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七章 男達と老犬の十月(5)~鍋とプロポーズと老犬と~下

 鍋パーティーは、夜も早い時間に終了の運びとなった。古賀は恋人の車で来ており、帰りはアルコールの入っていない西野の運転であることを考慮して、早々の解散が決まったのだ。


 年長組である萬狩と仲村渠(なかんだかり)は、古賀を乗せた西野の車と、仲西が運転する原動付きバイクが出ていくのを、玄関先でシェリーと共に見送った。その姿が見えなくなると、仲村渠(なかんだかり)が、振っていた手をそっと降ろし「萬狩さん」と言った。


「大変でしょうが、シェリーちゃんには気を配ってあげて下さい。運動時間と歩行後の呼吸数、正常状態時の脈拍数と……少し気になっています」

「そうか……」


 仲村渠(なかんだかり)は曖昧に言葉を切ったが、萬狩は、彼が言わんとする事が分かっていた。


 しばらく沈黙が続いた後、仲村渠(なかんだかり)老人が星空を仰いだ。


「あなたが新しい飼い主で本当に良かったと、私は、そう思っています。彼女が、ここまで元気なのは奇跡ですよ、萬狩さん。多分、仲西君が担当になったあたりからずっと――ずっと、続いていた奇跡なのです」


 本来なら、このようにはしゃぎ回る事も、少し前にはもう見られなくなっていた姿なのだと、老人獣医は遠回しに語った。


 萬狩は、出会ったばかりの頃のシェリーを思い起こした。当初から老犬には体当たりをされていたし、ふわふわと妙な声で鳴いて、しばらくもしないうちにクッキーの味をしめていた。だから、……老人のように元気がなかった頃を想像する事の方が難しかった。


 ちらりと視線を下ろせば、笑うように舌を出している老犬シェリーと目が合った。そんな萬狩達の隣で、仲村渠(なかんだかり)は、独り言のように話した。


「サチエさんは、私がここで店を構えてから一番長い常連さんでした。実を言うと、弁護士の酒井(さかい)と私は、互いにサチエさんに惚れていた同士なのです」


 唐突な話題が耳に飛び込んできて、萬狩は思わず「は」と声を上げて、条件反射のように素早く老人獣医の方へ顔を向けていた。記憶違いでなければ、酒井という男は、この家を購入する際に会った気難しい顔をした弁護士だ。


「憧れていた、というべきなのでしょうかねぇ。酒井は犬を飼っていて、友人の紹介で私の店に来た古い客の一人でした。彼女は一回りも年上でしたし、早くに夫を亡くしたとはいえ一途な人でしたから、私達の事は弟のような扱いでして――結局のところ、私も酒井も、告白する前に玉砕してしまったのです」


 夜空を見上げている仲村渠(なかんだかり)の横顔には、愛おしい時代を思い出すような微笑が浮かんでいた。まるで夜空のどこかに、遠い過去が紛れているのかもしれないと探すようだった。


 萬狩は、なんと応えて良いか分からず、「そうか」とだけ相槌を打った。


「シェリーちゃんは、里親を探していた四匹兄弟のうちの一匹でした。二匹は早々に飼い主が見つかったのですが、残りの二匹は、なかなかもらい手が見付かりませんでした。ウチは孫が生まれたばかりで家族が反対して、それじゃあと名乗り出てくれたのが、酒井とサチエさんだったのです」


 話しながら、仲村渠(なかんだかり)が懐かしさに目を細めた。


「ゴールデンレトリーバーを飼っていた酒井が、オスの仔犬を。当時ペルシャ猫を飼っていたサチエさんが、うちの家なら広いからと、メスの仔犬を引き受けてくれました。彼女には子がいなかったものですから、まるで我が子のように可愛がっていましたよ」


