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七章 男達と老犬の十月(4)~届けられた物~

 鍋パーティーの日取りが四日後に迫った水曜日、自宅の古い郵便ポストに、一通の手紙が届いた。一体誰だろうと差し出し人を見たところで、萬狩は先日、次男の翔也にこちらの住所を教えた事を思い出した。


 手紙は、便箋二枚分に読みやすい筆記体で書かれていた。どうやら仲西青年は、いつの間にか翔也とも仲が良くなったようだ。手紙には、鍋パーティーの件を彼から聞いたとも記してあった。驚いたのは、それを知った長男の和也が、土曜日に届くよう鍋に使える肉類を先に注文したという内容である。


 珍しい事もあるものだなと、萬狩はシェリーが食事を食べ終わるのを待ちながら、リビングで翔也からの手紙を読み進めた。



『僕もそうだったけれど、今思えば、遠慮せずに話しかけていれば良かったなと、少しだけ仲西君を羨ましく思いました。彼、こっそり写真を撮っているみたいで、――あ、でも怒らないであげて下さいね』



 怒るも何も、萬狩はそれを当初から知っていた。


 仲西は最近、意識的か無意識か、シェリーと過ごす萬狩達の様子を写真で撮るようになっていた。彼は萬狩が気付いていないと思って「しめた」という顔で、いつもこっそりカメラを構えるのだ。勿論、萬狩はそれに気付いていて、仲村渠(なかんだかり)と共に知らない振りをして好きに撮影させていた。


 撮影されるのは苦手だと言っていた古賀も、仲西が堂々と「こっち向いて下さい」と笑顔でカメラを構えても、最近は拒否せず、不器用な笑みを浮かべて撮影に応じるようになっていた。その傍らには、いつも老犬シェリーの姿があった。


 分かっているのだ。


 老犬がいる当たり前の光景や、この時間が、永遠には続かない事を。


 だから少しでも多くの何かを、萬狩達は、急くように刻みつけようともしていた。今回の鍋パーティーもそうだ。仲西が定期訪問の月曜日だけでなく、引き続き木曜日の午前中から午後の早い時間まで居座っているのも、同じ事だった。



『僕らにとって、いつだってあなたは大き過ぎる存在だったから、幼いながらに迷惑を掛けないように、怒られないようにと考えていた節もあったと思います。なんだか、父さんと母さんが離婚して初めて、こうして対等に近い状態で話せるようになって、良かったなと感じるところもあるのです。


 でも、きっと誰よりも、兄さんがあなたを気に掛けているのではないのかな、とも感じています。以前兄さんに、父さんは不器用だけど、幼い頃一緒に過ごせる短い時間があったと話を聞きました。覚えていますか、一週間だけ犬を預かった事です。そこで過ごせる時間が、優しくて穏やかで、とても好きだったのだと教えられた事がありました』



 その文面を読み進めて、萬狩は、不覚にも少しだけ胸が熱くなった。友人から犬を預かり、一緒に散歩を行ったのは数える程度の日数だったというのに、長男はずっと覚えていたのだ。自分は、こちらの家に移り住んで思い出して程度だ。


 俺は一人の父親として、お前達に、一体何をしてやれただろうか?


 何故か、訳も分からず胸に苦しいものが込み上げて、萬狩は一度、手紙から目をそらして深呼吸をした。それから、落ち着いた心境で残りの文面を読み終えた。


 次男からの手紙をしまおうとした時、ふと、封筒内に小さなメモ用紙が置き忘れられている事に気付いた。何だろう、と思って取り出してみると、それは見覚えのある見事な達筆で、こう書かれていた。



『先生のサインをもらって、差し出し人宛ての住所に送ってちょうだい。

                            ――トキコ』


「…………」


 お前、そんなにハマっている漫画なのか……?


 忘れられるはずもない見慣れた元妻の走り書きに、萬狩は感傷も吹き飛んで、思わず沈黙してしまった。翔也は結局のところ、父親が現在暮らす住所を入手した件を、兄だけでなく、母親にも早々にバレてしまったらしい。


 まさか、元妻からこのような形で、再び連絡をもらうとは思っていなかった。しかし、まぁ罵倒でない事を考えると、ひとまずは安堵するべきなのかもしれない。


 脳裏に浮かぶ元妻の顔は、相変わらず、サイボーグのように若く美しい澄ました顔だった。離婚によって二人の関係が切れた事により、見えない何かが取り払われて憑き物が落ちてしまったのか、以前のような苛立ちは蘇らないでいる。


 萬狩としては、翔也と再会してこのように手紙をもらい、なおかつ元妻から走り書きの伝言まで来て、長男の和也が自分のために肉を送ってくれるという現状が、不思議でならないという思いもある。


 いや、そもそも、今の問題はそこではないのだ。


「翔也に、手紙の返事を書くべきなのか? その場合、俺はなんて書けばいいのだろうな……」


 しばらく書斎にこもって考えてみたが、綴るべき文字は、何も浮かんでこなかった。父親としてしっかりした手紙を書こうじゃないか、と身構えるほどに難しくなり、頭を悩ませているうちに時間だけが過ぎていった。


 萬狩は結局、名案が浮かんだら書こうと決めて、便箋を書斎の見える位置に置いておいてペンを片付けた。


              ※※※


 しばらくは雨の日が続いたが、鍋パーティー前日の土曜日は雨も止まり、雲の切れ目から時々青空が覗いた。


 午後を少し過ぎた頃、差し出し人の記載欄に『萬狩(まがり)和也(かずや)』と書かれた大きめの郵送箱が届いた。和也は、表情筋がないのではと当時の担任教師を不安にさせた、現在二十八歳になる萬狩の一番上の息子である。


 箱を開けてみると、六人以上はありそうな鍋用の肉が数種類入っていた。そこには何故か、『老犬用』と記載のある柔らかいペット菓子が一つと、折りたたまれた一枚のメモ用紙が付いていた。


 メモには長男の名前と、メールアドレスが記載されていた。萬狩は仕事の都合上、昔からパソコンのメールを主に利用していたので、すぐにそれがパソコン用のアドレスだと気付いた。


「……とはいえ、なんでアドレスを寄越してきたんだ?」


 他に用件の走り書きもないので、和也の意図が分からなかった。


 萬狩は、開けた箱を興味津々に覗きこむシェリーに、試しにそのペット菓子をあげてみた。すると、クッキーよりも美味しそうに食べてくれたので、そのアドレス宛てに、お礼のメールを送信してみる事にした。


 メールを送信して数分も経たず、驚くほど早くに返事が来た。そこには、『人気だから、それ』とだけ記されていた。仕事が出来て、ディベートも得意な息子だとは思えないほど、メールに記載された言葉はあっさりとしている。


 元々口数の少ない子だったが、まさかメールだと更に手抜きのような感じの文章になるとか、そういう感じじゃないよな?


 萬狩は、長男に対して初めて、一抹の不安を覚えた。まさかなと考え直し、「お前、犬でも飼っているのか?」とメールを返信してみると、またしても、すぐにメールが返ってきた。



『いずれ、飼いたいとずっと思っている。だから、知識は必要不可欠』



 萬狩は、そのメール文面を前に、ついに沈黙してしまった。


 こいつ、もしや会話文が駄目なタイプなのか? 


 変換は正しく利用されているが、萬狩は、自分が初めて電子メールを使った時の事を思い出してしまった。息子はまだ二十八歳であるし、その可能性はないとは思うが、面倒臭がりな一面でもあったのだろうかと悩ましげに首を捻る。


 結局、他に打つべき文章も見つからず、メールのやりとりは、そこで自然に終了となった。

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