1.夢の始まり
更新について
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ふと、窓に光が差し込んだ。窓から覗く外の森には、ガラスで出来た果実が光り、キラキラと朝露に濡れている。耳を澄ませば、目覚め始めた小動物の声。薄暗い森に、木漏れ日が朝を呼びかける。
もうそんな時間か、とログハウスの中に目をやる。すると、今日の実験に使った枝や鉱石、召喚の対価に用意していた血の瓶、うんざりして思わず投げたチョークの破片などがごちゃごちゃと散らかり、散乱したメモがしわくちゃになって扱いの不当さに抗議していた。
「……もう朝だし、いっか」
頬をぽりぽりと掻き、机の上にある書物に目を落とす。解読はまだまだ進んでいない。最近では、文字が読めるのに内容が全く分からない苦痛にも少し慣れてきた。まあ基礎が身に付いてないんだから難しいのも当然なんだが。
「……ふゎ、眠ぃ」
思わず目を擦る。耐え難い眠気が全身の力を奪っていくようだ。だが負けるわけにはいかない、と頬を叩いたり腕をつまんだりしてなんとかベッドまで這っていく。
「おやすみー……」
誰に言ってるのか自分でもよく分からないまま言葉を吐き、目を閉じる。すると直ぐさま睡魔が憑りつき、一瞬で意識を奪い去っていった。……っと、待て、何か、何か忘れてるような……
しかしもはや眠気は最高潮。思考に余裕などなく、そのまま微睡みの中に沈んでいき、
……あ、服、ローブのままだった。
なんて思考が浮かんで、消えた。
†
「──本日の連絡は以上です。今日も気を付けて帰るように」
今日も一日、ようやっと退屈な時間が終わった。特に意義が感じられないホームルームを、あの先生が禿げてるって噂、本当かな。なんてどーでもいい事を考えながら聞き流す。
「では、日直の方、号令をお願いします」
おっと、終わった終わった。この先生の話長いんだよなー、なんて思いながら、日直のやる気が微塵も感じられない声と共に立ち上がる。きりーつ。きをつけー。れーい。
さよーならー、というあんまり揃ってない声を合図に、クラスメイトが解散した。部活に急ぐヤツ、友達と駄弁るヤツ、放課後の予定を話し合うヤツ。俺は誰にも声をかけず、家へと急ぐ。
担任の先生に挨拶をし、教室の扉を開け、階段を下り、校舎から出ようと靴を履き替えた……所で厄介な先生に捕まった。
「おっ、橘じゃないか。どうだ? 最近は。元気にやってるか?」
「……ええ、まあ、はい。こんにちは、センセー」
確か、野球かサッカーかテニスかなんかの顧問をしてる先生だ。名前は……なんだっけ。まあそんなに重要じゃないし良いか。この人はナントカ先生。なんだか妙に気に入られて、こっちを認識するといつも俺に構ってくる厄介な先生だ。やたら声のデカいおっさんに懐かれても全く嬉しくないけど。
「お前、また一人で本読んでばかりいるのか? 確かに読書は大切だが、高校は3年間のたった一度しかないんだぞ? もっと積極的に他人と関わってだな──」
ああ、また始まった。多分悪い人じゃないだろうし、親切心からこうやって俺にお節介を焼いてるんだろうが、正直に言って邪魔だ。人生はいつも1回きりしかねーんだよ高校生活を神聖視するなおっさん早く帰らせろ。
「──だから、お前も友人を作るためにウチの部活にこないか? 先生がついてる、運動が苦手でも楽しめばいいんだ。なにもレギュラーになれって言ってる訳じゃないんだ。な?」
な? じゃねえよそもそも運動が嫌いだって言ってんだろ。いや言ってないけど。
「いえ……先生のお誘いは有り難いのですが、自分は放課後もキチンと勉強をしたいので……。そうだ! そろそろバスが来てしまうので失礼しますねー!」
失礼したのは向こうだけどな! 先生の驚く声を無視し、俺は猛ダッシュで脇をすり抜けて校舎外へ走っていった。う、久々に全力で走ったせいか脇腹が痛い。
「はぁ……はぁ……ここまで来たら追ってこないだろ」
部活もあるだろうしな。校舎を振り返ってから、息を整え、バス停までへの下り坂をゆっくり下る。もちろんバスにはまだまだ余裕があるし、家に帰っても当然勉強などしない。
「熱血教師ごっこは部活の生徒とやってくれよなー……」
