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九章 最期を見届けるという事 上

 少し眠ろうと、ソファに座ったまま目を閉じた萬狩は、ねだるような犬の鳴き声に、ふっと浅い眠りから目を覚ました。


 つけられたままのテレビでは、深夜のニュース番組が始まっていた。壁に掛かっている時計を見ると、あれから二時間が過ぎている。


 腰の痛みに顔を顰めながら顔を向けると、座る彼の横にシェリーが両方の前足をついて、「くぅーん」と珍しい声で鳴いていた。「どうした」という言葉を掛けると、同じ調子で数回、細い鳴き声を返された。


 クッキーを見せても食べようとはせず、遠慮がちに手を伸ばして頭を撫でてやると、ようやく落ち着いたようにシェリーは鳴くのをやめた。


 彼女は夜も食事が細かったので、腹は減っているはずだ。


 萬狩はそう考えて、これまで老犬が好んで食べていた犬用の柔らかいフード缶を開けて、彼女のご飯皿に盛った。普段であれば、そうしている間に足元に辿りついているはずのシェリーを振り返ると、まだ遠い位置をのろのろと、危うげな足取りで進んでいた。


 つい先程までは、ゆっくりと歩けていたはずの彼女の足取りは、すっかり重くなっていた。


 シェリーの身体が、急速に弱っているのだ。


 そう察して、思わずご飯皿を置く手が僅かに震えた。どうにかいつものようにぶっきらぼうな口調で「ご飯だぞ」と言えば、シェリーは、いつものように尻尾を振って食べ始めたが、結局は半分も食べ切らないうちに満足そうな顔をした。


「俺は、同情なんて、していない」


 誰に告げる訳でもなく言い聞かせながら、頭の中では、既に寝室から毛布と彼女の籠を取って持ってくる算段を立てていた。寝室は暖房をつけても、こちらの部屋より寒いのだ。リビングで眠った方が、シェリーの身体の負担も少ないだろう。


 萬狩がリビングを出て行こうとすると、シェリーがまた「くぅーん」と悲痛な声で鳴き始めた。いなくなる事を恐れるような声に、胸が締め上げられる思いがした。


「――今日は、リビングで寝ようと思ってな。何、俺だって、そういう気分になる時もある。だから、少し待ってろ」


 とにかく彼女を不安がらせないよう、彼はそう言い聞かせた。きっと、シェリーはもう寝室に向かう事さえ辛いのだろう。だから、こうして引き止めるのだ。



 理解したように、老犬がその場に腰を下ろすのを見て、萬狩は素早くリビングを出た。半ば駆けるように寝室に向かうと、毛布と彼女の籠、それからブランケットと厚地のダウンジャケットを引っ張り出した。


 その間、シェリーが細く鳴き続ける声が聞こえていた。その声は、まるで世界が終わるような悲しみと不安を伝えてくるようだった。



 来た道を走って戻った萬狩は、彼女のベッドである例の籠を、電気ストーブの熱があたる危険にならない位置に置いた。籠の中にあるクッションの上にブランケットも敷き、その隣に、自分が横になれるよう簡単に毛布を整え敷く。


 寝床が整っても、シェリーは落ち着かない様子だった。瞳は眠そうにして力がなかったが、萬狩がリビングの電気を消しても、足を引きずりながらリビング内をのろのろと歩き続けた。


 音量を下げたテレビの明かりだけを頼りに、萬狩は、シェリーの行動を見守っていた。彼女は、萬狩がいる位置を何度も確認しながら、床の匂いを嗅ぎ、時々立ち止まって前足で掘るような仕草をし、再びのろのろと足を進める。


 消灯してテレビだけを付けているという状況のせいか。冷え込んだ夜独特の静けさのせいか、昔、長男が夜泣きをした事があったなと、萬狩は、不意にそんな事を思い出した。



 次男の翔也は、年末に生まれた子供だった。妻が念のためにと入院待機したその夜、長男の和也は、不安がってなかなか寝付けないでいた。萬狩は今と同じように毛布を引っ張ってきて、リビングのテレビだけをつけて、幼い和也をソファの隣に座らせたのだ。


 一緒に暖かい毛布にくるまって、何をする訳でもなく、互いにテレビを眺めて過ごした。テレビが通販番組だけとなった頃に、和也はようやく寝入ってくれたのだ。



 それは、父と幼い長男だけで過ごした、ひどく静かな年の暮れの夜だった。こんな時に妙な事を思い出すもんだと、萬狩はそう思いながら立ち上がった。


「おいで、シェリー。少し風にでもあたろう」


 萬狩はそう声を掛け、シェリーが動くのを待った。


 彼はこの老犬を、日常生活から遠ざけてしまうような事をしたくなかった。すると、シェリーが耳を立てて萬狩の方を振り返り、嬉しそうに尻尾を振って、ゆっくりと彼の後を追い始めた。


