表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/41

二章 萬狩と老犬(4)~老犬と青年と歩く海辺~上

 早朝散歩の決行当日、空が白んだばかりの時刻。

 新聞を取りに向かった萬狩は、玄関先で仲西青年と遭遇した。


 仲西青年は、右手に小さなクーラーボックス――人間用と犬用の飲料水が入っている――と、左手にはタオルと着替えと濡れティッシュに、他にも老犬シェリーの世話に必要になるであろう用品を詰めた紙袋を持っていた。


 駐車場を見れば、黒の原動付きバイクが停まっていた。恐らく、クーラーボックスは足元にでも置いて運んできたのかもしれない。


 出会い頭、しばし状況を把握するのに時間がかかった萬狩は、仲西青年の張り切り具合に苦悩の吐息をこぼし、目頭を揉み込み、ようやく「あのな」と声を絞り出した。


「お前、家を出る時に時間は見たか? 人様の家を訪ねるにしても早いし、今はまだ朝の五時を過ぎたばかりなんだが……」

「おはようございます、萬狩さんッ。僕は夜の十時には就寝したので、体調はばっちりだから問題ないです!」

「……いや、やっぱりいい。うん、おはよう」


 早朝の頭にはダメージの大きな出来事に、萬狩は、早々に深く考える事をやめた。普段は犬の世話係と、その家の持ち主という関係だが、今日は互いにプライベートであることを不思議に思いつつ、諦めた心境で仲西を家の中へ招き入れた。


 仲西青年は慣れたように部屋に上がり、朝食中のシェリーの隣に座り込んで「おはよう、シェリーちゃん」と頭を撫でた。プリントTシャツに、スウェットズボンを着た仲西青年は、二十代そこそこにしか見えなかった。


 珈琲とパンで朝食をしていた萬狩は、はじめの数分は、どうしたものかと迷ったものの、結局はいつものように仲西青年を放っておく事にした。息子達よりも若干年上という概念が、どうも持てないでいるのだが、こちらについても深く考えないようにして朝のニュース番組へと目を向けた。


「萬狩さん、萬狩さん」

「なんだ。名前を二回も呼ばずとも聞こえている」

「うん、そうなんですけど」


 顔を向けると、そこには、珍しく神妙な顔付きをした仲西がいた。


 一体なんだろうか、と萬狩が怪訝に思いながら彼の返答を待っていると、仲西が何かを確認するようにもう一度「うん」と肯き、真面目な顔でこう言った。


「こうして並ぶと、父と息子が犬を散歩している感じに見えて、きっと怒られないと思うんですよ。沖縄の人って、結構そういうところに寛大な人が多いから」

「お前、ずっとそんな事を考えていたのか?」


 先日の下りを思い出し、萬狩は頭を抱えた。少しばかり彼を心配した自分がいた事を認めたくなくて、「お前は馬鹿か」と舌打ちする。


「親子設定には無理があるぞ。ああ、絶対に無理だとも」

「そうですか? 眉間に皺を寄せたら、ちょっと似ていませんかね?」

「お前、俺に対して段々遠慮がなくなっているんじゃないか?」


 萬狩は、部下を叱るつもりで顔を思い切り顰めて嗜めたのだが、仲西は「えへへ」と緩みっぱなしの表情でへらりと笑んだ。


「だって、萬狩さんって優しいんですもの」


 俺が、優しいだって?


 そう反論しようとした萬狩は、ふと思い出される事があって口をへの字に結んだ。そういえば昔、妻にそんな事を言われた事があった。彼がそれを否定するたび、彼女は「あなた、顔に似合わず優しいのよねぇ。嫌になっちゃうわ」と言っていた。


 厳しそう、近寄り難い、話し掛け辛い。

 それが萬狩自身が知っている、他人から自分への評価だった。


 別れた妻についていった息子達のうち、次男の方が「最後まで父さんの考えている事が分からなかったな……」と申し訳なさそうに呟いていた言葉が、何故か耳にこびりついていた。


 

 恐らく萬狩自身も、年月を経て彼らの事が分からなくなっていたから、その言葉が耳に残っているのかもしれない。二人の息子は、利口で賢く誠実だったが、萬狩は彼らの好きな食べ物も、熱中している事柄も、仕事やプライベートな付き合いに関しても知らないでいた。


 それに気付かされたのは、離れたこの土地で暮らし始めてからだ。萬狩は、これまで自分は父親として、家族の会話をしてきただろうかと、ようやくそんな疑問を感じ始めてもいた。