ぐちぐちと恨み言を吐いている内にバス停に着いた。どうせバスが来るまで暇だし、ノートの確認でもするかと鞄を開ける。中から取り出したのは、真っ黒な表紙をした、一般的なスタイルのノートだ。タイトルはない。周囲に人が来てないのをもう一度確認してから、見慣れた自分の文字を追う。
その未完成のノートには、悪魔の召喚と使役、星の運行と星図、鉱物と霊石、植生と薬草などなどなど……細かい文字でびっしりと、考察やメモまで乱雑に、女子に女子っぽいと言われる丸文字で書き殴られていた。
……他人に見られたら終わりである。しかも間違いなく自分の文字だから全く釈明の余地がない。まあノート見せあったり気軽に鞄の中身を弄り合う友達なんていないけどな! ……虚しい気分になってきたから止めよう。
現実逃避、現実逃避。ペラペラとページをめくり、夜に備えて召喚陣の書き方や供物の加工方法などをもう一度考察し、確認する。いや、別に呪いをかけたりするわけじゃないが。そもそも呪いかけるほど他人に興味無いし。傍から見たら明らかにヤバい人にしか見えないだろうが、これが本当……ではないにしろ実際に使える知識なのだから笑えないのだ。まあ鉱物も薬草も現実に無いものだけどな。いや、創作ってわけでもないんだが……
と、思考を遮るようにエンジンの音が近づき、止まったかと思うと、ブシューっと空気が抜ける大きな音が響いた。バスが来たようだ。続きは家に帰ってからにしよう。
†
「ただいまー」
気の抜けた声を、低く唸る電化製品と廊下で反響した小さな山彦(山以外でも山彦って言うのか?)が出迎えた。
玄関の扉を開けるなり自分の部屋に向かい、ベッドに鞄を放り投げ、机の引き出しに隠された日記を手に取る。
「さて、昨日は何を学んでたっけ……」
パラパラとページをめくり、昨夜の記憶を反芻する。確か、昨日は……
「あー……"群青花"から薬効を精々したんだっけか……」
切り傷に効く軟膏が作れると『魔導書』に書いてあったので、ちょっと作ってみたんだった。今のところ怪我はしてないし、次、血を必要とする魔術を使う時にでも確認すれば良いだろう。腕切るのって痛そうだしあんまりやりたくないけど……
ああ、あと案内に妖精も呼んだんだっけ。果物のジャムで呼べたのはちょっと威厳がなさ過ぎるんじゃないかと思ったが。そんなもんなのかな。
群青花はその名の通り群青色をした花で、小指の爪くらいしかない小さな花だ。妖精に案内してもらった群生地は、木々の合間にできた円形の広場。絨毯のように地面を埋め尽くす花々が夜闇の中でぼんやりと光り、その上空で何人もの妖精が遊んでいて、それはそれは幻想的で美しかった。群レル青イ花だから群青花、と魔導書に書いてあったのは安直過ぎるしこの本書いた奴のネーミングセンス死んでるんじゃないかと疑問に思ったが。
そうやって、一つ一つ記憶を辿りながらページを送り、一番古い日付けを開く。
「五月の半ば……一ヶ月半くらい前か」
この奇妙な生活が始まって、もう一ヶ月、と言うべきか、まだ一ヶ月、と言うべきか。なんだか随分と前の事みたいだ。少なくとも、前の生活が思い出せないくらいには。
「最初は酷いもんだったよなー……」
そう言う今だって、最初と大して変わらないかもしれないが。俺はパタンと日記を閉じ、この奇妙な『夢』を見始めた夜を思い返していた──
†
その日、目を覚ましてまず感じたのは木の香りだった。ぼんやりとした意識が、穏やかな木の香りと鼻につく薬品の匂いで覚醒される。
思考が回り始め、夢の名残が記憶の片隅へ追いやられる感覚。このまま寝転がっていたいという欲望を振り切って体を起こし、ベッドから下りようとして、ようやく気付く。
「いや……どこだよ、ここ」
そこは、まるで秘密基地みたいな部屋だった。酷く薄暗い室内はベッド以外に足の置き場がなくて、壁は丸太をそのまま積み上げて作られているよう。ぐるりと見回せば、棚から溢れた大量の本、よく分からない生物の爪、ねじ曲がった角、月明かりに透ける布、瓶、鱗……それら様々の輪郭が、空間を埋め尽くすように溢れていた。しかもよく見てみると、今の自分が着ている物はゆったりとしたズボンとシャツだ。西洋風で縫い目が粗い。手触りは悪くないが。
壁を見ると、無数のフックや板が取り付けられており、なんとかしてこの大量の物を分類しようと試みた努力の跡が伺える。全く成功していないのだが。
