二章 萬狩と老犬(1)~六月、突然の雨と共に~
沖縄は六月の上旬から梅雨が始まり、一週間ほど、しつこいほど途切れずに雨の日が続いた。窓を開けると雨が入り込んできてしまう事もあって、そうなってしまうと自宅内の冷房機はフル稼働で、雨が降るたび蒸し暑さも増した。
一週間前に庭の手入れをしたはずだったが、数日振りに晴れた朝、庭先へ出た萬狩は、そこに空き地のような原っぱが広がっているのを見て愕然とした。
庭には、黄色い蝶が数匹飛んでいた。足を踏み込むと一匹ときかないバッタが跳ね、思わず「マジかよ」とらしくない砕けた言葉が、萬狩の口をついて出た。あの努力は一体、と彼はしばし打ちひしがれてしまった。
緑が再び豊かになった庭のド真ん中で沈黙する萬狩の隣を、シェリーが陽気な足取りで通り過ぎて、意気揚々と顔を上げて庭の散策を始めた。蝶を追いたいのか、跳ねたバッチを捕えたいのかは分からないが、時折、鼻先を上に向けて匂いを嗅ぎ、「ふわ、ふわわ」と例の個性的な声で上機嫌に鳴いた。
晴れた庭先で衝撃を受けたその日は、老人獣医と青年の訪問日でもあった。萬狩はすぐに庭に着手出来ず、ショックの余韻が続く中、別々の車でありながら、偶然にも揃ってやって来た彼らを出迎えた。
仲村渠獣医が、老犬と付き合いが長い事を思い出したのは、ちょうど仲西青年がシェリーの風呂を終えたタイミングだった。
帰り支度を始めた仲村渠老人に、萬狩は、それとなく前家主について尋ねてみた。老いた彼は、少し驚いたように萬狩を見つめ「前の家主様について、ですか……」と口の中で反復した。その声色には含むものを感じたが、のんびりとした老人獣医の表情はよく読めなかった。
老人獣医は、数秒ほど華奢な顎を撫で、それから、人の好きそうな笑顔に戻してこう言った。
「そうですねぇ。前の家主様は生粋のお嬢様育ちで、品のある人でしたよ。時々、庭先で育てたハーブでビスケットを焼いていましたねぇ。家には専門のお手伝いさんみたいな人が数人はいたけれど、趣味でやっていた家庭菜園で、重い肥料の運搬なんかは手伝ったりするぐらい、行動力のある女性でもありました」
そばでシェリーの濡れた身体をタオルで拭いていた仲西青年が、小首を傾げつつ「そういえば」と口にして、萬狩へ顔を剥けた。
「僕も、前任の大城さんから、行動力のある活発な方だったと聞いた事がありますよ」
二人の話を頭で整理し、萬狩は「ふむ」と顎を触った。
つまり、前家主であった女性は、この広い庭で花や野菜を植えて楽しんでいたという事だろうか。しかし、それにしては広すぎる。老犬がいる間は大きく手を加えられないから、小屋も建てられないしなぁ……
萬狩の眉間の皺を見て取った仲村渠老人が、それを庭の手入れの悩みだと勘違いしたのか「一度、専門の方に手入れさせてはいかがでしょうか」とアドバイスした。
「一度きれいに整えてもらいながら、手入れの仕方を専門家に習ってみるのも、近道かと思いますよ」
人の良い獣医は顔を柔和にやわらげて、ふんわりと笑った。萬狩は小さな声で「考えておこう」とだけ答えた。
彼らが帰った後、萬狩は庭について少し考えてみたが、不思議と獣医の言った方法を取る気は起こらなかった。重い腰を上げたところで雨が降り出して、その日の夜になるまで止む事はなかった。
不動産からは、家の管理や整備に必要な連絡先が記されている電話帳をもらってはいたが、結局、彼がそれを開く事はなかった。
