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二章 萬狩と老犬(3)~仲西という青年~

「萬狩さんは、お一人なんですか?」


 パンジーの花が庭先で見られるようになってから、一週間以上が過ぎた頃、リビングでシェリーの身体を丁寧に拭いていた仲西青年が、唐突にそう訊いてきた。


 萬狩はちょうど、食卓で二杯目の珈琲を飲みながら、会社から送られてきた資料に目を通していて、突拍子もないその質問を理解するのに数秒ほどかかった。


 訝しげに思いつつ仲西青年を見やれば、無邪気な眼差しで彼の返答を待っていた。いつもの萬狩であったなら、妬みや嫌味をかねた詮索なのだろうかと疑うところだったが、仲西青年の子供じみた瞳の輝きを見ると、違うようにも思えて扱いに困った。


 約二ヶ月間の付き合いで、萬狩は、仲西青年の性質について把握しつつあった。若いこの青年は、物事を深く考えないタイプの人間で、今時の若者にしては珍しく人を疑わず、憎まず過ごしており、彼の頭の中は常に平和らしいと知れていた。


「……一人暮らしだが、何か?」


 萬狩は長い逡巡の後、その質問に深い意味はないだろうと結論して答えた。


 すると、仲西青年が呑気な表情のまま、幼く見える瞳をより一層輝かせた。


「お暇そうですね」

「お前、それは嫌味か?」


 もしかしたら、これは性質の悪い嫌がらせの一環なのかもしれない。


 萬狩は思わず顔を引き攣らせたが、仲西がすぐに「違いますよ~」と陽気に否定してきた。


「萬狩さんは、まだ元気いっぱいって感じですし、お仕事はされていると思うんですけど、時間があり余ってそうですし、実を言うと僕は日曜日が休みなんです!」

「……すまない、話の脈絡が全く見えてこないんだが。俺が老いているせいで、君とのコミュニケーション能力に隔たりでも出来ているのか?」

「萬狩さんは、作家さんか何かですか?」

「おい。また話が飛んだぞ」


 一体何なんだ、と萬狩は目頭を指で揉み解した。


「今日は、やけに質問が多いじゃないか」

「いいから、いいから。で、どうなんですか?」

「……まぁ、在宅勤務のようなものだ」

「じゃあ日曜日は暇ですよね? 時間がありますよね? 僕はバイクしか持っていないんですけど、後部座席でシェリーちゃんの面倒は見れますし、だから海に行きましょうよ!」

「は……?」


 萬狩が思わず視線を向けると、仲西青年が両手を広げてもう一度「海に行きましょうよ~!」と、花が咲くような無邪気な笑みを浮かべた。


「シェリーちゃんを散歩させる時は、いつも二人体制でして、車で目的地に向かって、少し歩かせる感じなんです」

「待て待て待て。どこでどうなったら、お前と俺の、男二人で遊びに行く事になるんだ?」

「シェリーちゃん、今は萬狩さんの愛犬でしょう? だから、僕が丁重にお供させて頂きますッ」

「丁重に断るという選択肢もあると思うんだが」

「え、今週は都合が悪いんですか? 天気予報では晴れるらしいですよ?」


 途端に、仲西が悲しそうな顔をした。彼の手が止まった拍子に、シェリーが不思議そうにこちらを見てくる。その眼差しには、行かないのか、という失望感が滲んでいるような気がした。


「…………こいつは散歩が好きなのか?」

「犬はみんな散歩が大好きですよ。僕は今、猛烈に砂浜を歩きたい気分です!」


 素早く元気な挙手をして、仲西青年が断言した。


 つまりは、仲西青年自身が、海に遊びに行きたいというだけの話なのだと気付いて、萬狩は眩暈を覚えた。


「確かに泳ぐには良い暑さかもしれないが、こいつをダシに俺を誘うんじゃない。それなら、若い友人とでもいけばいいだろうが」

「近い距離に、すぐに遊べる友人はいません! みんな結婚して子供がいて、独り身は僕ぐらいのものです!」


 仲西は、文章にすると侘しいともとれる内容を、自信たっぷりに主張した。萬狩は、続いて頭痛まで覚えたが、ふと疑問を覚えて彼へ視線を戻した。


「……『結婚』? そういえば、お前は一体幾つなんだ?」

「僕は二十九歳になりますッ」

「そうか、二十九…………おい、ちょっと待て。二十九歳にしては全く落ち着きがないな? もう一つ訊くが、お前は彼女もいないのか?」


 萬狩は、まさか仲西青年が自分の息子達より歳上だとは思っていなかったので、少し驚いてしまった。そもそも、萬狩がそのぐらいの歳には、次男が誕生していたのだ。


 こいつは童顔のうえ、精神年齢も若いのだろうか?


