声をどうにか制御して魔力をこめ、小声で呪文を唱える。魔力が失われる感覚と共に、ぶわりと煙幕が広がった。黒い煙は光を遮り、一時的とはいえ何者も見通すことのできぬ無明の闇を生み出す。これで数分は安全だろう。
そして、しばらくの小康状態が続いた。お互いが様子見している間に、慌てた様子のフィーがこちらを見つけて肩へ飛び乗ってくる。フィーはほっとしたように息を吐くと、俺の頭へひっしと抱き付きぐりぐり撫でてきた。
「……いや、子供じゃないんだから……まあありがとう。ビビってたのがちょっとマシになった。じゃあ、合流も出来た事だし……」
逃げるぞ。……と、言いたい所だが、多分無理だ。後ろは遮蔽物の全く無い草原で、ちんたら走ってたら良い的でしかない。煙幕を張ればなんとか逃げ切れるかもしれないが、恐らく魔力が持たないだろう。他の逃げ道としては、屋敷の後ろの森だろうか? だが、屋敷の横をすり抜けて走るのも不可能だ。石を投げられ殺される。あの障壁は空間に固定するタイプの奴なので、移動しながら張る事も出来ない。そういう実際的な理由があった。だが、何よりも、
「あのぶっさいくな花、焼くぞ」
よくも俺を殺そうとしやがったな。
「細胞の一片まで焼き付くしてやる……!」
俺は、俺を殺そうとした奴に殴り返さないで逃げられるほど、器の広い人間じゃない。