※※※
翌日の午前中は晴れたので、萬狩は、その時間を使って一部の雑草を刈り取った。ついでに家の周りに伸び始めていた雑草も、軍手をはめた手で引き抜いていくという地道な作業を行った。
ちょっとだけだと決めて軍手で挑んだというのに、いつの間にか時間も忘れて作業に没頭していた。
先程まで近くを歩いていた老犬の姿が見えない事に気づいて、萬狩は、ようやく手を止めた。最近、あの老犬が目の届く範囲内にいる事が普通になってしまっていたから、姿がないと、知らず目で探すようになっていた。なんというか、見えないと何をしているのか気になる。
辺りを見回した萬狩は、ふと、自分の腹の虫が鳴く音を聞いた。もしや、と思って時刻を改めて確認したところで、シェリーの昼食時間を少し過ぎてしまっている事に気付いた。
しまった、と思いつつ靴を脱いでリビングに上がれば、老犬は自分の食事場となっている銀の皿の前でうつ伏せになっていた。
「…………」
その光景を見て、萬狩は少しの沈黙してしまった。
犬というものは、決まった時間にメシを食べるらしいが、不貞腐れたような姿で待つというのも、如何なものかと思われた。まだ知り合って三週間と少しとはいえ、一緒に暮らしているのだから、ご飯の催促ぐらいしてくれれば、萬狩だってこんなに待たせる事はなかったはずである。
「全く。大人しすぎるのも問題だなぁ」
萬狩は頭をかき、愚痴りつつも老犬の食事を用意し、ついでに自分には即席のサンドイッチを作った。シェリーは腹をすかせて不貞腐れていた割には、非難するような眼差しも寄越さず、丁寧に咀嚼してゆっくりと食べた。
食事をしていた萬狩は、ぽつりぽつりと雨粒が落ちる音に気が付いた。先程まで青空が見えていた空を見れば、頭上に大きな雨雲の群れが集まっている。
ほんの短い間で、バケツをひっくり返したような勢いで激しい雨が始まった。
先程の雑草むしりの作業で疲労を覚えていたが、萬狩は、のんびりと食事を続ける老犬をリビングに残し、大急ぎで家中を駆け回って全ての窓を閉めた。くたくたになってリビングに戻ると、老犬は相変わらず食事中だった。
萬狩は「悠長な犬だな」と顔を顰め、タオルで腕や顔にかかった雨の雫を拭い、ソファにどかりと腰を降ろした。予定もないままテレビをつけると、動物を追ったテレビ番組がやっていた。
様々な犬達の喜怒哀楽の様子に加えて、犬達が興奮した際の飛び跳ねるシーンも映った。萬狩は、大型犬に顔を舐めまわされている女優が気の毒に思えたが、そう言えば、犬とはそういうものであったと思い起こされた。シェリーが、あまりにも大人し過ぎるのだ。
その時、玄関の呼び鈴がけたたましく鳴り響いて、萬狩は飛び上がった。
外の雨はいよいよ勢いを増しており、まさに嵐だ。
ゲリラ豪雨の中で、唐突に予定もない訪問というのも心臓に悪い。萬狩は友人もいない土地に一人で移住しており、尚且つここは山の上の一軒家だ。隣近所の家は存在していないし、だから月曜日の他は、決まった訪問者もないはずだった。
シェリーが顔を上げて、真っ直ぐ耳を立てた。萬狩は初めて、老犬が緊張した雰囲気を発していると気付いた。そうしている間にも、玄関の呼び鈴を鳴らした人物が、続けて何事かを言いながらドンドンと玄関を叩き始める。
まさか強盗とか、そういうものじゃないだろうな……?