 萬狩が思案していると、仲西が数秒も考えず「大学時代以来、恋人はいません!」と朗らかに答えた。


「安心して下さい。僕は泳げないので、素足を海に少しつけるだけで満足できます!」

「すぐ近くに海があるのに、お前は泳げないのか?」

「泳げないです。でも沖縄じゃ珍しい事でもないですよ。近くにあるからこそ、泳ぎにいかない人が多いんです。まぁ、スイミングスクールに通っていた子は別だけど」

「はぁ、なるほどな……」


 催促するようなシェリーの眼差しに折れて、萬狩は「どうせ俺は暇なのだから、そっちで勝手に予定を立てればいいじゃないか」と投げやりに答えた。


 すると仲西青年が「任せて下さいッ」と意気込み、タオルからドライヤーへと持ち替えて、シェリーに「楽しみだねぇ」と声を掛けて乾かし始めた。


「近くに海岸があるので、そこに行きましょうよ、萬狩さん。出発は午前六時頃がいいですかね」

「やけに早いな」


 萬狩が不思議に思って尋ねると、仲西青年は「えへへ」と幼い感じで笑った。


「砂浜まで犬を入れていいのか分からないので、人のいないうちにって事ですよ」

「…………」


 つまり、確信犯というか――そういう事なのだろう。


 萬狩は遅れて気がつき、怒られるのは年長者である俺だろうな、と思い至って憂鬱になった。しかし、例の老犬の様子を窺おうと目を向けたところで、一つの事に気付いて「おい」と仲西に疑問を投げた。


「そういえば、こいつは首輪をしていないようだが、リードはどうやって繋ぐんだ?」

「しまった……!」


 仲西が途端に、「どうしよう」とうろたえ出した。


「そういえば、前の飼い主さんの立派な首輪、散歩した時に僕が壊しちゃったのすっかり忘れてましたッ」

「なんだ、千切れたのか?」

「いいえ、金具の部分が割れてしまったんです。なんとかっていうブランドの皮製のもので、こう、ダイヤの飾り物がついていて、キラキラした感じの装飾品もあった、アンティークチックなやつなんですけど」


 身ぶり手ぶりで説明する仲西に、萬狩は、しばし掛ける言葉を失った。


「……一体そんな高価な代物を、どうやって壊したというんだ?」


 高価なものであれば、そんな簡単には壊れないだろう。

 いや、しかし、年代物なら可能性がなくもない、のか……?


 いや、深くは考えるまい、と萬狩は頭を振った。実はこの青年が超ド級の不器用さがあるだとか、本人の意図とは関係なしに周りに被害を振りまく悪運体質だとか、もしくは本人の頑張りとは予想外の展開を巻き起こす天才だとか、そういう事は想像したくない。


「まぁいい。その高そうな首輪やダイヤの行方は聞かないでおく。こいつの首輪は、俺が買っておこう」

「えぇッ、ダイヤの行方を聞かないんですか? 弁護士さんが引き取りに来たんですけど、怒りもせずに持って帰ってしまったっていう後日談も、ちゃんとあるのに……あ、首輪なら僕の店にも置いてますよ」


 仲西が胸を張ってそう言ってきたが、萬狩は彼のセンスを疑い「俺が買っておく」と断った。


 一応、シェリーは今、萬狩の犬という事になっているのだ。長い毛だからほとんど隠れてしまうだろうが、ピンクにひらひらのついた乙女チックな目立つ首輪だったら、嫌だなと思った。何となくだが、仲西青年なら、確実にそのあたりを選んで持ってきそうな予感があった。


 オススメの可愛い首輪を持ってきますから、と仲西がしつこく食い下がってきたので、萬狩は予感が現実になる戦慄を覚え、「えぇい今すぐ買ってくる!」と告げ、仲西青年に留守を任せて、近くのホームセンターまで車を走らせた。


 犬用の首輪は色も種類も多かったのだが、萬狩は、シェリーが中型犬以上の大きさで、なおかつ老犬である事を踏まえて慎重に選んだ。



 萬狩は数十分ほど、犬用のグッズ・コーナーを見て回り、結局は首に負担のなさそうな、細くてシンプルなオレンジ色の首輪を選んだ。ベルト周りに青い線が入っていて、上品な程度に花柄も付いている。


 シンプル過ぎる単色の商品よりも、毛並みがきれいで大きな身体をしたシェリーには、これが一番合うような気がした。

 


 帰宅すると、仲西が「早速付けましょうッ」といって、萬狩からレジ袋を受け取り、商品を見るなり「シェリーちゃんにぴったり!」と評価して、嬉しそうにそれを彼女の首に手際良く付けた。


 シェリーは、嫌がりもせず首輪を受け入れた。


 長い毛の間から覗くオレンジ色の首輪は、確かに彼女に良く似合っていた。


 シェリーは首輪の着け心地を確かめるように少し歩くと、満足げに座って「ふわ」と鳴いた。萬狩はむっつりと顔をそらし、「たまたま目に止まったやつなんだ」と唇を尖らせた。


 しかし、シェリーは尻尾で上機嫌に床の上をすり、都合良く人間の言葉が理解出来なくなったと言わんばかりに「ふわんっ」と胸を張って吠えたのだった。

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