 若かった獣医と弁護士は、互いに一人の未亡人に惹かれていた。それが憧れや親愛だと知って、互いが別の女性と結婚した後も、友好関係は暖かく穏やかに続いたのだろう。


 そう想像して萬狩が黙りこむ隣で、仲村渠(なかんだかり)は、独り言だと言わんばかりに勝手に話を続けた。


「サチエさんに病があると発覚したのが、それより少し前でしたかねぇ。一度発作で倒れた事もあって、私達は、頻繁に彼女の家を訪れるようにしていました。妻や友人にも、それとなく協力してもらって、独り身の彼女の家によく遊びに行きましたよ。そうしているうちに、シェリーちゃんもすっかり歳老いてしまって、どちらが先に逝ってもおかしくないと心配する者もいました」


 あの日は酒井が、彼の妻と共に訪問した時でした、と仲村渠(なかんだかり)はやや声量を落とした。


「サチエさんが、グランドピアノのある部屋で倒れているのを発見して、酒井が救急車を呼びました。私が駆け付けた時は、ちょうど彼女を乗せた救急車が病院に向けて出発したところでして、私は酒井夫婦と共に、救急車を追いかけるように病院へ向かったのです」


 一人身の女主人には、家族や親戚もなかった。戦争で全てを失って、ようやく巡り合えた愛しい男とも死別してしまったからだ。その男の方も、戦争で家族を失っていた身だったらしい。


 だから、賢く立派な中型犬がそばにいてくれる事を、周りの人間は心強く思っていたそうだ。ピアノの部屋で倒れていた日も、シェリーが酒井弁護士に駆け寄って激しく吠え、異変を知らせるようにその現場へ誘導したという。


「その時は大事には至りませんでしたが、しばらくは入院が必要だと医者は言いました。サチエさんは、『こんなの平気よ』と笑っていましたが、手術も出来ない身体でしたから、もしもの時の事も考えて、酒井に頼んで生前に出来る手続きを進めていました」


 萬狩は、なんとなく話の先が想像出来てしまった。


 ああそうか、と、彼女が不思議な条件を付けた理由を察せたような気がした。


「私達は彼女に頼まれた通り、彼女が戻るまでの間、シェリーちゃんの世話をしてくれる人や物を手配しました。きっと、いつものように短期入院だろうと思っていたのに、入院生活は一ヶ月、二ヶ月と続いて、……私と酒井が会いにいって『また明日』と告げた翌日、彼女は、あっさり一人で逝ってしまったのです」


 家を売り出したという小さな公告を出したところ、予想以上の希望者が「話を聞きたい」と殺到したそうだ。まずは、彼女と懇意にしていた不動産の仲村(なかむら)という、萬狩が最初に出会って話を聞いた男が振るいにかけ、次に弁護士の酒井が相手をして最終判断を下すという流れが取られた。


 彼女が大事にしていた老犬を預けるのだ。数よりも質だと、情報誌やサイトから物件情報を下げた後も、話を聞きたいとする希望者は後を絶たなかったらしい。たびたび、酒井から愚痴を聞かされたものだと、仲村渠は思い出しながら口にした。


「そうしている間に、サチエさんの三年忌もとっくに過ぎてしまいました。なかなか酒井も首を縦に振ってくれませんし、もう駄目かもしれないなぁと思っていたところ、購入者が決まったと連絡を受けました」


 それが貴方だったのです、と仲村渠(なかんだかり)は静かな口調で語った。


 萬狩は首を捻り、夜空へと目を戻した老人獣医の横顔を盗み見た。一体、自分はどこで良しと判断されたのだろうか。酒井と会った時にも、互いに睨みあうような顰め面でしか向かい合っていないので、不思議でならない。


「シェリーちゃんの兄弟も、先に全員亡くなってしまったぐらい、彼女は長く生きています。サチエさんが逝ってしまったタイミングで、彼女もだいぶ弱ってしまった時期がありましたから、私にとって今の状態は、まるで夢のような奇跡でもあるのです」