以前住んでいたマンションや一軒家に比べて、ここは、防犯機能がほとんどないに等しい家だ。萬狩は、最近読んだ海外のサスペンス小説を思い出して、ゴクリと唾を飲んだ。
慎重に玄関まで進み、そっと覗き穴から確認すると、それは、ビニール製のレインコートを着た二人の警察官だった。途端に萬狩は「やれやれ」と安堵の息を吐き、玄関を開けた。
「一体何事かね?」
「こちらに新しく住まわれている萬狩様、でよろしかったでしょうか?」
「ああ、そうだが」
「フィリピン沖で台風が発生しており、進路によっては、強い影響で酷い雨が続く可能性があります。その場合には、土砂崩れ等の危険が発生する場合もありますので、警報が出た際は、こちらまで避難して頂きますようお願いします」
五十代手前と思われる警察官が、レインコートの下から、知らせの用紙を取り出した。
萬狩はそれを受け取り、避難所を確認した。そこは足を運んだ事もない場所だったが、地図を見れば辿り着けるらしいとも察せた。向こうで暮らしていた時にはなかった忠告だったので、萬狩は戸惑う眼差しを返しつつ、彼らに一つ肯いて見せた。
「わざわざどうも……」
「いえ。以前、街へと続く道に土砂が流れてしまって、交通手段が絶たれてしまった事があったものですから。まあ、五年も前の話なんですがね」
彫りの深い浅黒の中年男は、そう言って困ったように笑った。隣にいるのは新人警察官だろうか。見るからに若く、その瞳は豪雨の中でも、正義感できらきらと輝いているように見えた。
その時、駆ける獣の足音が耳に入って、萬狩はハッと反射的に振り返った。
視界を過ぎる大きな黒い影に気付いたが、それは止める間もない素早さで宙を飛び、外へと躍り出てしまっていた。
室内から弾丸の如く飛び出していった大きな影は、老犬のシェリーだった。若い警察官が慌てて追い駆け、取り押さえようとしたが、途中の砂利に足を取られて激しく転倒した。
シェリーは、警告灯の回るパトカーの横に回り込むと、堰を切ったように激しく吠え始めた。激しい雨に身を打たれながらも、豪雨に負けない声を腹の底から張り上げ、耳と尾を垂らして歯を剥き出す姿は、まるで獰猛な番犬を思わせた。
「やめないか!」
萬狩はシェリーを止めるべく、室内用スリッパのまま外へ飛び出した。しかし、興奮しきった大型犬の凶暴性を前に、自分が動物を落ち着かせる方法を何も知らないのだと気付いて、立ち尽くしてしまった。
すると、中年の警察官が萬狩の脇を飛び越え、すかさずシェリーの背に飛びかかり、後ろから抱きしめるように彼女を羽交い締めにした。
どうやら中年の警察官は、こういった中型犬の対応に慣れているようだ。例えば、それは警察犬の扱い方でもあるのかもしれない。激しく身をよじる中型犬を相手に、彼は、怪我をさせない程度の力でガッチリと抑え込み、離さないまま「どうどう」と声を掛けた。
「大丈夫だから、落ち着きなさい」
大丈夫だから、と警察官は優しく訴えるように、何度もそう告げた。徐々に落ち着き出した老犬に合わせて、彼は自分の声量も落としていった。
シェリーは次第に力を失くし、最後は懇願するように「クゥーン、クゥーン」と啜り泣くような細く長い声を上げた。老いた四肢で砂利を思い切り蹴ったせいか、老犬の足からは薄らと血が滲み出てもいた。
萬狩は、大きくて逞しい番犬が急速に老いてしまうような衝撃を覚えて、しばらく動けずにいた。ぐったりと動かなくなったシェリーを、中年の警察官が持ち上げようとする様子に気付いて、ようやく我に返り、慌ててそれを手伝った。
転んでしまっていた若い警察官もやって来て、雨に濡れた重い大型の老犬を、三人がかりで家の中へ運びこんだ。
「犬を興奮させてしまったみたいで、申し訳ない」
シェリーをリビングに運び、一通り彼女の濡れた身体をタオルで拭った後、中年の警察官が残りを後輩に任せ、恐縮しきった様子で何度も萬狩に謝った。