「お前、兄弟はいるか?」


 何気なしに問い掛ければ、仲西がきょとんとした顔を向けて、それから幼い少年のような笑みを浮かべた。


「僕は一人っ子ですよ」

「俺には二人子供がいて、どっちも男なんだが……」

「へぇ! いくつですか?」

「二十五と、二十八だ。お前より少し年下だな」


 答えると、仲西は「へぇ」と相槌を打ちながら、食事を終えたシェリーの首を片手で器用に撫でて思案した。


「じゃあ、ジュースを片手に同じアニメを語れますね!」

「――おい待て。どこでアニメの話に繋がった?」

「え、同じ世代でしょう? 朝と夕方に放送されていたアニメの黄金時代ですし、結構盛り上がるじゃないですか」


 まるで自信たっぷりに仲西は言った。


 うちの息子達はどうだっただろうか、と萬狩は少しばかり考えた。幼少期は活発に外を走り回っていた息子達は、小学校の高学年からは、ニュースや勉強番組は見ていたが、そもそも当時からアニメの話題はなかったように思う。


 萬狩は、成人した彼らとの少ない会話も思い起こしてみた。食卓やリビングでの話題のほとんどは、新聞やニュース番組からのもので、どれも仕事や生活に関わるものだった気がする。


 つまり、同世代だからといっても、彼らと仲西青年の話が合う気がしない。


「……息子とは、経済の話をした事はあるが」

「それって面白いんですか?」


 僕には分からないなぁ、と仲西が困ったようにぼやいた。


「漫画の大人買いとか、アニメの大人借りとかはしないタイプの方ですか?」

「なるほど。つまり、お前の中ではアニメがブームな訳だな?」

「ついでに自慢しちゃうと、給料が入ったらお菓子の大人買いもします!」

「…………」


 お菓子を購入する機会もなく、息子達もそのような行動を取らなかったから、萬狩にはどうも理解し難いもので、もはや返す言葉がなかった。


              ※※※


 軽くシャワーを済ませて身支度を整えた後、萬狩は、セダンの後部座席に仲西青年と老犬シェリーを乗せ、後部座席を気にしながら慎重に車を走らせた。


 後部座席から仲西の道案内を受けながら、萬狩はハンドルを切った。白み始めた空に雲の影はなく、冷房の効いた車内で流れる沖縄放送のラジオからは「本日もご機嫌なほど晴れそうですね」と女性の声が語っていた。


 シェリーは驚くほど大人しくしていたが、人間である仲西青年の方が落ち着きなかった。「上等な車ですねッ」「CDはないんですか?」「シェリーちゃん優雅に座っちゃって、利口な子だね!」と犬よりも興奮した様子ではしゃぎ、萬狩は頭が痛くなった。


 実に騒がしい二十九歳だ。

 これが俺の長男より一つ年上だとは、どうにも思えない。


 少しは隣の犬を見習えと言ってしまっていいのか、少しは落ち着けと嗜めた方が効果があるのか、と萬狩は真面目に考えてみた。ものは試しだと、赤信号で車が止まったタイミングで肩越しに振り返り、「おい」と注意するような強さで声を掛けた。


 しかし、仲西青年はそれを何だと察したのか、分かりましたと言わんばかりに瞳を輝かせて「はいッ、飴玉食です!」と手渡してきて、――萬狩は、その他諸々について諦める事にした。



 日曜日の早朝という事もあり、走っている車の数は少なかった。萬狩が運転するセダンは国道をスムーズに進み、自宅から少しの距離にある名護の整備された海浜公園へと到着した。



 広い駐車場には、数台の車がまばらに停まっていた。歩道側でジョギングをする若い男女、犬を散歩する中年の女性、海岸沿いで釣り竿を構えている中年男性の姿はあったが、砂浜には誰もいなかった。


「こっち側は最近出来た場所で入口も分かり難いから、そんなに人も来ないんですよ」


 シェリーに散歩用の紐を繋いだ仲西が、リードの先を萬狩に手渡しながら、得意げにそう言った。


 犬のリードを持つのは、上の息子が小学生だった頃に、友人から犬を預かって以来の事だ。足元に大人しく座ったシェリーを前に、萬狩は、不慣れなリードを何度か持ち直した後、老犬自身に「いいか」となんとなく尋ねてしまった。


 シェリーは萬狩を見上げたまま、コックリと肯き返した。仲西が「必要品ですよね」と言いながら、後部座席に置いてある紙袋の中身を確認するそばで、彼女は待ちきれない様子で尻尾を振り、先に行こうと誘うように立ち上がって、その場でくるりと回って「ふわ、ふわんっ」と吠えた。

 

 どうやら、この老犬が『散歩が好き』というのは本当らしい。クッキーの時と同じ強い催促の空気を察し、萬狩はふうっと吐息をこぼして、仕方なく車のキーを仲西に手渡した。


「萬狩さん、この鍵ってなんですか?」

「先に行く。鍵はちゃんとかけろよ」


 言葉数少なく告げた萬狩は、仲西青年の無駄に元気で楽しそうな「了解です!」という返事を背中で聞きながら、シェリーに催促されるがまま歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