窓は大きな丸窓で、十字の仕切りにガラスをはめ込んだ簡単な造りのものだ。丸く切り取られた夜空に、赤と青、二つの満月が輝いている。
……赤と青。二つの満月だ。何度見返しても二つの月だ。言うまでもなく月は一つのはずだし、銀だとか金だとか形容されることはあっても赤や青に染まることは有り得ない。いや、赤い月が出ることはあるんだっけ? ともかく、どう考えても異常だってことだけは確かだ。
「本当にどこだよ、ここ……」
試しに頬をつねってみても普通に痛いし、夢にしては五感がリアル過ぎる。おかしい。俺は昨日、普通にベッドに入り、普通にアラームをかけ、ごくごく普通に寝たはずだ。これが夢の中だったら、もっと思考とか感覚とかが鈍いはずなんだが……
「……分からん。なんにも分からん」
考えていても仕方ないし、暗くて微妙に見づらいので、取り合えず手探りで明かりを探してみることにした。ここが普段から使われている建物なら、明かりぐらいはあるはずだ。……多分。
壁を探したり床の上をひっくり返したりすること数分。よく分からない壺や紐をどかしながら、ようやっと普段使うものは基本的に手の届く場所にあるはずだろうと気付く。
無駄な時間を過ごしてしまった、なんて思いながら机の上を調べてみると、なにやら布に覆われた突起のような物が見つかった。特に何も考えず布を取ると、柔らかな光が音も無く部屋を水色に染めた。思わず目を瞑り、反射的に腕で視界を塞いでしまう。
しばらくそうしていると、目が慣れ、ぼんやりとした輪郭がだんだんハッキリしてきた。目を細めて机を見ると、そのランプ(らしきもの)は、涙の雫みたいな形をしていた。見たところ、なにかしらの発光する物質(液体っぽい感じだ)を中に入れておいて、使わない時は布で覆って隠す、という形式のモノらしい。机もこのランプに合わせた特注品のようで、机のくぼみにぴったりとランプが嵌まる造りになっている。
俺は、その不思議なランプの光に照らされた部屋をぐるりと見まわした。揺れる光は弱く、隅々まではとても照らし出せないが、手元を確認したり部屋の形を知るには充分といった感じだった。
「……汚いなぁ」
まあ、改めて言うまでもなく、汚い部屋だった。汚れやホコリで汚いという訳ではなく、整理されていない物がひたすらに溜まっている汚さだ。どこに何があるのかさっぱり分からない。
そんな汚部屋の中で、机だけがキッチリと綺麗に整頓されている。いや、整頓と言うより、溜まった物が横に投げ捨てられていると言った方が正しいだろう。流石に作業スペースくらいは欲しかったんだろうか。しかし、根本的な対策になっていないことは明白で、机の脇に羽根ペンや空のインク壺が山となって居場所を占拠しているのが見える。ゴミくらい捨てたら良いのに。
しばらく色々と眺めてみても、机とベッドと棚の他にマトモな家具は無いようだった。この場所についての手がかりもまた、無い。夢でない事は確かだと思うんだが……
「……どうしたもんかねぇ」
いっそ外へ出てみようか? しかし、窓から眺めるだけでも、なんだか随分と危なさそうだ。外は暗く、奇っ怪な植物の展覧会とでも言わんばかりの森林になっている。ガラスで出来た草木ってなんだよ。脚とか手とか切っちゃうだろ。あとその禍々しい形をした果物はなんだ。そんなもん現実で見たことないぞ。
「……いや、本当にどうしよう」
どうすればいいのか分からず、もう一度部屋を見まわす。そして、ふと、それが目に入った。
「……本?」
なぜ今まで気付かなかったのか分からないほど、その本は堂々と机の上に鎮座していた。金に縁どられた流麗な文字。親指の先から根本までありそうな紙幅。革で作られた表紙は変に分厚すぎず、あくまで実用性を重視しているようだ。開いてみると、ページの一つ一つは驚くほど薄く、髪一本分よりも薄いんじゃないかと思えるほど。だというのに脆さや不安感はなく、普通の紙よりも丈夫そうだった。
中に記された文字は円を中心とした幾つもの曲線で構成されていて、当然見たことも聞いたこともないものだ。というかどう発音するのか分からない。はず、なのに、何故か、分かる。
「……っ!」
