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2.硝子と水晶、古樹の森

 目が覚めて最初に感じたのは、物が燃える焦げ臭い香りと、皮膚を炙る熱だった。


「あっっっづいわボケ!」


 俺は毛布を蹴り飛ばしながら跳ね起き、寝起きの混乱した頭で周囲を見渡した。もう夜も近い時間帯だというのに、窓から差し込む真っ赤な光が室内を照らす。


 なんだこれ? 一体どうなってるんだ? 寝惚けた頭がノロノロと思考を回す。やがて、頭の中のどこか冷静な部分が、こんなはずが無いという願望や、意味が分からないなんて狼狽に、なんの配慮もせず淡々と事実を突き付けた。──そう、森が燃えている。夢の中の、小屋を囲んでいた森が。


 轟々と唸る炎の音。ぱちぱちと枝が燃え落ち、眩し過ぎる火炎が窓を舐め上げる。何故、なんで。一体何が起こってる?

 俺はふらふらとドアの前まで歩き、吸い寄せられるように扉に手をかけ、弾かれたように飛び退いた。


 今、俺は何をしようとした? そう、なんの考えもなく扉を開けようとした。炎が吹き込んでくるかもしれないのに? この建物に居た方が安全かもしれないのに?

 冷や汗が背筋を伝い、シャツの染みになって消えた。急速に現実感が身を包み、恐怖が心に忍び込み始める。夢の中で死んだら、一体どうなってしまうんだろうか?


「……くそっ! なんなんだよ、一体!」


 髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜ、唸る。とにかく落ち着かなければ。状況を整理しないと。混乱するのは後にするんだ。

 大きく深呼吸をし、茹だった頭を冷ました。ひとつひとつ数え上げ、課題を明確にしていく。一、理由は分からないが外は火事になっており、非常に危険だ。二、取り合えず呼吸は可能だ。今すぐ死ぬような事はない。三、この世界に消防や警察なんかがあるかは分からず、放っておいても状況が改善するかは不明だ。


 ……これはもう決定だな。このまま引き込もっていてもいつ家が燃え落ちるか分からないし、煙で中毒死するかもしれない。確かこの家の近くに川があったはずだから、そこまで逃げれば燃えた森の中でもひとまず安心できるだろう。冷静に考えて災害現場に留まるとか馬鹿だしな。


 俺は覚悟を決め、逃げ出す用意をし始めた。幸いな事に、昨日はうっかりローブのまま寝てしまったから、着替える必要は無い。爪や鱗など、魔術に使う様々な素材をポケットにどんどん詰める。ローブの裾、裏地、袖口、胸……装飾に紛れたポケットはやたらと多い。ベルトにはカードホルダーやランプ、ナイフなんかを取り付けて最大限に物を持ち出す。


「リュックや頭陀袋(ずたぶくろ)でもあればな……」


 こんな事があるなら自作しておけば良かった。布くらいならいっぱいあったのに。


 そんな後悔をしているうちに、炎が部屋の隅から入り込み、床を焦がしながら勢力を拡大し始める。大慌てでベッドの毛布を引っ掴み、ばしばし叩くと、それはすぐに鎮火した。もう時間が無いようだ。早く逃げないと。


 最後に魔導書と自分を紐でしっかりと結び付け、水瓶(みずがめ)の水を(おけ)で掬って頭から被る。魔導書が水に濡れても火に焼かれても無傷なのは確認済みだ。


「……魔導書。そうだ、魔術なら……」


 そう言えば、(こちら)での自分は魔術を使えるんだった。もしかしたら、この火事を根本的にどうにかする手段があるかもしれない。それでなくとも、安全を確保する手段があるかも。俺は今までに培った知識と魔導書を照らし合わせ、効果的な魔術を探し始めた。


