自分に出来ること
直接話した事はなく、カッコいいなと勝手に忍者的リスペクトをしている佐藤先輩は話してみると案外軽い感じだった。
「麻子ちゃん、猿君って呼んでるよね。俺も呼んでいい?」
「うっす!よろしくお願いします!」
「なにそれ。なんか暑苦しいキャラなの?」
実は辞めようと思っていたこと、先輩の忍者姿をカッコいいなと思ったことを珍しく素直に話してみる。
「まぁな。俺はなスゲーからな!」
本気で言っていそうな気がする。明らかに機嫌は良くなったようだ。
「ただし、猿君。簡単には弟子にしてやんないぜ?」
そんなことを言った覚えはないんだが...。
「俺もつらい修行を乗り越えてここまで来たんだ。忍者としてまずは自分に出来る事を一つづつやっていきたまえ。」
そう言いながら佐藤先輩が親指をクイッとカフェの入口に向ける。
促されるように見るとお客さんが入ってくるところだった。佐藤先輩は入門試験だとでもいうような顔で俺をみている。
俺は水を用意しながらさっきの言葉を思い出す。
『忍者として自分に出来る事』
冷静で正常な判断が下せなかった事を死ぬほど後悔するなんて、この時の俺は知るよしもなかった。
20代前半位だろうか、カップルのお客さんだ。水を二つ用意し深呼吸をする。
自分に出来る事、自分に出来る事。
忍者として、頭の中が一杯になる。
別に普通に水を出して注文を聞いてくればいいだけなんだ。
テーブルに水を置く。
「み、水でござる。注文はお決まりでござるか?」
カップルの男性が吹き出すのを我慢したような変な声を出す。
「ちょっと。」
失礼だよ。というようにたしなめる女性。しかし顔は明らかに笑っている。
そして厨房の方からも隠す気のない笑い声が聞こえる。
「こっ珈琲、アイス二つで。ププッ」
「アイス珈琲二つで、ござるな?」
...語尾が小さくなっていく。
自分の顔が真っ赤なのは見なくてもわかる。
そそくさと厨房へと逃げ帰るが、佐藤先輩の爆笑で迎えられた。
「ござるー!!あっはっは、ひーっっお前最高だなっ!」
ここまで笑われると逆にすこし落ち着く。
「必死に考えたんですよ!最悪だぁ。もーなんかお客さんもごめんなさい。」
後悔してももう遅い。
笑いが収まらないまま佐藤先輩が言う。
「なんでだよ、最高だろ!俺が客だったら今日の事忘れねーよ。ほら!」
とお客さんの方を見る先輩につられて首が動く。
そこにはとても楽しそうに笑っているカップルがいた。
「合格でござるー!弟子にするでござる!」
早速いじってくる佐藤先輩。
「やめてくださいよ、恥ずいんですから。」
「はははっ!ごめんごめん。」
珈琲を運び戻ってくると、
「弟子なんだから教えて欲しいこととかあったら言うでござるよ。」
突っ込むのは逆効果だとあきらめる。
「それなら、手裏剣教えて下さい。」
「ふっふっふっ。よいぞ。」
休憩中に手裏剣の投げ方を教えてもらう。
「左足を前に、足は肩幅位、重心はからだの真ん中、軽く膝を曲げて。」
投げ方以外にもこの手裏剣は尖った部分が4つあるから四方剣(十字剣)など名前やウンチクを教えてくれた。
「あとはひたすら修行あるのみだな。」
仕事の事とはいえ例えではなく本当に修行だなと、変な気分になった。
今日は恥ずかしい思いもしたが、結果としては充実した一日だったと思う。
そしてこの日から少しづつ手裏剣修行と同時に体力づくりも始めた。
行動起こさない系男子の俺がである。
アレがやってみたいとかコレをしてみようと考えて動き出すのなんてどれくらいぶりだろうか。
あんなに恥ずかしいと思っていた忍者の自分をちょっとづつだが好きになっている。
この件をきっかけに佐藤先輩には気に入ってもらえた。
ありがたいのか、残念なのか、このあと俺の充実した?いじられライフがスタートする事になる...。
そして俺の知らない所で接客裏マニュアルに『忍者は語尾にごさる。』と足されるのだった。
慌ただしくも日々順調に身体と心が健康になっていく気がする。
手裏剣も上達し始めたし、親にもそれなりにやっていると連絡を入れてみた。
アイドルか体操選手ぐらいしか役に立たないと思っていた特技のバク転も、忍者なら何か役に立つかも知れないなぁなんて、平和にすごしていた。
まさかあんな事件が起こるとは、知らずに・・・。
初日はキリのいい所まで一気にあげてみました。
次話からは2~3日以内の間隔で1、2話づつあげていこうと思っています。宜しくお願い致します!