一瞬、めまいのような感覚が俺を襲った。視界が回り、思わず机に手を突く。手放した本がバサリと落ちる。脳味噌をかき混ぜられ思いっきり振り回されたような感覚。
しかしそれは本当に一瞬の事で、俺の精神はすぐさま元通りになった。俺は片手で頭を抑えながら、いつもの習慣として、床に落ちた本を拾おうとし──視界に入ってきた文字が、完全に理解できてしまうことに気が付く。
意味、音価、文法、書き方。単語、字形、話法、発音。全てが当然のように分かり、意識しなければ異常を異常と感じれない。まるで長年使ってきた言語のように、まるで生まれた時から慣れ親しんでいる言葉のように、経験として感覚的に使えてしまう。
不気味だった。恐ろしかった。でも、なぜだろう。そんな些細な事よりも、その内容が、俺の目を惹きつけて止まなかった。閉じてしまった本の、表になった題にはこう書いてある。──魔術の全て。ある一人の男の覚え書き──と。
俺は震える指でページをめくった。何ページにも渡る長大な目次。それよりも遥かに長い本文。妖精との付き合い方、悪魔の召喚、薬草の利用、偉大なる星々の見極め方、自然に対する心構え。
好奇心が、未知への期待が、思考を鈍らせ興奮となって手を動かす。それは純粋な知識欲だった。子供が抱くような、飢えるような知識欲。忘れかけていた欲望が次々と湧き上がり、ページを繰る手を止めさせない。
その内容は、嘘だと言うにはあまりにもリアルで、真実だと言うには荒唐無稽に過ぎた。でも、脳髄に焼き付いていく知識が、深い実感を伴って刻まれる経験が、これは紛れもなく真実なのだと主張している。ページを繰る手はどんどんと加速していった。もっと、もっと、もっとと──
無限にあるかと思えたページが、全て読み尽くされた時。もう既に夜は明けていた。頭にずしりと来る疲労感と、それよりも遥かに大きな充足感。読んでいた間は無視されていた眠気が一挙に襲いかかり、意識を飛ばそうとしてくる。
心地良いそれに、体を預け──
「っ! はぁっ……はぁ……」
がばり、と体を起こしながら荒い息をつく。そこは見慣れた自分の部屋だった。
「……夢、か」
頭を振り、洗面所へ向かう。脳に焼き付いたはずの知識はさっぱりと消え去り、ただ怪しげな場所で目覚め、不気味な本を読んだという記憶だけが残っていた。
顔を洗って服を着替え、朝食の用意をする。一杯目のご飯を食べ始めた時には、もう夢の事はすっかり意識から外れていた。
さして興味もないテレビを、ただぼんやりと眺めながら、機械的に朝食を口に詰め込む。
──この日から、俺の非日常が始まったのだ。
†
「そして、何度も同じ夢を見て、何度も同じあの部屋で起きて、少しずつ少しずつ学んできたんだっけ……」
ここ一ヶ月の事はありありと思い出せる。初めて魔術を発動させた時の感動と喜び、悪魔というものを喚んでみた日、こわごわと触った触媒の感触、最初に外へ出た時の恐ろしさ……夢の事とはとても思えない、素晴らしく充実した日々。現実よりもよっぽど楽しかったんじゃないだろうか。
「まあ、一日こっちで過ごした後、向こうで一日休んでるみたいなもんだし、充実してるのも当然か」
自分で言いながら、それも違うかと思い直す。そう、なによりも俺の心を惹きつけるのは、魔法だ。正確には魔術らしいが。どちらにせよ、その神秘的な響きが俺の心を掴んで止まないのは変わりない。この素晴らしい知識がなければ、夢の世界もさぞ退屈なことだったろう。
俺は改めて魔術の楽しさを確認し、深く頷いた。……さて、最初に何をしようとしてたんだっけ?
「って、昨日やった事の確認は済んだじゃん」
そうそう、確認だ確認。これで当初の目的は果たしたし、ちゃんと日記にメモもした。本当は朝起きてすぐに書けるのが良いんだけど、朝はできるだけ長く寝てたいからな。さて、次は何をしようか……
ちらりと目覚まし時計を見る。今はまだ午後四時半過ぎ。母さんと父さんが仕事から帰るまで、一時間半はある。これならひと眠りするだけの余裕はあるだろう。
時間があればあるだけ魔導書の理解に費やしたい。内容を覚えていても、意味が分かってなければ意味が無いんだから。そうと決まれば早速寝てしまおう。
そして、俺は着替える事もなくベッドに入り、目を閉じて眠りに就いた。見慣れた自分の部屋を、しばらく見られなくなるなんて事も考えず。