「精霊の使役……は力量的に難しいな。招雨の儀式は……時間がかかり過ぎるか」


 いくら夢の中だと言っても、炎上した森の中へ進むのは恐い。これは一種の逃避だ、先送りにしているだけだと冷静な自分が諭していた。そんな忠告に蓋をする。


「砂漠の旅人、効果は光の遮断……これだ!」


 使えそうな魔術を発見した俺は、ポケットをひっくり返して触媒を用意し、魔法陣の描かれたカードを取り出す。


「……濡れて陣の図柄がにじんでる……大丈夫かな……」


 多分大丈夫だろう。そう思い込んで俺は魔術の準備を終えた。ここまで時間をかけたなら、最後までやらねば勿体ないという妙な貧乏性が発揮された結果だ。本当は今すぐ外に逃げた方が良いのかもしれない。しかし、できる限りの用意をするのも、そう悪手ではないだろう。多分。


 大きく深呼吸をし、球形の黒水晶を握り込んだ右手を水平に掲げ、朗々と呪文を唱える。木の壁の燃える音が、耳元で聞こえた気がした。


「──宝石魔術、黒水晶」


 漆黒の宝石が術式によって変性を始める。触媒としての効果を、より明確に、より限られた方向へ変化させていく。


 熱というものは、伝導、対流、放射の三つの方法で伝わる。熱いスープを注いだ器が温かくなるのが伝導。水を沸かす時、下の方しか火が当たっていないのに、温められた水が上に、冷たいままの水が下に動くことで、全体が均等に温まるのが対流。そして赤外線、つまり光が当たる事で物が温まるのが放射だ。


「宵よ、お前は闇の娘、夜の友」


 腰から抜いた短剣で、掲げた腕を浅く切る。鋭い痛みが僅かに集中を乱した。短剣をしまい、代わりに魔法陣の刻まれたカードを取り出して、腕から滴り落ちた血を染み込ませる。すると、魔法陣が魔力の輝きを放ち始めた。


 ならば、光を遮る事で熱を防ぐ魔術は、強烈な日差しだけでなく炎の熱も防げるのではないだろうか? ……もちろん、仮定に仮定を重ねた推論でしかない。熱が伝わる方法の内、何割を放射が占めているのかも知らないし、そもそもこの世界では物理法則が違うかもしれない。魔術なのだから、太陽の光にしか効果が無いという事もあるだろう。


「熱砂を冷やし、疲れ切った旅人に安息を与えるもの」


 二つの正三角形と一つの真円で形作られた六芒星は閉じた世界を表現し、血の中に秘められた魔力を循環させ外界へ逃げる事を阻害する。カードの中に十分な魔力が貯まった後、右手を開き、魔法陣の真ん中に宝石を配置した。


 それでも、安心を得たかった。不安だった。


「渇きを癒し、灼熱の陽光から我を守るため、我が呼び声に応え顕れよ──」


 魔法陣から魔力が流れ込み、カードの中に置かれた宝石が、その身と同じ黒の光で部屋を照らす。俺は確かな手応えを感じ心の中で快哉(かいさい)を叫んだ。


「──"砂漠の旅人"」


 魔力が完全に宝石へ収束し、一呼吸の後、真っ黒な霧が噴き出して、俺の周りへ円を描くようにまとわり付いていく。俺は心地の良い冷たさを持つ霧に包まれながら、魔術の成功を確信し──右腕の違和感に気付いた。


 流血が、止まらない。ナイフで切った傷はとても浅いもので、放っておけばすぐに血が止まる程度のものでしか無いはずなのに、ぼたぼたと流れ落ちる血液は時間が経てば経つほど増していき、貪欲に魔力を吸う宝石へ注がれていく。


 悪寒が背筋を貫いた。数秒前の自分を責める。良く考えれば、いくら突然の火事で混乱してたからって、初めてやる魔術を準備も不足してる中で強行する奴があるかってんだ。第一、いつもは動物の血を使ってるのに何故今回に限って自分の血を使っているのか。

 頭の中で少し前の自分をボコボコに殴り倒している間にも、血は流れ宝石に吸い込まれていく。血液が血管を押し広げていく痛みと、何か大事なものが吸い取られている感覚。生命力だとか気力だとか、無くなってはいけないものが猛烈な勢いで吸われていく。