「いや、そんなに頭を下げんで下さい。普段は大人しい犬なんですが、私にも、何がなんだか……」
互いに頭から濡れてしまっていたので、萬狩は、自分の分のタオルを確保しつつ、二人の警察官にも「これを使って下さい」と手渡した。
警察官達が老犬の身体を拭いている間に、萬狩は、仲村渠獣医の店に電話を掛けた。電話に出たのは野太い声をした若い男で、彼は萬狩の話を一通り訊くと、「すぐに先生を向かわせます」と告げて電話を切った。
先程まで稼働していた冷房機は、シェリーを運び込んだ時点で止めていた。謝罪する警察官に「大丈夫ですから」と言って帰ってもらった後、萬狩は、ドライヤーで老犬の身体を乾かしに掛かった。
シェリーは嫌がる素振りも見せず、萬狩が敷いたバスタオルの上に伏せたまま、大人しくドライヤーの熱風を受けていた。
酷く疲労したようで、老犬はぐったりとして動かなかった。萬狩としても、まさかこの犬が、あんなに速く走り、玄関から外へしなやかにジャンプするなど考えてもいなかったから、戸惑いは続いていた。
獣医の仲村渠が駆け付けたのは、それから少し経った頃だった。
やってきた老人獣医は、老犬を見るなり「おやおや、無理をしたんだねぇ」と目と言葉で彼女を労わった。手早く四肢の様子を確認して消毒を行うと、薬を塗り始める。
「サチエさんが亡くなったのが、この時期でしたからねぇ……恐らくは、勘違いしてしまったのだと思います」
「『サチエさん』……?」
「――ああ、これは失礼致しました。以前の家主様の名前なんですよ、萬狩さん。彼女は、私より年上の女性でした」
どこか遠い目で、仲村渠はシェリーの足の傷を見つめていた。傷薬を塗り終わると、皺だらけの細い手で老犬の頭を優しく撫でながらも、萬狩に言葉を続けた。
「サチエさんは救急車で運ばれて、長期入院となったのですが、長い事入院生活を続けた後、そのまま帰ってくる事はなかったのです。この子は、サチエさんが死んだ後も、ずっと玄関先で待ち続けていました。もう帰って来ないんだよと、私達がどんなに言い聞かせても、しばらくは理解してくれなかった。……あの頃の記憶は、まだ彼女の中で、色褪せていないのでしょうねぇ」
老犬は撫でられる事が心地いいのか、獣医の手に頭をすり寄せた。甘えるように鼻先を寄せて、思う事でもあるように、そっと目を閉じる。
それは、ほんの少しの仕草だったが、萬狩には何だか、老犬が泣いているように見えた。雨の中で初めて聞いた、彼女の寂しげな声が耳に蘇り、まるで、この世の終わりと絶望を嘆くようだと思った。
「後悔しているのかね、シェリー? あの時、彼女が乗せられた救急車を、そのまま見送ってしまった事を……?」
仲村渠が、どこか寂しげな微笑を浮かべ、老犬を深い慈愛の滲む眼差しで見降ろした。
「でも、仕方ないじゃないか。身体に悪いところがあれば、病院へ行かなければ良くはならない。お前も、それは知っているだろう? 今度も、彼女はきっと元気になって戻って来ると、私達は、誰もがそう信じて――信じて、願って、そう疑わなかったんだよ」
語る老人の声は、涙を堪えるように深く優しくて、萬狩は「ああ、彼は前家主と浅い付き合いではなかったのだ」と気付いてしまった。
シェリーは、人の暮らしや言葉も理解しているような賢い犬だ。もしかしたら彼女は、挨拶も交わせなかった別れを信じたくなくて、きっと、女主人が自分を迎えに来てくれる事を信じて、願っていたのかもしれない。
叶わない願いだと知って、だから、悔いてもいるのだろう。
諦めきれない想いが残っていて、それは、ふとした時に時間の逆行のように彼女の中に強烈に蘇り、普段の冷静さを失わせるほど、強い想いなのかもしれない。
萬狩は、先程初めて自分から触れた老犬の温もりを思い出しながら、入り込めないような事情を知る老人と老犬の触れあいを、ただ見つめている事しか出来なかった。