              ※※※


 いつものように一人と一匹で、リビングの窓を開けて庭先に出た。


 外は冷気が満ちて静まり返り、雲一つない星空が彼らを見降ろしていた。細い三日月がやけに眩しくて、一見して手製だと分かる花壇に咲いたヒナギクが、月明かりに照らし出されて、よく映えて見えた。


 萬狩とシェリーは、花壇の前で立ち止まり、しばらく一緒に庭先を眺めた。シェリーは、遠い昔を思い出すように、ゆっくりと一つ一つの方向へ顔を向けた。そして、それからしばらくもしないうちに、彼の足に頭を擦りつけて踵を返した。


 もう十分らしいと分かって、萬狩も、彼女と共にリビングへと戻った。


 リビングに戻ると、シェリーは真っすぐ籠の中に入った。しかし、数分もすると、また不安そうに「くぅーん」と鳴き始めた。「眠るのが怖いのか」と萬狩が囁き問い掛ければ、肯定とも否定とも取れない様子で、老犬は細い声を上げる。


 萬狩はダウンジャケットを着込むと、彼女の顔が見える位置で横になった。シェリーの頭を、不器用ながら長らく撫でて、何度もこう言い聞かせた。


「大丈夫だ、俺はここにいる。どこにも行かない。また午前三時に、いつもみたいに夜空の観賞でもしようじゃないか。お前がその気なら、もっと早くに起こしてくれても構わないんだぜ」


 撫でる腕が痺れ始めた頃、シェリーがようやく眠りに落ちた。テレビの小さな音と、暗く暖かいリビングの環境に眠気を覚え、萬狩も、少しの間だけ目を閉じた。



 眠りは、浅く短かった。



 少し経った頃、萬狩は再び「くぅーん」という鳴き声に意識が引き上げられた。目を閉じていた一瞬、それが、幼い子供の悲しげな泣き声のように聞こえた。


 シェリーは、十数分から二十分内の目覚めを繰り返し、寂しがるように細い鳴き声を発した。萬狩は、彼女が浅い眠りから目覚めるたび、頭や首のあたりを撫でて宥めた。


 それが十数回ほど続いた後、横にならない事を決めて、シェリーが意識を手放している事を確認してから、眠気を振り払うように立ち上がった。多めに濃くブラック珈琲を淹れてから、彼女の籠のそばに座り直す。


 シェリーの浅い眠りが、目覚めを繰り返すごとに短くなってきている事を、萬狩は感覚的に察していた。テレビでは馴染みの通信販売が始まっていて、時刻は既に、明朝に差し掛かる頃だった。


 萬狩は珈琲を飲みながら様子を見守り、シェリーの目がゆっくりと開かれるたび、そっと手を伸ばして彼女を優しく撫でた。「俺はここにいるぞ」――そう手と声で温もりを教えると、彼女は、少しだけ安心したように目を閉じて、再び眠りに落ちた。


 どれくらい経った頃だろうか。


 テレビが砂嵐になり、しばし、ザァーっという耳障りな音が続いた。


 数十分もしないうちに、砂嵐が途切れて、土曜日の早朝一番の番組が始まった。萬狩は、眠たさと疲労に充血した目でそれを眺め、テレビ画面の端に表示されている時刻案内を見て、現在が朝の四時半である事を知った。


 眠気はピークに達していたが、寝る訳にはいかなかった。

 

 室内ではしないと決めていたのに、まだ結婚していなかった時代を思い出しながら、萬狩は、あの頃のようにその場で煙草に火をつけて吸った。煙草の煙が、やけにつんと鼻に沁みた。


 通信販売の番組が中盤に差し掛かった頃あたりから、次第に、老犬の呼吸が落ち着き始めた。


「シェリー……?」


 思わず声を掛けると、僅かに彼女の目が開かれて、微笑むような顔で「ふわ」と、いつものような鳴き声が返ってきた。それからシェリーは、どこか満足げな様子で再び目を閉じた。


 萬狩は、良い方に物事を考えようと務めた。けれど、聞こえる小さな呼吸音が安定するほど、シェリーの身体から力が抜け始めているのも分かって、彼の心臓は痛みと共に震えた。



 それから数十分すると、寝ている間もずっと、こちらの気配を探るように時折動いていた彼女の耳も鼻先から、その反応か消えた。



 シェリーは、まるで深く熟睡するように、こちらの呼び掛けにも応えなくなった。萬狩が自分を落ち着けようと、震える手で煙草に火をつけようとして、誤ってライターを取り落としてしまった時、彼女の耳はぴくりとも動かなかった。


 それを見て、萬狩は息を押し殺していた。煙草を持っていられなくなり、震える手で、床に降ろし置いた。


 老犬の穏やかにも思える呼吸音が、耳で分かるほどハッキリと、静かになっていくのが分かった。シェリーの浅く細い呼気は、一呼吸ずつ間隔が長くなっていき、それに対して膨らむ胸の動きは徐々に、少しずつ小さく弱くなり――……