 恐らく、魔法陣がにじんでいたせいで魔力の流れが阻害され、大部分が外に逃げてしまっていたのだろう。なんで水被ったんだ俺。それで、不安定になった魔術が魔力を求め、近場にあった(術者)のものを吸っているのだ。

 ……最悪だ。魔術は既に俺の制御下から外れている。いや、制御というか、魔力を一定量だけ吸い込んで霧を吐くように宝石を変質させる、ただそれだけの単純な魔術だし、制御もクソもないんだが。なんにせよ、もう俺が出来る事は何もない。


 魔力が抜けると同時に、体の気力も抜けていく。全身の力が抜け、立っているのも辛くなってくると、もはや祈る事くらいしか許されない。神なんか信じていないのに。役に立たない頭が、なんて間抜けな最後なんだろうとか、これでこの悪夢から起きられるんだろうかとか、とりとめもない思考をぐるぐると回らせて、肉体のコントロールを放棄した。バランスを崩した体を、床に左手を付けてなんとか支える。何か打開策は無いかと棚の方を向いてみる。が、貧血で視界が紫と緑に染まって、滲んでぼやけて何も見えない。ああこれで終わりかなんて呟いて、諦めたくない心がなんとかしようと悪足掻きして、必死に頭を回している内、──唐突に血が止まった。


「……あれ?」


 宝石が最後にもう一度輝き、ぽふっと霧を吐き出して沈黙した。腕の傷は依然としてそのまんまだが、水道の蛇口をひねったみたいな酷い出血は収まっている。


「……は?」


 視界はぐわんぐわんと揺れたままだし、体には上手く力が入らない。でも傷はもう、ほんの少しばかりの血を垂らすだけで、剃刀(かみそり)で薄く切った程度のものだ。これなら放っておけば治るだろう。


「……はぁー……」


 なんだか全てが馬鹿らしくなって肩を落とした。この魔術はあくまで”一定量の”魔力を吸って霧に変える魔術だ。死ぬまで魔力を吸われたり、なんて事は始めからあり得ないことだったのだろう。いや、その一定量吸われる血の量が致死量だって事はあるかもしれないか。というか魔術が暴走してたら元の術式とか関係ねぇわ。なんにせよ、もうなんにもしたくない気分だ。アホらしい。


 俺はもうすっかり乾いてしまった服を引きずりながら、のろのろと重い体を持ち上げ、棚から昨日作った軟膏を取り出す。群青花の花弁をすり潰し、水で溶いて作った軟膏だ。それを雑に傷口に塗って包帯でぐるぐる巻きにする。そういえば、これを採取した時の妖精たちはどうしているだろうか……


 ぼんやりと物思いにふけっていると、メキメキメキィ! と突然に背後で異音が鳴った。驚いて振り返ると、侵入してきた炎が壁を燃やし、支えを失った屋根が後ろの方に向かって滑り落ちる所だった。明らかにヤバい感じの音は、まだ燃やされていなかった壁が自重で潰れている音らしい。


「……いやいやいや! 冷静に観察してる場合じゃないだろ!」


 どうも、魔術で出した黒い霧の影響で、視覚や温度感覚が微妙に鈍くなっているみたいだ。まあ、本来は砂漠、つまり見通しの良い場所を歩く時に使うものだから、多少見えづらくなったり音が聞こえづらくなったりしても支障は無かったのだろう。

 この期に及んで魔術の影響を分析しながら、慌てて水瓶を引っ掴み、そのまんまひっくり返して水を被る。


 しっかりと体が濡れているのを確認した俺は、先程まであんなに恐れていた扉を躊躇なく体当たりで開け、外へ転がり出る。家という保護から外れたそこは──地獄だった。

 ガラスの木が熱に溶けてひん曲がり、燃え上がる火焔がまだ葉の生えた木を火だるまにする。押し寄せる熱量は、魔術の霧越しでも肌をひりつかせるほど。黒い煙は大きな(ふた)となって空を塞ぎ、暗いはずの夜空は夕焼けのように赤く染まる。光り輝く炎に照らされた世界は、フラッシュを焚き過ぎた写真のように俺の目を焼いた。