 あの愛想もない弁護士の、ちょっと失礼やしないかと思える態度に関しては、大事な友を失い、休む間もなく何十人と会ってきた疲労感でもあるのだろう。もしかしたら、誰よりも老犬を大切に見守っているのかもしれない。


 萬狩が家主になってから、酒井は老犬シェリーに会えてはいないのだ。それを考えると、少し後ろめたい気もした。


「……それは、なんだか済まない事をしたな。弁護士の――えぇと酒井さんも、きっと会いたがっているだろうに」

「いいえ、萬狩さん。彼は、シェリーちゃんまで見届ける勇気がないのです。だから、いつも私が話して聞かせてあげているのですよ。可笑しいでしょう? あんなに生意気だった男も、歳を取ると弱くなるものなのですよ」


 萬狩さん、あなたのお気持ちも分かりますよ――


 そう続けて、仲村渠(なかんだかり)がそこでようやく、穏やかな眼差しを萬狩へ向けた。


「あなたは、軽々しく彼女の名前を呼ばない。それは情を移してしまう事を、その先を見届けなければならない事も知っている、優しい人間だからこその葛藤なのでしょう」

「…………何度も言うように、あなたは、俺を買い被り過ぎなんだ」


 萬狩は思わず、感情を隠すために顔を顰めて見せた。


 途端に仲村渠(なかんだかり)が苦笑し、「買い被りなどではありませんよ。酒井の方も不器用な男ではありますが、あなたよりも長く生きていて、人を見る目は確かなんですから」と言った。



「本当は、悲しい未来の事を言いたくはありませんが――もし、最期の時が来たならば、その時は、互いの時間を大切になさって下さい。心臓が止まってしまっても、すぐに全てが途絶えるわけではないのだと、私はそう感じてもいるのです」



 仲西青年から聞いた、老人獣医との出会い話を思い出し、萬狩はチラリと視線を流し向けた。


「心臓が止まっても、聴覚といった感覚は生きていると、あなたはそう言いたいのか……?」

「そうです」


 仲村渠(なかんだかり)は、ハッキリと答えて先を続けた。


「不安でたまらない真っ暗闇を想像してごらんなさい。死とは、穏やかにゆっくりと進むものです。だからこそ、伝える事を恐れないで下さい。声と温もりを、死んでゆく者のために伝えてあげるのが、見送る者に出来る唯一の事でもあるのですよ、萬狩さん」


 仲村渠(なかんだかり)はそう言って、静かに言葉を切った。これまでに見送った大事な人との最期でも思い出したのか、皺だらけになった自身の小さな手を見降ろす。


 その時、シェリーが「ふわん」と上機嫌に鳴いた。


 なんでもないよと言うように暖かく微笑んで、仲村渠(なかんだかり)が彼女の頭を撫でた。シェリーは得意げに、付き合いの長い老人獣医の手に頭を押しつけた。


「本人の前でする話ではありませんでしたね。すみません、シェリーちゃん」

「ふわ、ふわぁ」

「おい。せめて返事をするか、欠伸をするのか、どっちかにしろ」

「ふふふ、構いませんよ。今日は、はしゃぎ疲れているのでしょう。長居をしてしまった私が悪いのです」


 仲村渠(なかんだかり)は、シェリーの頭にキスを一つ落とした。それから萬狩を振り返り、慣れたように会釈をした。


「今日は、素敵な時間をありがとうございました。仲西君の言葉を借りるならば、『また花火で楽しみましょう』」

「おい、俺は流されないぞ。あいつは花火だと限定していなかっただろう」

「あらら、バレちゃいましたか」

「そんなに鼠花火が好きなのか?」

「私もこんな歳ですが、心は少年のままですからねぇ。少年は、みんな鼠花火に夢中なのですよ」


 それでは、さようなら――


 そう言い残して、仲村渠(なかんだかり)は自分の車に乗り込んで帰っていった。萬狩は、すっかり見慣れてしまった仲村渠(なかんだかり)の車が傾斜を下っていくのを見届けた後、シェリーと共に家の中に戻った。

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