 そして、とうとう、彼女が最後にすうっと長く息を吐き出して、その音がピタリと止んだ。



 どんなに待っても、シェリーが吐き出した空気を、再び吸い込む様子はなかった。鼻の先に手を当てても、そこに触れる吐息はなく、上下に膨らんでいた胸も動きが止まっていた。


 萬狩は、息を呑んだ。数秒ほど、手を伸ばしかけたまま動けないでいた。


 震える吐息を、どうにか大きく吸いこんで、まだ暖かい彼女の頭にごきちなく触れた。まるで、シェリーは眠っているだけのようだった。彼女はひどく穏やかな顔をしていて、その身体も、まだ暖かいままでいるのだ。


 触れる体毛は柔らかく、鼻先は濡れてもいる。

 それなのに、もう心臓が動いていないなんて、そんなのは嘘だろう……?


 目の前の現実を、出来る事なら否定してしまいたかった。萬狩は、震える両手で彼女の顔に触れ、不器用ながらに優しく撫でた。けれど、くったりとした老犬の首は重く、先程まで鼻先から聞こえていた愛しい呼吸音は、どんなに耳を澄ましても、やはりもう聞こえてはこなかった。


「シェリー……『可愛いかわいい、シェリー』…………」


 仲西や古賀が簡単に口に出来ていた言葉を、初めて口にした。途端に、ぶわりと胸が圧迫され、彼はそこで堪えきれずに泣いた。どんなに冷静に受け止めようとしても、涙は次から次へと溢れて、止まってはくれなかった。


 愛してしまえば、別れが辛くなる。そんな事は、萬狩だって知っていた。



 でも、仕方がないのだ。彼女が自分を主人として受け入れてくれた時から、……後ろをついてくるようになったその健気な姿や、笑うような顔や、その個性的な鳴き声すらも、もう随分と前から、愛おしかったのだ。



 萬狩は、彼女の柔らかい体毛に両手を埋め、名を呼んで抱き寄せた。


 安心しきったシェリーの幸福そうな寝顔を見ると、これまで一緒に過ごした日々が、堰を切ったように胸の内側から溢れ出した。ほんの数分前の事なのに、彼女の瞳の色や鳴き声が、無性に懐かしくて堪らなかった。


 もう一度、目を開けて欲しいと思った。


 犬らしかぬ、ふわふわとした、あの鳴き声が聞きたかった。


 晴れた夜空から降り注ぐような星々を、一緒に眺める夜が、本当はとても好きだった。後ろをついてくるようになってくれた事が嬉しくて、クッキーを食べた時の笑うような顔や、少し偉そうに胸を張って優雅に歩く姿を、楽しく思っている自分がいた。


 それを言葉にして伝えたいのに、もう、彼女に聞いてもらう事も叶わないのだ。萬狩は涙を止める術も知らないまま、彼女の身体を丁寧に横たえて「おやすみ」と告げた。弱々しく鳴いていた彼女が、寂しがらないようにその頭を撫で続けた。


              ※※※


 次第に空は白み始めて、外は明るさを増していった。


 シェリーの身体からは熱が抜け、ここにはいないのだという実感が彼の手にも伝わっていた。それでも、萬狩は彼女が寂しがらないよう、その頭をゆっくりと撫で続けていた。


 自分が取らなければならない行動を、泣き疲れた頭で、ぼんやりと思い浮かべた。シェリーと過ごせる時間は、もう数時間もないだろう。例の弁護士が、前飼い主に頼まれた通りの手配を、早々に済ませてしまうに違いない。


 萬狩は、シェリーと出会ってからの生活を、静かに振り返った。温もりのなくなった老犬の身体を撫でながら、「可愛いかわいい、シェリー」と、仲西がよく口にして伝えていた言葉を、己の唇からもう一度紡ぎ出した。



「――俺は、お前と過ごした日々が、何よりも愛おしかったんだ」



 そう、噛み締めるように呟いた。


 彼女と暮らすようになってからの毎日は、これまでの自分の生活からは想像もつかないほど、穏やかで暖かい日々だった。



「だから少しだけ、……後もう少しだけ、お前の飼い主でいさせてくれ」



 家族として愛していたのだと、そんな自覚を思い返すと再び涙が込み上げてきて、萬狩は、声を押し殺して泣いた。


 それから、どれぐらいの時間が経ったのだろう。


 窓から差し込む日差しの熱に気付いて、萬狩は急速に老いたようにも見える、睡眠不足交じりの泣き腫らした顔を持ち上げた。夜の明けた外の眩しさに目を細め、時刻を確認し、これから自分がしなければならない行動を、どうにか思い起こした。


 萬狩は涙の痕を頬に残したまま、重い手を持ち上げて、もう必要のなくなった電気ストーブの電源を落とした。

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