 あまりにも恐ろしく、絵画か何かにしか見えない光景。しかし、そこから伝わってくる確かな現実感。この火事が実際の脅威であり、下手をすれば自分は死ぬのだという感触が容赦なく脳に刻まれる。俺はみっともなく悲鳴を上げそうな口を濡れたローブの袖で塞ぎ、川のある方向へ向かって走り始めた。血を流し過ぎたせいか、足元はふらふらするし、体にも妙に力が入らない。不安感は(ぬぐ)えないが、立ち止まれば死あるのみだ。


 俺は森の獣道を駆け抜けながら、森が死んでいくのを感じた。この前に薬草を採取した小道、樹液からシロップを作ろうとして失敗した巨木、妖精を召喚した広場。たった一ヶ月しか触れ合っていない場所。それでも、確かに思い出の地だったはずの全てが燃えていく。恐怖に麻痺し混乱していた脳みそがようやく悲しみを一筋、涙腺からこぼした。なぜ、なんで、こんな目に合わなくちゃいけないんだ。一体俺が何をしたというのか。

 抑えきれない感情を振り切るように走って、背後から迫る火に追い立てられるように走った。霧は炎に削られてどんどんと少なくなっていき、濡れたローブもみるみる乾いていく。疲れを無視して進むうち、もつれた足が木の根に絡んで盛大に地面へ激突した。土に汚れたローブが泥だらけになり、細かな擦り傷ができる。

 俺は痛みを無視し、素早く立ち上がろうとした。しかし力を込めた腕は無情にも崩れ落ちる。ちくしょう。なんでだ。もがいてもがいて、立ち上がろうと力を入れては無様に転び、そんな事を数回繰り返してやっと気づく。──俺にはもう、立ち上がる気力なんて残されていなかった。


 もう嫌だ。どうでもいい。疲れた。足が痛い。荒い息を整えながら、俺はだらりと体を投げ出して仰向けになり、赤に染められた空を見上げる。転んだままでいるのはとても楽で、このまま眠れば全てが解決しそうな気さえした。

 目を瞑れば、炎の燃えるぱちぱちという音が子守唄のように聞こえてくる。ゴツゴツした地面はとても寝るには適さなかったが、今の俺は寝心地なんて気にできないほど疲れきっていた。


 だんだん呼吸が落ち着いてくると、俺は体の支配権を放棄し、重力に任せた。微かに残った霧の冷たさが、疲れきった体に酷く心地良い。


 そうやっている内に眠気が忍び寄ってきた。意識は闇に沈んでいき、感覚が鈍って思考が止まる。煙の匂いがどこか遠くに感じ、穏やかな眠りに体を預けようとして、


「……ん……?」


 鼻の先に何かが触れる感触。くすぐったいような、こそばゆいような。なにか小さなものが俺の鼻をくすぐっているような。


「………ぶぇっくしっ!」


 思わずくしゃみをし、体を起こす。頭を振りながら周囲を見渡してみるも、何も居ない。気のせいかと思って再び寝っ転がろうとすると、頭をたしたしと殴られた。


「なんだ?」


 首を90度上に曲げ、天を仰ぐ。視界いっぱいに広がる羽の生えた少女の姿。


「うわっ、とと」


 驚き、のけ反り、どたりと後ろに倒れてしまう。その手の平に乗りそうな大きさの少女は、けらけら笑いながら俺の頭上を飛び回っていた。


「……妖精? でもなんでこんなとこに……この大火事だし、もう全て消えちまったと思ってたんだけど」


 炎に照り返され、幻想的な光を振り撒く少女を見ながら考える。魔導書によれば、妖精は自然の化身。森の奥や川の底といった命ある自然から生まれ、自然を(かて)とし、自然に還る存在である。故にこのような災害が起これば、その身を賭けて森を守るか、あるいは力(かな)わず消えてなくなるか、さもなくば──


「……あっ!? お前、この前に喚び出した妖精か!」


 ──その森を抜けられる存在に付いていく。俺の声を聞いた妖精は、やっと分かったか、と言わんばかりのドヤ顔で頷いた。

 妖精は、傍目(はため)にもはっきりと喜んでいるのが分かるような軌道で俺の周りを飛び回り、透けて輝く薄羽から光の鱗粉を振りまいて誘う。早く行こう、早く逃げようと言っているみたいだ。妖精種は感情が大きく動いた時に鱗粉を出すらしいから、よっぽど嬉しかったんだろう。死にかけた所に救いの手が現れたと思えばそうなるのも当然と言えるか。


「……いや、悪いけど他を当たってくれ。俺はもう疲れたよ」


 俺はそう言い捨てると、そのまま目を瞑って再び寝に入った。誰も助けられるなんて言ってない。驚いた妖精の顔が、目を瞑る瞬間に見えた気もした。が、無視した。正直言ってもう一歩も歩きたくないんだ。いや、歩けないと言った方が正しいかもしれないが。なにせ酷く体が重い。

 しばらくの間、妖精は諦めずに俺の耳を引っ張ったり、もう一度鼻の先をくすぐったりしていたが、やがて俺に一切その気が無い事を悟ったのかどこかに行ってしまった。


 俺はほっとして息を吐き、改めて全身の力を抜いてリラックスすると、もう一度穏やかな眠りにつk眼球が! 潰れる!


「いっっってぇぇ!!」


 目を手のひらで抑えながらドタバタと暴れ、予想もしていなかった痛みに転げ回る。俺はけらけらという笑い声を浴びながら無様に悶え転がり、木にぶつかってその痛みで飛び起きた。


 涙に滲む視界。映るのは下手人と思わしき妖精の少女。


「なにすんだこのクソ妖精がぁぁぁあああ!!!」


 妖精は手の届かない所に避難しながら、腹をよじって笑っている。なんとかその面を殴ってやろうとジャンプしながら手を伸ばすも、向こうはひらひらと避け、おちょくるように手の届く所まで近づいては、さっと避けていく。だめだストレスしか溜まらねぇ! 殴りたいその笑顔!


「くっそ……てめ……覚えてろ……」


 肩で息をしながら、小悪党っぽい捨て台詞を吐く。こんな茶番に付き合っている暇はないのだ。動けるならば逃げ……動ける? なんで? 


 ここにきてようやく疑問が形になる。鱗粉にまみれた、やけに軽い自分の身体。おかしい。さっきまで俺は本当に疲れきっていた。身動きも取れないほどだ。それがこんな短時間の休憩で回復するなんておかしい。俺にそんな超回復力はない。魔術にならそういうものもあるかもしれないが、俺は魔術なんて使ってない。というか魔術使える元気があるなら走ってるし。じゃあ、俺以外の要因が俺の体力を回復したという事になるが、とそこまで考えてやっと気づく。


 妖精の鱗粉はそれを浴びた生命体を活性化させる。それがたとえ一匹だけのものであっても、これだけの量を長時間浴びればスタミナもある程度戻るだろう。


「……お前……」


 妖精は不思議そうな顔でこちらを見る。狙ってやったわけじゃないのか。いや、流石に考えもなしに人の目玉を突いてきたりはしないだろうから、それはないか。


「……礼を言うのも癪だけど、まあ、ありがとう」


 これで転がっているための言い訳は無くなってしまった。ついでにこのトボけた妖精に借りを返すという目的もできてしまった。


「しゃーない、ほら行くぞ」


 俺はローブを叩いて泥を払い、湿った袖口を確かめるように引っ張ると、慌てた様子の妖精を置き去りにするように、再び炎の中へと走り出した。







「……着いた……」


 所々が焦げたローブと、日焼けしたみたいにヒリヒリする肌でたどり着いた川は、若干灰と煙で汚されて見えても、この地獄の中で唯一”いつも”のようだった。


 俺はおもむろに懐から涙滴型のランプを取り出し、その上部をひねる。と、雫の上側がするりと外れ、中に入っていた液体がより強く輝く。鮮やかな水色の光が俺の顔を照らし、薄灰色の水面に照り返った。

 これこそ『魚の涙』。陸に住むものを水中で何不自由なく生活させる、幻の秘薬である。ある人間の男を気に入った人魚が、その男と暮らしたいという思いを歌にして唄い、それを聞いて感動した魚達の涙を集めて作られたという逸話を持つ。まあ魔導書の受け売りだが。というか、実際の魚は涙なんて流さないしあくまで伝説だろう。いや、この世界ならあり得るのか……?

 考えごとに意識が没頭しそうになったのを、妖精が脇腹を突いて覚めさせた。周りを気にせず考えてしまうのは悪い癖だ。気を付けないと。あるいは川まで来て緊張が緩んだんだろうか。


 ともかく、俺はそのランプに口をつけ、一口、二口と中の液体を飲む。魔導書には一口で半日は効果が続くと書いてあったし、これだけ飲めば充分だろう。伝説だと一滴で半年らしいが、しょせんはおとぎ話か。俺は厳重にランプの蓋を締め、もう一度体にしっかりとくくりつけた。


「お前は妖精だから溺れたりなんてしないだろうけど、付いて来るんだったらはぐれないようにしろよ」


 そう声をかけると、妖精はすぽんと俺の首もとに飛び込み、ローブの中に潜り込んだ。……いや、袖口とかポケットとかさぁ……まあ良いけど。


 背後、すぐ側まで燃えてきている森を振り返って見つめる。もうここに来る事は無いだろう。川の下流がどうなってるかも分からないし、この森の名前すら知らない。ほんの少しの間、これまでの日々を思い返して、寂しさと心細さに足を止めそうになる。そんな不安や恐怖を振り切るように、助走を付けて思いっきり川に飛び込んだ。


 妖精のはしゃぐ声が耳元で響く。宙に浮いた体が一瞬だけ重力を忘れ、すぐに下へ引かれて落ちた。足の先から水面へ突っ込んで、大きな水飛沫が飛び散る。水の中に入った体は、服の重さと、いろいろとポケットに入れた物の重さで水中で漂ったままだ。川の勢いに乗り、下流へと流れていく。

 なるべく楽な体勢で流されながら、恐る恐る息を吐けば、ごぽりと泡が浮かんでいった。今度は息を吸ってみる。と、普通に呼吸が出来てしまう。なんだかとても不自然な気分だった。


 大きな流れに包まれながら、川の中を流れてく。くぐもった騒音と、流れていく川の底や外壁。炎の光が差し込んだ水面の方はとても綺麗だったけど、それもやがて飽きてくる。単調な光景と、安楽椅子のような心地良い揺れの中。きっと疲れもあったのだろう。いつしか俺は、深く、深く、穏やかな眠りに落ちていった。







 森は(いま)だ燃えていた。動物はとうに逃げ去って、妖精は(ことごと)く消え去った。それでも一人、ある男がこの地獄の中に取り残されていた。


 男は燃え落ちた家の中を漁っていた。襤褸切(ぼろき)れのような服装と、(しわ)だらけのひび割れた手。顔の半分を覆う黄金のマスクがより一層不気味さに拍車をかけ、金のマスクの目元に灯る、青い、蒼い、真っ青な炎が、幽鬼の如くふらふら揺れる。


 男は酔ったような足取りで、まだ火の消えていない廃墟の中を探し回っていた。炎が彼を焼く事は無く、生きた物が彼を見る事は無い。男はどこまでも一人で何かを探し求める。


 男は泣き出しそうな顔で、燃える廃墟に座り込んだ。マスクに覆われていない方の目から涙がこぼれ、炎となって虚空に消える。(しわが)れた声が男の喉から絞り出て、怨嗟の声を宙に漂わせた。


「どこだ……どこにある……アレが見つかりさえすれば……ああ、マリー……」


 男は、この地獄を作り出した男は、どこまでも一人で嘆き悲しんでいた。自らの目的だけを考えて。


 森は、ただただ燃え続けている。たった一人のエゴによって。

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